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シモキタの話と「街」の捉え方

【変わるシモキタ、変わらないシモキタ】

梅雨明け後の炎天下、わけもなく自転車で走り回りたくなって、理由もなく下北沢に向かった。四年間通ったキャンパスが近いこともあって、幾度となく訪れた思い出深い街だ。

池ノ上方面から茶沢通りを越え、駅前の商店街まで走ってきて、その変わりように驚く。

よく使ったバンドスタジオや古着屋が、どれも見覚えのない店にとって代わっている。街の新陳代謝が、普通よりもだいぶ早く進んでいるらしい。

「新陳代謝」というと「古い角質が落ちて新しい皮膚が現れる」というような意味を想起させる言葉だが、この変わりようは、久々に会った人の目の色が黒から青になっていた、とか、口元に深く刻まれていたはずの皺がきれいさっぱりなくなっていた、くらいの違和感を与えてくる。なにしろ街の中心に位置する下北沢の駅ですら、僕が学生だった頃の面影をほとんど(というか全く)失っているのだ。

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(旧駅舎と新駅舎。定点比較ではないが、もはや定点をどこに置くべきか見定められないくらい変わっている)

でも一方で、街そのもの、そしてそこに集まってくる人々が一体となって醸し出す雰囲気は、六年前と何も変わらないように感じられる。

個々の店は違えど、相変わらず怪しげな雑貨屋や斜に構えたカレー屋なんかがひしめき合っているし、相変わらず細野晴臣を聞いていそうなベレー帽の女やら、二日に一回は村上春樹の話をしていそうなワイドパンツに丸眼鏡の男で溢れている。

様変わりしたし、変わってない。一体、僕は何をもって街の新陳代謝と変化を感じ、何をもって「それでも変わらないシモキタだ」と感じたのだろうか。これを考えていくために、少し下北沢からは離れて寄り道をし、建築デザインを構成するいくつかの要件について考えてみたい。

【デザインの三要件】

仕事がら建築について真剣に考える機会が多く、この五年間の中で、優れたデザインの要件というものが(あくまで外観に絞った話だが)自分なりに整理できてきた。

マテリアル、ディテール、プロポーション。この三つを備えた建築こそ優れた建築と言えるだろう。

マテリアル、これは最もわかりやすいが、使う素材の良さを意味する。きめ細やかで滑らかな左官壁や、経年して風合いを増した石材、タイルなどがイメージできるはずだ。

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(坂倉準三/神奈川県庁新庁舎)

ディテール、建物の装飾部や、よく「納まり」とも呼ばれる素材同士の接合部の処理など、文字通り細かな部分にどれだけ魂を込めて緻密に設計・施工することができるかによって、結果的に与える印象は驚くほど変わってくる。

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(アントニオ・ガウディ/カサ・バトリョ …職人の苦労を思うと気が遠くなるようなディテール)

ただし、どんなにマテリアルやディテールが優れたものだったとしても、プロポーションがいびつな建築は、どう足掻いても美しくはなれない。いかにして外部から自らを切り取り、空間の中に均整の取れたプロポーションを提示するか。これこそが建築を特徴づける最も重要な要件と言って差し支えないのではないだろうか。

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(平等院 鳳凰堂)

【人も建築も同じ】

これらデザインの三要件が重要だ、というのは実は建築に限った話ではない。例えば、それこそ人間についても、造形の美醜はこの三要件でもってある程度説明がつく。

マテリアルに関しては、髪や肌そのものの持つ質感やコンディションを思い浮かべればいいだろう。ディテールに関しては、例えば目、鼻など顔のパーツや爪の形、髪の生え際が作り出すライン、なんかが該当するはずだ。そして人体に関してはこれが最もわかりやすい例かもしれないが、胴体や手足の長さ、身体の厚み、顔の輪郭やパーツの配置、頭蓋のかたちが、人それぞれに特有のプロポーションを与えており、僕たちはそこから直接的に美醜の印象を感じ取る。

こうして具体的な例に落としていくと、建築だけでなく人間の外見についても、上に挙げた三要件が重要だし、とりわけプロポーションが担う役割は極めて大きい、ということがうなずけると思う。これはもちろん例に挙げた建築や人体だけでなく、工業製品や昆虫、動物など実体を伴うあらゆるモノに関してあてはめることのできる原則だと考えられる。

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(オードリー・ヘプバーン。マテリアル、ディテールはもちろん、とにかく首から上ののプロポーションが素晴らしい、と思う)

