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モスクワで年を越した1999年

窓から外をガラス越しに見る。
枯れた木が風に揺られている。
蝿がブンブンいう音と木のはぜる音、カセットのブーンという音。
またロシアで新年を迎えた。
一歩外に出ると砂漠にいるような静けさが漂う中、じっと立ち尽くすことになる。
冬だ。
2000年はこんなふうに自分と向き合う年になるんだろうか。

2000年の日記より


こんなことが書かれたノートを見つけた。そう、2000年問題とやらが騒がれていた年越しはプスコフという、これまたよくわからない場所で年を越していたのだ。2000年問題とは、西暦2000年になるとコンピュータが誤作動する可能性があると騒がれた問題である。

プスコフ州はエストニアの国境近くにあり、モスクワからだと車で8時間ほど西に行った場所にある。今ならグーグルマップですぐに位置が確認できるのだけれど、当時はこんな具合だった。あれは確か初めてプスコフに行ったある夏のことだ。

・・・

「友達のダーチァに行くよ。プスコフっていうところにあるんだけど。」

「プスコフ?」

「そう。電車とヒッチハイクで行く感じかなぁ。」

(そっか、それならせいぜい数時間くらいの場所にあるんだろう)

相手は広大なロシアに住むロシア人である。彼らの距離感はドイツ人のそれより遥かにおかしい。国のスケールが違うため、「ちょっとそこまで」の感覚が日本人とは大きくかけ離れている。

そんなわけで、あまりよく考えずに同行し、これは様子がおかしい、と道中で気づいたところで簡単に引き返せるわけもなく。安易に行く、とうなずいた自分を軽く恨んだところで後の祭りである。もう少し人の話をよく聞いたり、行き先くらい調べて臨んだ方がいいのだろう。

(こんな辺鄙なところで仮に遭難しても一生見つからんだろうなぁ。それより帰りのベルリン行きの飛行機に間に合うんだろうか。)

といった恐ろしい考えがちらっと浮かんでは消え、そのうち霧のように跡形もなく溶けてしまった。人間、乗り掛かった船からは降りられないし、諦めが肝心なこともある。

やたらとガタガタ軋む近距離だか長距離列車だかに乗り、これまたよくわからないどこかの駅で降りる。ヒッチハイクをしようにも、そもそも車そのものがなかなか通らない辺鄙な場所だった。何時間か歩いた末に通り過ぎようとした軽トラックに乗り、途中で降ろされ、また通りかかった自家用車に乗り。

・・・

結局あの日は10キロ以上歩いたんじゃないだろうか。もう記憶も定かではないが、駅のそばにあった場末の食堂のようなところで軽食を摂ったのはかろうじて覚えている。やたらと視線を感じたが、まぁそれも仕方のないことだ。日本人なんてこれまでに誰も来たことがないような辺鄙な場所だったのだから。

ああいう、訳のわからない旅をもう随分としていないし、おそらくもう今後する機会もなさそうだ。今の旅は多かれ少なかれ全てお膳立てされていて、予測不可能な事態というものが起こりにくい。プスコフがどこにあるのかということも瞬時にわかってしまう。

そんな2度目のプスコフ行きは真冬だった。真冬なので列車で行けるだけ行って、駅からはタクシーというか地元の人が運転する車に乗せてもらった。

「じゃあ、帰りはこの日の午後3時で。」

口約束だけだし、この人が来なかったら間違いなく帰れないよな。2度目のプスコフでもそんなことを考えていた。

「一体全体、こんなところで何をやっているんだろう。」

極寒の森の中をひとりで掘建小屋に向かって歩きながら、心底不思議に思ったりもした。シヴィライゼーションのかけらもないどこかの森の中。ここで私が煙のように姿を消したらどうなるのだろうか。

今でもダーチャのあったあの集落にはネットが使える環境など整っていないことだろう。今だからこそ、また行ってみたい場所なのかもしれない。




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