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ゴジラの記憶 #28 「GODZILLA FINAL WARS」

これでシリーズ物としてのゴジラ映画もFINALである。確か、これも息子と見た。公開時息子は小4だったからまだまだOK。最後っちゅうことでハム太郎との併映もなくなり、音楽はあのキース・エマーソン!TOKIOの松岡君を始めとするキャストも微妙に豪華で、まあ要はお祭り映画なんですよね。怪獣が一杯出てくるのは、これで昭和シリーズを一旦終わらせるはずだった「怪獣総進撃」と同じノリで、映画全体としては、これに「怪獣大戦争」を混ぜたようなお話。特に、北村一輝演ずるX星人が「やっぱマグロ食ってるような奴はダメだ!」と、エメリッヒ版ゴジラに酷似した怪獣(この映画の中では”ZILAA”という)をディスった台詞は歴代シリーズの中でも忘れ難いものだろう。

ただ問題は、年季の入ったゴジラファンほど、これを単なる「お祭り映画」と受け止められなかったことなのだ。何か、「えっ、これで最後なの!?」って困惑してるというかもっと言えばゴジラファンである自分を馬鹿にされたと言うべきか。実際身の回りのゴジラファン、怪獣映画ファンにこの映画のことを聞いてもあまりいい顔をする人は居なかった。「お前らが観ていたゴジラってこんなものだったんだろう?ほれほれ」と言われているような、何か不快な顔が多かったのである。

これは一体どうしてなのだろう?作り手側のゴジラへのリスペクトが足りてなかったとは思えない。宝田明、水野久美、佐原健二の各氏といった昭和シリーズの常連も、単なるカメオ出演以上の役でキャスティングされているし、ニューギニアのあたりの空の色はそれこそ昭和シリーズを彷彿とさせるものであった。富士の裾野でゴジラがラドン、アンギラス、キングシーサーらとサッカーをしている図というのも、私的には何の問題もない。何と言ってもこちとら、ゴジラがシェーをするのを映画館で観ていたんだし。ただ、そのリスペクトが身も蓋も無かったのだと思う。

要は、この映画は、昭和シリーズ後期のゴジラを最大限にリスペクトしていたのだ。平成VSシリーズ以降のゴジラにみられる”善悪を超越した凄玉”イメージは持たせていたものの、その時期の象徴的な敵怪獣である「ガイガン」が中ボス的な役割で出ていたことが象徴するように、基本的には”侵略者から地球を守る”ヒーローだった。やっぱりゴジラは人類の脅威でないとダメなのである。

とは言え、スクリーンの中でゴジラが大暴れしていればとりあえず観に行ってしまうのが、怪獣映画ファンの悲しい性なのである。ただ、それだけだと大の大人が観に行くのはこっぱずかしいので、そこに「反核」や「地球環境」などのとってつけたようなメッセージを求めてしまう。その構図がそれまでのゴジラ映画を支えていたと、個人的には思うのである。そういう意味では、平成VS シリーズの最終作「ゴジラVSデストロイア」は理想的な最終作であった。ゴジラ映画にとってのメッセージは、要するに単なる建前、大きなお友達が映画館に足を運ぶための”口実”に過ぎないのだが、その”口実”がなければその大きなお友達でさえ、映画館に行きにくくなる。幾らジャニタレを主演にしようがミニスカ履いた菊川怜を必要以上にすっ転ばせようが、それは変わらない。

その所為もあってか、この映画の興行成績は「ゴジラ最後の戦い」と銘打つ割には寂しい数字であり、これ以降約10年間、アメリカ・レジェンダリー社で「GODZILLA」が作られるまでの間、スクリーンでゴジラの新作を観ることは無かったのだ。その頃は、まさか、まさかねぇ、ゴジラがアカデミー賞獲るとか思いもよらなかったけど。

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