見出し画像

ゴジラの記憶 #20 ゴジラVSメカゴジラ

1993年公開。実は平成シリーズの中でも結構好きな方で、3回ぐらいは劇場に観に行っている。全体的に丸っこくなったメカゴジラのデザインは賛否両論だったけど、私は好きだった。特に、接合部にベアリングを使っている設定は「おおっ!!」と一人で受けていた。オリジナルの蛇腹よりスムーズに動けそうな気がするが、実戦ではビームとミサイルばかり撃っていて、あまり意味が無かったんじゃないかなぁ・・・というのは、言わない約束です。それと、ラドンが出てくるのだが、そのラドンまでがビームを発射してるというのも・・・それも言わない約束です。

でも、前作の「ゴジラVSモスラ」まではボチボチ足を運んでいた一般の映画ファンが、この作品を境に、ゴジラ映画、怪獣映画から足が遠のき始めたような気がするのですよ。原因は、演出とか脚本とかビームとかにあるのではないと思う。1993年から始まった、あの超有名シリーズ、そう、ティラノザウルスがでてくる、スピルバーグ監督の、アレが原因だと思っている。このシリーズが日本の特撮にもたらしたダメージは結構大きかった。「ジュラシック・ショック」と言っていいのかもしれない。この映画の出現で、ゴジラ映画、怪獣映画はSFではなくなったと思うのである。

昭和から平成に入るあたりまでは、ティラノザウルスは巨大な尻尾を地面に引きずり、それでバランスを取りながら2足の直立歩行でノッシノッシと歩く、ゴジラと同じような歩き方だった。恐竜図鑑にもその体で載っており、その点でゴジラは「太古の恐竜の生き残りが、人類の核実験によって巨大兇暴化した」というSF的設定をクリアしていたのだ。ところが、当時の最新の研究成果から、恐竜は爬虫類よりも鳥類に近く、ティラノザウルスは、むしろ前傾姿勢のつま先立ちで、トットットいう風に歩くようになった。これが何が一番困るかというと、着ぐるみの中に人が入るということで対応できなくなったことだ。じゃあ、ゴジラは一体何なのだ、今まで恐竜の生き残りと信じていたあの生物は何だったんだ、ということになり、ゴジラは「ゴジラ」としか言いようがなくなったのである。

実はこの映画、平成シリーズのなかでもSF的設定は結構入れていて、メカゴジラは前々作の「VSキングギドラ」で海に落ちたメカキングギドラを引き揚げ(特撮映画の人達は何でも海から引き揚げちゃうのだ)、未来人のロボット工学を徹底的に分析して作ったものだったとか、ゴジラが卵をラドンに「托卵」して、そこからベビーゴジラが生まれるとか、色々あるのだけど、「ジュラシックパーク」を観た一般映画ファンからの、「何だかんだ言っても結局着ぐるみの都合じゃねぇの?」というツッコミは跳ね返せなかった。この時点より、ファミリームービーの地位を確立したかに見えたゴジラ映画から、一般の映画ファンがそっぽを向き始めたという気がしてならない。

平成シリーズも、そりゃ最終作の「VSデストロイア」は、「ゴジラ死す」というキャッチコピーで救われたけど、ゴジラシリーズ自体の動員は、次の「ミレニアシリーズ」にかけて落ち続けて行く。影響は他の怪獣にも及び、この2年後から始まる「平成ガメラシリーズ」は、映画単体で観ても、あれだけ面白く、「1」は怪獣映画としては異例のキネマ旬報年間ベスト10入りし、「2」は日本SF大賞を取ったにも関わらず、興行的にはあまりパッとしなかった。やっぱり、映画の中身云々よりも、そこに居るのがガメラやギャオスだったからではないのだろうか。この頃私は「なんでアメコミのヒーローや恐竜が出てくる映画はいいのに、『怪獣映画』はダメなんだろう」と思っていたのだけど、結局のところ、「怪獣」=SFではない=子ども向けという線引きがなされていたんじゃないかと思う。で、その肝心の子どもも他に魅力的なコンテンツがあるのであまり観に行かない。で、興行的には細るばかりだったのだろう。

本来、ゴジラシリーズは、この映画で一旦打ち止めとする予定だったらしく、前2作のように縛り付けられての強制退場ではなく、ベビーと一緒に海を渡っていくという去り方もシリーズの幕引きっぽい。しかし、実際はハリウッド版ゴジラの制作の遅れにより、あと2作、平成VSシリーズは続くことになる。もし、本当にここで終わる事ができればなあと思わんでもないが、そうなると「VSデストロイア」でのゴジラの最期も観られないしなあ、難しいところである。

いずれにせよ、この映画から、日本のゴジラは長い終わりの始まりに入ってしまった。そこから脱却し、リスタートするには、2016年の「シン・ゴジラ」の登場を待たなければならなかったのである。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?