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ゴジラの記憶#24 「ゴジラ×メガギラス G消滅作戦」


前回、特別編として「ゴジラ-1.0」のことを書いたけど、今回は元に戻って「ゴジラ×メガギラス G消滅作戦」である。この映画は2001年正月映画として2000年12月16日に公開された。この頃からゴジラ映画は(と、いうか映画全般を)シネコンで観るようになった。平成シリーズのように子どもが騒ぐこともなく、客席はまばらだったような記憶がある。ゴジラは東宝の顔であり看板であるということは今も昔も変わらないが、その思いが強すぎて、「ゴジラ」のことはデカくて、黒くて、怖いという事ぐらいしか知らない子どもやライトユーザーを巻き込むことができなかったのだろう。

だからか、ファンの間では結構評判は良かったのだが、興行的には苦戦することになる。そのせいか、次回作の「ゴジラ・モスラ・キングギドラ大怪獣総攻撃」からは劇場版「とっとこハム太郎」との併映になる。でも、よりによって、その第1作目が何であの「GMK」だったんだという気はなくもないが。

「よくできたフィクションは一つの大きな噓をつくために、99の小さなホント(らしいもの)を積み上げたものだ」というのはよく聞くことだ。例えば今度の「ゴジラ-1.0」は「ゴジラ」という一つの巨大な嘘はそのままに、その周辺を山崎貴監督なりの「ホント」らしいものでガッチリと固めている。この場合、「ホント」らしいことが本当に本当の事である必要はなく、スクリーンの上で本当の事に見えればよい。それに成功したからあの映画はあれだけヒットしていると思うのだ。

ところが、「ゴジラ×メガギラス G消滅作戦」はその大きな嘘が次から次に出てくるので、そういうことに慣れてない人はスクリーン上で何が起きているのか、分からなくなるだろう。曰く、新エネルギー、大阪への首都移転、ゴジラを消滅させるためのマイクロブラックホール、その影響で古代から現代にやってきたメガヌロン→メガニューラ→メガギラス。これだけ聞いても頭がクラクラするが、一番大きなことは、ゴジラが「既にある物」として取り扱われていることだろう。つまり、「ゴジラ」という一番大きな「フィクション」が、映画を作る上では説明不要の「事実」になっている。この映画に限らず「ミレニアム・シリーズ」では初代「ゴジラ」と同年代に「ゴジラ」と呼ばれる巨大生物が東京に上陸し、大損害を被った世界が前提になっている。いや、「ミレニアム・シリーズ」だけでなく、ストーリーの源流を遡れば、「平成VSシリーズ」も一緒である。

これは勿論、初代ゴジラへのリスペクトの現れなんだろうけど、どこかで作り手側の「分かるだろ?あのゴジラだよ?」という観客への甘えが無かっただろうか?また、ゴジラ・ファンと呼ばれる観客たちも、あの初代ゴジラの世界線の延長上にどういった世界を組み立てるのか、それぞれの監督の「ゴジラ論」をスクリーンで確認できるのは楽しいことである。でも、その楽しみは、作り手とファンとの間だけで成り立つものだ。その他のゴジラや怪獣にさほど興味がない一般映画ファンや映画館で映画を観るのは年一あるかないか、という超ライトな層には、正直言ってそんな事「どーでもいい」ことなのだ。そして、この一般映画ファンや超ライト層を置き去りにしたままでは、映画の興行収入はどんどん細っていくばかりなのである。

お分かりの通り、ここ二作の日本版ゴジラ映画では、ゴジラは最初から最後まで正体不明の巨大生物として扱われている。せいぜい推測ぐらいでしか正体は分からないなりに、被害を食い止めるためにはゴジラを何とかせねばならない。「シン・ゴジラ」はそれを現代の政治家や官僚が担い、「ゴジラ-1.0」では終戦直後のエアポケットのような日本で、戦争帰りの元兵士たちが活躍した。考えてみればものすごシンプルなプロットである。

でも、こうしたシンプルなものを手を抜かず映像化してスクリーンに掛ける。ヒットを狙う上で、これ以上のものは無いのかもしれない。

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