【じゃあ、街も同じかも】

長い前置きだったが、実はここまでの話が、僕が下北沢の街を自転車で走り抜けた時に「変わったのに、変わってない」と感じた矛盾を説明するカギになる。

ご想像の通りかと思うが、このデザインの三要件をシモキタという「街」にあてはめてみることで、その謎が解けてくるのだ。

それでは、街をひとつのモノと捉えた時に、マテリアル、ディテール、プロポーションとはそれぞれ何を意味するだろうか。

マテリアル。これはモノ全体を構成する最小単位だと捉えなおせば、街におけるマテリアルとはひとつひとつの建物、ひとりひとりの道ゆく人々…もっといえば路上に捨てられた吸い殻や猫除けのペットボトルなんかもそれにあたるといえるはずだ。そういった要素がそれぞれに、物言わずとも情報を発信している。名前も覚えていないけど記憶には残っている古着屋やカフェが姿を消していたこと、よく通った格安のバンドスタジオが別チェーンのピアノスタジオに代わっていたこと、悪目立ちしていたサカゼンが別の業態に変わっていたこと、見知らぬ駅舎が新しく建てられていたこと…これらはどれもマテリアルの刷新といっていいだろう。まさに新陳代謝だ。

ここで注意すべきなのは、「街」を構成するマテリアルは、人間よりずっと大きな存在である場合も多いということだ。いま新陳代謝の例として挙げた例には、それぞれにまつわる思い出やそこで過ごした時間が紐づいているために、単に「古い角質が剥がれ落ちた」というような軽い受け止め方が僕にはできずに、「目の色が知ってるのと違う!」というような強い印象を受けてしまったのだろう。

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(今はなき、悪目立ちサカゼン。特に思い出はないけれど)

 次にディテールだが、これはちょっと難しい。建築におけるディテールとは、マテリアル同士が折り重なったり互いに接しあうことで生まれる表情や陰影である、という捉え方を足掛かりにするならば、街におけるディテールとは「街角」「街並み」という言葉で表される概念が近しいかもしれない。

夕暮れ時にふと通りかかった細い路地の先にひしめく飲み屋の看板、橙色に漏れる灯り、出汁と揚げ物の香り、どこからか聞こえてくる客の笑い声。または神社の大木、セミの鳴き声、青い空と入道雲を映した水たまり、麦わら帽子で駆けていく汗だくの子供たちの横顔…

これらひとつひとつはここでいうマテリアルかもしれないが、複数の素材が組み合わさって「納まる」ことで、単なる足し算以上の意味、効果をもたらすことがある。

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(裏路地の飲み屋街ってなんだかワクワクしませんか。でもそれぞれの店が単体で国道沿いにあってもあんまり意味がない。それではただの素材でディテールも何もないから)

【海浜幕張という街】

少し話が脇道に逸れるが、この「街のディテール」について、もう少し具体的に、例を挙げて考えてみたい。今年三月まで前の部署で担当していた物件が海浜幕張にあったため、毎週足繁く通っていた。この街は埋め立て地に位置する、いわゆるニュータウンで、街のディテールの在り方が古くからある街とはかなり異なるように思う。

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これは幕張新都心の土地利用計画を表した図で、用途ごとに土地の色分けがなされている。

ざっくり言えば、

・水色:オフィス等

・ピンク:商業・ホテル

・オレンジ:教育・研究機関

・黄色:住宅

と分かれているのだが、どう見ても不自然、である。

あらかじめ「こうしよう」という強い意志のもとに開発しない限り、どんなに用途地域などで縛ってもこんな綺麗に色分けできるはずがない。

実際に海浜幕張の街を歩いてみると、図で示されている通り非常に明快な作りになっていることがわかる。「この道路までオフィスビルだけ、公園の先は住宅だけ」といった具合だ。

だから、海浜幕張の「街のディテール」は、呆気にとられるほど綺麗な線を想起させる。色の違う大判のタイルが、定規で引かれた線に沿ってピシッと配置されているようなイメージだ。

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実際、「海浜幕張の整然とした街並みがたまらなく好き、こんなところ他にない」という人を何度もお見かけしたので、この「ディテール」がこの街を特徴づける大きなポイントとなっていることは間違いないだろう。

【シモキタのディテール、そして問いの答え】

ここで下北沢に話を戻そう。もし上のマップのルールに沿って下北沢の地図を作ってみたらどうなるか。きっと色は細切れに分かれてモザイク状の図になってしまうだろう。そもそも道路がこんな綺麗には走っていないし、色分けも四色や五色では全然足りないかもしれない。

