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ゴジラの記憶 #19 「ゴジラVSモスラ」

1992年公開。この映画の頃はシネコンはまだなく、いわゆる街の映画館で観ていた。これも、劇場で2回は観ているはずである。

で、この頃になると、ゴジラシリーズは完全に、寅さんと並ぶ日本の正月の顔として定着していた。寅さんが何処にあらわれるかがそうであるように、今度のゴジラはどんな怪獣と戦って、どんな建物をぶっ壊すのかが話題になる。そして大抵の場合、出来たばかりの有名建築物が標的になるという事で、「みなとみらい21」が最終決戦の場であった。そして、今回は「バトラ」という新怪獣が出ていて、そっちが最初に襲うのは、昭和の「モスラ対ゴジラ」でゴジラが破壊した名古屋の街だったのである。

しかし、全国あちこち巡り歩いて行った先で騒動を繰り広げるといっても、ゴジラと寅さんではベクトルが真逆である。即ち、寅さんの場合、どこかの地方都市でマドンナと知り合った後、ふらりと柴又に帰り、多くの場合、それをマドンナが追いかけてくるというとこからドラマが始まる。つまり、さくらを始めとする柴又の人達は基本的に動かない。だがゴジラの場合、街や建造物の方に出向かなければならないので、クライマックス時その場にいるために、人間側の登場人物も移動する。そのため、職業もその場にいておかしくない、軍人、科学者、ジャーナリストが三大職業になる。しかも、場所が動くだけならまだしも、シナリオの都合により、キャラさえ変わってしまうことがある。これは怪獣映画というものが持つ宿命なのかもしれない。

この「ゴジラVSモスラ」の場合もそうであって、本来主人公サイドであるはずの別所哲也の役が、途中で小美人をアメリカ政府に売り渡そうとする。いくら、別れた娘や妻とやり直すための資金作りとは言え、それはないよ~。結局、娘の説得で改心して、売り渡すことはなかったんだけど、いくらなんでも酷くねぇ?という具合に、公開当時は「キャラ変では?」と突っ込む声も多々あったように記憶している。元々、昭和のモスラでは、小美人を見世物にする悪徳プロモーターとか悪徳興行社とかいう、はっきりした悪役がいて、彼らにはそれ相応の悲惨な最期が用意されていた。

今作でその役割を担うのは本来大竹まこと演じるデベロッパーの社長なのだろうけど、彼は昭和で言えば「モスラ対ゴジラ」のハッピー興行というよりは、「キングコング対ゴジラ」の多胡部長のような趣があり、どこか憎めなかった。そのあたりもあったのか、役割を分散させたためなのか、この映画の別所哲也は、インディ・ジョーンズもどきだったり、一見、チャランポランであって実は娘思いの良きパパであったり、でも小美人を売り渡そうとする映画的には極悪なことやったりと、中々に忙しい役なのであった。

映画自体はいわゆる「怪獣プロレス」を嫌った川北特撮監督の好みもあり、光線技主体の派手な画作りで(何と言ってもあのモスラでさえ光線を発射する!)、興行的にも、「シン・ゴジラ」が出てくるまで平成以降では1、2を争うヒット作となった。シリーズを続ける以上、ゴジラを完全に死なせるわけにもいかず、戦いの最後は前作に引き続いて海に運搬してお引き取り願うというものになった。看板俳優をそうそうアッサリと死なせるわけにはいかない。この時期、「ゴジラ」は間違いなく日本映画界のトップスターだったのである。


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