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カーン・トリップとマエストロ

これまで様々な土地を旅してきたが、特定の食事を最大の目的として訪れたのはこの街だけかもしれない。
今回取り上げるのは、フランス北西部の街・カーンである。

カーンはこんな街

カーン(Caen、カンとも表記される)は、フランス・ノルマンディー地方カルヴァドス県に位置する人口約11万人の街である。
10世紀ごろからこの土地を支配したノルマンディー公のもとで城下町として大きく発展した。
第二次世界大戦終盤には、連合国によるノルマンディー上陸作戦の舞台ともなり、ドイツ軍との激しい戦闘により街は大きな被害を受けたものの、14年の歳月を費やした再建の末に活力を取り戻し、今に至っている。


カン風トリップ。

私がカーンについて予め知っていた情報といえば、文字にしてたったその7文字であった。

カーンでの最大の目的というのが、そのカン風トリップという料理を食べる、ということだ。

イギリス駐在中、最後の旅の目的地としてノルマンディーを選んだ私は、最大の目的であるトゥルーヴィルを訪れた後、イギリスへと戻るフェリーに乗るべく、カーンの港へと向かう必要があった。

カーンの港は街からバスで30分ほど離れている。
そのため、街を素通りしてフェリーターミナルに向かうという選択肢もあり得たが、記憶にあるその7文字が私をカーンの中心部へと降り立たせたのだ。

カーンの駅から街の中心へは徒歩にして15分ほどの距離である。
歩みを進めていき、正面に大きな教会が見えてくればそのあたりが観光のスタートラインである。

13-16世紀にかけて建設されたこのサンピエール教会も第二次世界大戦で大きな被害を受けたものの、その後再建され、ゴシック様式の美しい姿を取り戻している。

さらに歩みを進めると、カーン城がその巨大な姿を現す。

11世紀の中ごろにノルマンディー公ウィリアム征服王によって築かれた城は、現在では城壁を残すのみであるが、その広大さは西ヨーロッパ最大級の規模を誇っている。

また、やや高台に築かれた城壁からはカーンの街並みを眺めることも可能だ。

街には他にも第二次大戦の戦禍を免れた修道院などの見所があるが、船の時間を勘案すると残された時間は少ない。

観光はそこそこにレストランの立ち並ぶエリアへと向かった。

カン風トリップを扱っているレストランを探す。
しかし意外なほど取り扱っている店が少なかった。名物といいつつも、それはもはや過去のものなのだろうか。
何軒目かの店のメニューにようやくカン風トリップ(Tripes à la mode de Caen)の文字を見つけることができた。
Google Mapの評価が低いことが気になったものの、腹をくくって入店を決めた。

屋外のテラス席で前菜を食べながら、カン風トリップの到着を待つ。

お供とするのはこの地方の名物でもあるリンゴの酒・シードルだ。

シードル(Cidre)といえばフランスのみならず、イギリスでもサイダー(Cider)として極めて一般的に親しまれている。
どこのパブでもビールと並んでサイダーのタップが用意され、数えきれないほど楽しんだものであるが、フランスで飲むシードルは、イギリスで飲むそれよりもずっと美味しいような気がした。

完璧の向こう側

さて、ここでそろそろ私がなぜ「カン風トリップ」という決して超定番というわけでもないフランス料理を求めていたのかについて語ってみよう。
それにはある漫画の影響があった。

時はカーン訪問からさらに5年以上さかのぼり、まだ私が学生であった頃、私が所属していたサークル内で漫画「ソムリエ」が流行したことがあった。
ソムリエはドラマ化もされた作品であるが、当時とうに連載は終了していた。しかし、誰かが部室に単行本を持ち込み、暇を持て余す部員がそれを見逃すはずもなく、おそらくほぼ全員が読破する運びとなった。

私のワインに関する知識の多くはこの漫画から得られたものであり、特に「ゲヴュルツトラミナーがスパイシーな香りのする白ワインである」ということと並んで記憶に刻まれたのが、表題の「カン風トリップという料理がある」である。

ゲヴュルツトラミナーを飲む機会が未だ訪れていない以上、ソムリエで得た知識が唯一活きた瞬間が、この瞬間だったのかもしれない。

そうこうしているうちに、ついにカン風トリップがサーブされた。

カン風トリップとは、つまるところモツ煮込みである。
牛の4つの胃の総称であるトリップをノルマンディーの名産であるカルヴァドス(リンゴの蒸留酒)や香辛料とともに煮込んだ料理が、地名を冠してカン風トリップと呼ばれているわけだ。

フランス料理と聞いて想像しがちな重厚な味付けではなく、いかにも郷土料理といった素朴な味わいの逸品だ。
フリット(ポテトフライ)との相性もなかなかで、Google Mapの低評価の不安を払しょくさせてくれるものであった。

漫画「ソムリエ」の中でこんなエピソードがあった。

主人公のソムリエ・佐竹城が勤めるフレンチレストラン・ラメールに、10年ぶりの世界公演で日本を訪れている名指揮者ペール・ブレイズが訪れ、2日間の夕食を提供することになった。

気難しいことでも有名なブレイズに対して、最高級のワインや料理を当然提供すべきと考える支配人たちをよそに、城はヴァン・ド・ターブル(家庭で飲まれる大衆的なワイン)をコップに注いで提供する。

ブレイズがノルマンディーの貧しい家庭出身であることを知っていた城は、あえて若いころ味わったであろう家庭の食卓を再現してもてなしたのである。ブレイズはそのサービスに満足し、日本を再訪する際はまたこの店に来ることを約束する。

漫画「ソムリエ」4巻 vintage45 「完璧の向こう側」集英社文庫より

その際、安ワインとともに料理として提供されたのが「カン風トリップ」である。
つまりカン風トリップとは家庭料理の代表格的なものであり、ひょっとしたら本来レストランなどであまり食べるものではないため、扱われている店が多くなかったのかもしれない。
しかし、フランスの家庭の味を感じられる貴重な晩餐だったといえるだろう。

ただ、これを書いていて思ったことであるが、なぜソムリエに影響されてカン風トリップを食べたにも関わらず、飲料としてワインではなくシードルを注文してしまったのだろうか、ということがいまさら悔やまれる。
ブレイズのように食べるのであれば、ブレイズのように飲むことまですべきだった。そうすれば完璧だったのに。

カーンのマグネット

カーンのマグネットがこちら。

カーンを代表する歴史的建造物の1つ、男子修道院が描かれている。親族結婚をしたことによって法王から破門されてしまったウィリアム征服王がその怒りを解くために1066年に創設した修道院であり、現在は市庁舎として使われているそうである。

Thomas Hirsch uploaded by Ravn - 投稿者自身による著作物, CC 表示-継承 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=441104による

言っていない場所のデザインというのはどうなのかという説もあるが、ツーリストインフォメーションで販売されていたマグネットがこれしかなかったと記憶しており、このチョイスとなった。


ところで、漫画「ソムリエ」でくだんのエピソードの終わり、ブレイズは城に、自分が10年間公演を行わなかった理由を語る。
完璧な演奏を追い求めるあまり楽団の演奏に納得がいかなくなったブレイズは公演をやめてしまった。そして10年間悩み続けたが、完璧な演奏など存在しないのだということを悟り、再びタクトを執ることができたという。

完璧と思えた時、それは実はスタートに過ぎない
ブレイズは城にそう告げる。


そう考えれば、トリップを完璧に体験できなかった私は、スタートラインにすらたどり着けていなかった、ということになる。
でも、それでいいのかもしれない。
またいつの日かカーンの地でトリップと安ワインを味わったとき、スタートラインへと立つことができるような気がする。


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