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【#サウナ】は"人生"そのものだった––。『サ道』に見る「子から大人へ」の成長譚。

先日書いた、僕のサウナの始まりの物語を読んでくれたでしょうか。5月に入ってからというもの、すでに1ヶ月以上(!!)もマルシンに行っていない僕なのですが、心の支えともう言うべき傑作ドラマ『サ道』を見て擬似「整い」をしている真っ最中です。

そんな「整い」をもたらしてくれている『サ道』なのですが、2回目を見るにあたって「サウナは人生そのもの」というストーリーが、より一層くっきりみえました。

そういうこともあって今回の記事、書いていきたいと思います。

前回の記事はコチラ

『サ道』について

まずは簡単に、原作の『サ道』をご紹介します。

原作は、講談社より出版のタナカカツキ氏による『マンガ サ道〜マンガで読むサウナ道〜』です。

「公益財団法人日本サウナ・スパ協会」という、由緒正しき団体から「サウナ大使」に認定されているタナカカツキ氏による、サウナにどっぷりハマる個性的な「サウナー」の日常が描かれた漫画なのです。

個性的なキャラクターと、さまざまな特徴や表情を見せるサウナの数々を主人公が旅する物語だけにあらず、サウナの入り方や嗜み方、サウナから見る人生観が詰まった素晴らしい作品です。

また、ドラマは2019年7月よりテレビ東京で放映開始されており、現在ではAmazon Primeで見ることができます。

あらすじは、サウナの気持ちよさを知ってしまった主人公、原田 泰造演じるナカタアツロウが、偶然さん(三宅 弘城)、イケメン蒸し男(磯村 勇斗)くんたちとともに、サウナのある日常や個性的なサウナについて語りあうものになっています。

各話から紐解かれるサウナの「テーマ」

実際ネタバレ(?)ありなので、まだ見ていない方はご容赦を。ただ、この記事読んでもラストには触れないので、ネタバレ気にしない方は、そのままで大丈夫です。

では、ここで各話を振り返ってみましょう。

1話目。

主人公のナカタはふと思い立って、家近くの銭湯に赴く。そこは古き良き昭和の息遣いの残った銭湯で、シャワーで身体を清めた後、湯船に浸かり、考え事をしていた。遠くに目をやると、サウナが映った。

サウナを見て、ナカタは幼少の頃に思いを馳せる。父親が小さきナカタをおいて複数の汗だくのおじさんたちと肩を並べて座っている。

仄暗く橙色に染まっている熱せられた部屋を見るのを飽きてしまったナカタ少年は、父親を待つのになんとか暇を潰そうと、浴槽に浸かりすぎては、よくのぼせたものだった…。そんな幼き頃の記憶を思い出していた。

あの頃は入れなかったけど、今はどうだろう。

少しの勇気を振り絞り、サウナ室へ足を運ぶ。分厚い木の扉を開けると一人の男が”Z”と書かれたタオルを腰に巻いて座っていた。

ナカタは、”Z”のタオルの持ち主を、師と見立てて、彼の行動パターンに剃ってサウナ→水風呂→休憩のルーティンを行った。

彼はサウナの虜になった。その後も足繁くサウナに通うナカタ。

ある日、ナカタは「整い」の魅力に惑わされ、水風呂に入りすぎ、強いめまいを起こしてしまう。それは完全に結構が激しくなってしまったためだった。

そんな時、”Z”のタオルを巻いた師ともいうべき、蒸し”Z”に助けられる。

「サウナを信じるな」

そう蒸し”Z”は言い残し、ナカタに”Z”のタオルをかけ去っていってしまった。意味深な発言をした蒸し”Z”のことが気になり、ナカタは彼を全孤高のサウナを巡って探しに行くのであった…。

1話目のあらすじをがっつり書きましたが、それには理由があります。

ナカタは自分の過去の記憶で、幼少のころ気にはなっていたが聖域として入れなかったサウナを「大人」の世界と捉えていました。そんな大人の世界に踏み入れることで彼はサウナーになっていくのですが、この大人の世界に入ったことによって、より一層倒錯的に、無垢で自由、子供らしい無邪気なサウナの世界に入るのです。

そして、2話目はプールのように泳げる水風呂で知られる、名店「ニューウイング」。サウナは「遊び場」と主人が言う、そんなサウナフロアで彼は童心に還り、水風呂に潜り泳いでいく。

3話目は「吉の湯」。水風呂を楽しんでいる最中、サウナフロアの仕組みに気がつき、その効率的な構造に驚いたと思いきや、彼の脳内では小学校の時の思い出が駆け巡る。気づけば涙し、整う。

