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常体と敬体と富澤さんの話

noteやブログで定期的に文章を書いていこう、と思い立ったときに、いろいろなことを「決められる」人と「決めきれない」人がいるのだなあとこのごろ感じている。私は後者だな、ということも。

「いろいろなこと」というのは例えば、書いていくテーマであったり、セルフブランディングの方向性であったり。そもそもの、「書くこと」の目的であったり、目指す姿であったり。
もちろんnoteも他のブログも自由な場なので、決めなきゃいけないというわけでは全然ないし、決めないことで風通しがよく軽やかな空気を漂わせている人もいて、そういう人の書くものはとても素敵だ。

でも、そういうあれこれが決まっていると、その人が作る場所の色、みたいなものがぴしっと出て、かっこいい。「自分はこれについて書いていくのだ」という気概や、自分の「場」をきちんとコントロールしていこう、という矜持のようなものが見えて、すこしうらやましくなることがある。
うらやましく思いつつもなかなかその辺りの見通しが立たなくて、かといって「決めないということを決める」こともできなくて、場当たり的にふらふらと文章を書いている。

「決めきれない」ことのひとつが、文体だ。
常体(だ・である調)で書くのか、敬体(です・ます調)か、統一した方がひとつのコンテンツとして美しい。実際、お仕事で文章を書くときはそれが必須となっている。
つまり、人に読まれる前提で文章を書く、というときは、文体を統一するのがセオリーということ。
そんなことはよくわかっているはずなのに、私のnoteのアカウントはなんだかそのふたつが入り混じってしまっている。

今日までに公開している自分の記事を数えてみると、常体で書かれているものが23(この記事を含む)、敬体のものが14あった。
時期的には初期のほうが敬体の割合が高く、最近書いているものは圧倒的に常体の方が多い。

なぜこんな見栄えの悪いことになってしまっているのか。
ごく正直に告白すると、一方の文体で書き始めて筆が止まってしまう、ということがあるのだ。
今日はこれについて書こう、と思って敬体で書き始めると、なんだか進まない。◯◯でした、の、で、あたりで、どうしてもキーボードをたたく指がつっかかる。試しに常体にしてみると、なぜかすらすら言葉が出てくる。
そんなこと(あるいはその逆)を繰り返して、この統一感のない記事群はできあがっている。

敬体にしないと筆がノらない、と思うのは、何かをおすすめしたり、ちょっとこれ見て見て! 素敵!! と、紹介したりしたい時が多いようだ。

たとえば、購入した文房具のかわいさ。

あるいは、ドツボにはまった靴下。

法律の話は、内容的に常体だとかなり取っつきにくくなってしまわないかと心配で、途中から敬体に変えた覚えがある。

改めて見返すと、「宣伝」とか「すすめ」とか、誰かに見てもらうことを強く意識したタイトルのものが多い気がする。これも「レポ」である。

おそらく、何かよいものを人に伝えたい、紹介したいと強く思った=読む人のことを強く意識したとき、常体は私にとってハードルが高いのだと思う。
そういう時は誰かに話しかけるような気持ちで文章を書くことが多いので、普段の話し言葉とあまりにかけ離れている常体を使おうとすると、語尾の力強さに怯んでしまうのだろう。
敬体ならば話し言葉でもいわゆる「丁寧語」として使っているので、自然に「読んでくれる人」に話しかけられる。


その逆、常体でないと書けない、という時、事態はより深刻だ。
なにせ、敬体で書き始めると頭の中に富澤さんが出てきて文章の流れを阻む。ご存知、サンドウィッチマンの富澤さんである。

具体例を挙げよう。

昼休みに所在なくTwitterを遡っていたら、苺のイデアを発見してしまいました。

富澤さん「ちょっと何言ってるかわからない」

とりあえずビール、の、とりあえずって何なんだ、と思っていた時期があります。大学生のころの話です。

富澤さん「ちょっと何言ってるかわからない」

富澤さんのほかに、知らない関西人が出てくることもある。

再読する書籍の「あとがき」は読み飛ばすことが多いのですが、何事にも例外というものはあるもので、小野不由美「東の海神わだつみ 西の滄海」だけは、本編を読むたびにあとがきまで目を通さないと気が済みません。

イマジナリー関西人「知らんがな」

桜が咲くと、ぽん太を思い出します。

イマジナリー関西人「知らんがな」

こんな感じで、私のごく個人的な体験やとりとめない考えを書こうとすると、富澤さんや関西人に容赦なく混ぜっ返されることが多い(あくまで例えである)。

敬体の私(ということはつまり、普段リアルで社会生活を営んでいる私にわりと近い)はその混ぜっ返しに大層弱い。こんなこと書いても、誰も興味ないかしら。何言ってるかわかんないかしら。知らんがな、で終わってしまうかしら。
文章を書きながら、頭のどこかでうすうす「これはあんまり人から興味を持たれない記事かもな」と感じているとき――つまり、ネガティブな意味で読む人の目を意識してしまうとき――富澤さんは現れる。
そんなときは常体の、何というか、ゆるぎなさのようなものに力を借りたくなるのだと思う。

この文章もそうだ。「敬体で書き始めると頭の中に富澤さんが出てきて文章の流れを阻む」なんて、まさに「ちょっと何言ってるかわからない」し、「知らんがな」ではないか。
でも、書きたいので書く。もしかしたら、どこかにひとりくらい、面白いと思ってくれる人がいるかもしれないし。
「だ・である」調の、ちょっとした押しの強さを拝借すると、伊達さんみたいに「なんで何言ってるかわからないんだよ!」とツッコミを入れる気持ちでぐんぐん書ける気がする。

最近の投稿は常体がずいぶん多くなったな、と、数えてみながら改めて思った。
人に何かを伝えたい、というより、「書きたいことを書く」ほうにシフトしてきているのかもしれない。
常体で文章を書いていて、「偉そうに見えないかしら」と心配になることもあるのだけれど、「あ、また富澤さんと戦ってる」と思いながら、ご笑覧いただけるとうれしい。

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