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書く仕事がしたい、と思っていたけれど

書く仕事がしたい、と思っていた。ライターとか、作家とか、エッセイストとか。
どうやら自分は文章を書くことが好きで、苦にならないらしい、と気づいたころから、漠然と憧れていた。

けれども最近気づいたことには、私はいつの間にかとっくに「書く仕事」に就いていたようだ。


***


人事の仕事をはじめて丸10年が経つ(ということを認識すると、いつも眩暈がする)。
特に強い気持ちで希望した仕事ではない。営業や経理は自分には務まらなさそう、という、ほとんど消去法に近いような理由で就いた職種だった。

でも、ときどき思うのだ。これってあの、憧れていた「書く仕事」だよなあ、と。

はじめにそう気づいたのは、新しく導入するある制度についての説明資料を作っていたときだった。

大事な内容だけに、作るのには神経を使う。内容の大枠は一緒でも、誰に向けて書くかで情報の見せ方をがらりと変える必要があるのだ。
マネージャーに向けての資料は労務管理上の注意点や部下へのフォローに必要なケーススタディを盛り込まなければならないし、事業所で労務管理をしてくれている担当者向けには、これによって彼らの実務がどう変わるか、という点をわかりやすく補足しなければならない。逆に一般社員向けの資料にそんな内容を入れてしまうと、無用な混乱を生む。

いちばん難しいのは軽度の知的障がいを持つスタッフのための資料だった。当事者が最低限の意思表示をするために必要な情報を取捨選択したうえで、言葉はできる限りかみ砕き、しかも誤解を生まない一義的な表現で――支援員に助言を仰ぎながら資料をなんとか完成させたときには大きな達成感を覚え、そしてふと思った。
なんだか私、理想の「書く仕事」をしている気がする。

もちろんこのケースにおいて、私が作成したテキストに報酬が発生するわけではない。私の仕事にはその前工程である企画や調整事、後工程である運用実務も含まれていて、そのトータルでお給料を貰っている。
ライター、作家、エッセイスト。文句なしに「書く仕事」とみなされる肩書たちの共通点は、「書いた文章そのものに対して報酬が払われること」だと思う。その定義にのっとると、私の業務は言うまでもなく「書く仕事」ではない。

ならばなぜそんな風に思ったのか、と、私の中の「書く仕事がしたい」という願望を改めて因数分解してみた。するとどうやら、「文章で人に何かを伝えるのが好きで、やっていると楽しい」「だからどうせ仕事をするなら、文章をいっぱい書ける環境にいたい」という理屈らしかった。

なるほど。

ところで、書く仕事をしたい、もしくはすでにしている、という人にはいくつかパターンがあるように思う。
あるメッセージを多くの人に伝えるために書いている、というパターン。
クリエイティビティの発揮や自己表現の手段として書くことを選んだ、というパターン。
時間や場所に縛られない働きかたに魅力を感じて、というパターンも最近よく見るように思う。
あるいは、何か大きなものに突き動かされるように、書かずにはいられなくなってしまった、というパターン。

私はというと、そういう確固たる理由がないまま、「得意で好き、だからいっぱいやりたい」という気持ちだけで、書く仕事に憧れていたようだ。
けれど、ライターでなくても、小説家やエッセイストでなくても、思い返せば私は社会人になって以来、仕事で四六時中文章を書いている。上司や同僚への報連相。各所への依頼メール。議事録。人事規程の条文。採用面接や人事面談、ヒアリングの記録。お偉方へのレク資料。社内への各種周知文書。企画の提案資料。エトセトラエトセトラ。
なんだ。「いっぱい書ける環境」、叶えてんじゃん。

そんな文章誰でも書けるし、ちっとも面白そうじゃない、とおっしゃる向きもあろうが、真面目に向き合ってみるとこれがどうしてなかなか面白いのだ。

伝えなければいけない情報はなにか。緊急性や重要性はどの程度か。その文章を読む人はどういう立場で、どの程度の情報をすでに持っているのか。それを読んでもらうことで、実現したいことは何か。それらを考えつつ、最適な文章を組み立てる。メール一本に何十分もかけるわけにはいかないので、タイムアタック的な要素もある。複雑な説明をしなければならない、となると、億劫だな、と思うけれども、いざ書きだしてみればどんどん楽しくなってくる。

例えば小説を書きたい、という人や、書くことで自己表現をしたい、という人にとって、こういう事務的なテーマはやりたいこととは明らかに違うのだろう。
でも私の場合、「文章で人に何かを伝えたい」という欲求の、何か、はおおよそなんでもいい。それを構成するいろいろな要素をためつすがめつしながら、自分の持っている語彙の中からよさそうなものをひっぱりだして組み立てて、並べ替えたりいじくりまわしたり、その過程自体が楽しいのだ。「何か」はいわば、パズルゲームのお題。だから、なんでもそれなりに楽しめるし、複雑なものならなお面白い。そういうことなのだと思う。

それから、そういう風にしていると「あいつは文章を書くのが好きらしい」ということが周りに伝わるらしく、たまにテキスト仕事のほうからこちらに寄ってくる。
中には、いわゆるライティングにかなり近いものもあった。
例えば、新卒採用のホームページ向けに社員の仕事を紹介するインタビュー記事を書かせてもらったことがある。文系の社員はともかく、技術職の仕事はわけがわからなかったから、インタビュイーだけでなく関係部門の知り合いにもアポを取取り、技術の基礎について予習してから臨んだ。新入社員研修でお世話になった現場のおっちゃんに出来上がった記事を見せたら、「俺の仕事ってこんなにカッコよかったんか」と笑ってくれて、ガッツポーズをした。
その会社からはずいぶん前に退職してしまったけれど、件のホームページには今も、そのとき書いた文章がそのまま残っているらしい。

そういえば、当時の上司が大事なメールを送るときに校正を頼んでくれるのも、自分の文章が認められているようでうれしかった。
今の職場でも、同じような依頼をしてくれる人が最近複数出てきて、そのたびに懐かしい気分になる。

憧れていた「書く仕事」は青い鳥さながらに、すでに手の中にあったのだ。わかりやすい肩書がなくても、クリエイティブでキラキラじゃなくても、私の仕事は私にとっての「書く仕事」だ。
そう気づいて、とてもびっくりした。

そしてこれは、人事の仕事に限らない話だと思う。どの仕事にも、相手に何かを伝えなければいけない場面など山ほどあって、少なくともオフィスワーカーであれば、その手段として文章が選ばれることも山ほどあるはずだ。

ということは私は、だいたいどこに行っても書く仕事ができるということなのかしら。今のところ職種を変える予定はないけれど、そう考えるとなんとなく楽しい。
やりたい仕事、というとつい「職種」や「肩書」で考えがちだけれど、それをなぜやりたいのか? と自分の願望を解体してみると、案外思ってもない環境で夢が叶えられる可能性もあるのだなあ、と思った出来事だった。


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