4話目、伝説の熱波師、エレガント渡会さんの回。サウナは「愛人」。大人の世界へと階段を上っていくように、サウナを表す言葉が変容していく。

5話目、惜しむらくは閉店してしまった「太古の湯 グリーンサウナ」。サウナテントで、名前も知らない人と交流し中を深めていく。"ラブ&サウナ&ピース"。愛と平和、そしてサウナ。サウナで社会性を獲得していく。

6話目は堂々のサウナーの聖地「しきじ」が登場。オーナーの娘さんから、サウナは生活に「必要不可欠なもの」と語る。「生きる」こととサウナが一体化していく。

7話目はサウナ界のゴッドファーザーこと米田さんが登場する、「ウェルビー栄」回。米田さんにとってサウナは「すべて」。そう語るゴッドファーザーは、サウナを「人生」に例える。

「サウナは人生。整う時もあるし、整わない時もある。整わない時は、整うための準備でしかない」と捉えるゴッドファーザー。彼の人生を達観視したそのアティチュードはナカタ氏にとっては、ある種「過去から受け継いで来た社会のルール、知恵や文化を与えるのが父性性」とするならば、まさにそれ、だったのではないでしょうか。

そして飛んで9話目。「大磯ロングビーチ」回。偶然さんが接待でサウナ嫌いの先方に逆らえず「サウナなんて、」と否定する回。彼は「嘘つきは泥棒の始まりなんだ」と思いながらも、時には辛くも嘘をついてやり過ごすしかない時があるとサウナー仲間に慰められる。そんな時、彼は大人の世界を私たちに見せてくれるのでした。

神回、10話目。僕のサ道でも紹介した、「マルシンスパ」回。職場でも先方と部下に挟まれて二進も三進もいかず、家庭にすらも居場所がない冴えないサラリーマン演じる荒川良々さんの名演。

マルシンのゆったりとしたサウナと、大きな水風呂、そして都会を見下ろす外気浴で整ってしまえば、部下に罵られたことも、嫁に強く言われた悲しい一言も、忘れてしまうのです。

最後には、ナカタ氏や偶然さんと知り合うことになり、サウナー同士の居場所を見つけます。人は、「居ていいよ」と言われると、なんとも嬉しい生き物。逆に言えば、居場所がないと生きていくことのできない生き物なんだと気付かされます

(余談ですが、荒川良々さんには実際にマルシンスパでお会いしたことがあります。実際に入られている方とあって、素晴らしいマルシンへの追体験をさせていただきました。)

11話目。西の聖地、「湯らっくす」回。なかなか整うことができなくなってしまったナカタ氏。彼は、整う方法を知っているはずだと、熊本県まで蒸しZを追いにやってきた。素晴らしい施設と空間、サウナ。そこでも整うことができないナカタ氏。そこで彼は蒸しZの幻影を見るのでした。

12話目。ナカタ氏は山口百恵のようにマイクをヴィヒタに換えて、置き去り、サウナーを引退しようと決意するが、湯らっくすの社長に話を聞いたことで考えが変わっていく。サウナは、サクラダファミリアのようなものーーずっと作り続けていきたいのです。サウナは、終わらない。サウナは、無になれる場所。整うとき、整おうと思って入っているわけではない。人生の余韻を楽しむのだーー。

ナカタ氏には走馬灯が見えた。蒸しZが語りかけている。

整う、それは言葉だ。特別な状態を追い求めてはいけない。幸せを求めることが、そもそも幸せではない状態を示すのだ。サウナはただの安らぎと喜び。それ以上を求めるなら…あるがままにーー。」

大人になると、どうしても何かと比べて自分はどうだとか、あれはいい悪いなどと判断してしまう。それはサウナにおいても考えてしまうのではないでしょうか。いいサウナ、悪いサウナ。整う人、整わない人。

無になる。比べず、己を信じる。自分のうちを覗く。内省する。解放する。自然と共になる。自分も、他者も許す。

サウナはそんな、人生にとって、大人になればなるほど受容し難いことを教えてくれるのでした。

サウナを味わい、人生を味わう

僕は正直、サウナ歴もそこまで長くありません。水風呂も入れるようになったのは先日の記事の通りごく最近です。

しかし、サウナは人生においてかけがえのないものだと認識しています。

それは、整う気持ち良さももちろんありますが、何より常世から一歩抜け出して、裸一貫生身で自分の心と向き合い、嫌なことも辛いことも、汗と一緒に流してしまうことができるからです。

そして水風呂で一気に心を引き締め、外気浴で自然と一体になれる開放感。

人生の多くは辛いことや悲しいこと、心ないことで占められているかもしれません。でもその後には、水風呂と外気浴が待っているように、素敵なことが待っていると信じています。

マルシンスパへの思いを馳せながら、家サウナの準備へといそしむのでした。

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