海浜幕張の例とは対照的に、シモキタの「街のディテール」には極めて野性的でラフな印象を受ける。大げさに言えば、雑木林の中、風雨にさらされて折れた木の幹の断面に苔が生え、その下からさらに新しい木の芽が出てくる様子を眺めているような。

そしてこの点では、下北沢の街はほとんど変化していないといえるはずなのだ。車も入れないような細い路地に、怪しげな個人店が肩を寄せ合う。個人店が多い分入れ替わりが激しい側面もあるにもかかわらず、何世代にもわたってシモキタならではのディテールがしっかりと保たれている。

 冒頭の問いに戻ると、マテリアルを個々に見るとびっくりするくらい変わっていたが、それぞれのマテリアルが複合的に織りなすディテールは変わっていなかった、というのが答えと言えそうだ。

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(シモキタ的ディテールを感じさせる風景。)

【蛇足その1:街のプロポーション】

答えが出てしまった以上これより先は蛇足なのだが、せっかくなので「街のプロポーション」とは何なのか、考えてみたい。

これもまた輪をかけて難しい話かもしれない。なぜか。

平等院鳳凰堂のシルエットやオードリー・ヘプバーンの横顔が美しいと思うのは、僕たちにその輪郭が見えているからである。

鳳凰堂の屋根に上った蟻の目に映るのは足元の瓦くらいで、建物全体が成り立たせている絶妙なバランスを知覚することはできない。

ヘプバーンの首筋に蚊が止まっても、その先に続く後頭部が描く美しい丸みを知ることはない。街についても同じことが言える。

街は大きすぎて、生身の人間には簡単に輪郭を実感できないのだ。輪郭を知覚できない以上、そのプロポーションをはかる術もない。

それに街の輪郭とは、単純に地図に線を引いて「ここからここまで下北沢」というような話でもないはずだ。

では一体、そもそも街のプロポーションを定義する、街の輪郭とは何なのか。

 ここでも先ほどの海浜幕張が好例となる。実は海浜幕張は非常にコンパクトな街で、南は海、東は川、西は倉庫街、北は高速道路と四方を分断されたエリアでもある。これらの分断要因は非常にわかりやすく街を切り取り、ひとつの街の中に連なる流れをそこで断ち切っている(実際、海浜幕張から高速道路を越えて北に抜けると、同じ幕張でも全く趣の違う街が現れる)。

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(高速を挟んで海浜幕張側と京成幕張(内陸)側、同じ通り沿いの風景)

だから、海浜幕張のプロポーションは街の中に見られるディテールと同様に非常に整っていて(この人工的な整い方は好みが分かれるところではあるものの)、極めて明快な輪郭を持つ。

川、崖、海、幹線道路などによって物理的に街が切り取られてしまう状態。これが「街の輪郭」の、特殊にわかりやすい例だろう。

しかし、大部分の街の輪郭はそう単純にはできていない。市ヶ谷と飯田橋の境界はどこか。代官山と恵比寿の境界は?どこまでが吉祥寺で、どこからが三鷹だろうか?

住所などから機械的に線引きをすることはできるだろうが、実際この境界はひどくあいまいなもので、人の捉え方によって揺れ動くものだとも思う。

ただ、街と街の間に自分なりの境界を見出し、街の輪郭を実感する有効な方法はなくはない。それは、何度も境界を踏み越えてみることだ。僕は自転車で都心を走り回るのが好きで、その中でよくこの境界を踏み越える瞬間を体感することがある。

松濤を例にとれば、渋谷と松濤の境界、代々木上原と松濤の境界、駒場と松濤の境界というものはそれぞれ確かに存在していて、越えた瞬間になんとなく実感できるものだ。これを何度も繰り返していくと、松濤という土地の持つ輪郭、他の街との関係性がだんだんと見えてくる。

輪郭や、外部との関係性が見えてくると、その街を他の街と区別し、特徴づけている固有の要因が体感的につかめてくる。ひどく感覚的な話になってしまうが、こうして境界を越えてその街に入ったときに、街が与えてくれる個別の感触や印象の共通項。その集合体こそが、街のプロポーションを形作っていると言えるのではないだろうか。そして、人がそのプロポーションを感じ取ることのできる最大の単位、それこそが「街」なのではないだろうか。

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(奥渋谷からこの坂道をのぼっていくと、数分で豪邸が並ぶ松濤の通りに着く。この坂道のどこかに街の境界がある)

【蛇足その2:「住むところじゃない街」】

蛇足ついでに、関連する話を書き留めておきたい。

「あんな街、住むところじゃない」というようなセリフを聞くことがある。

その理由を聞くと、昔処刑場だったとか、埋め立て地であるとか、川沿いの低地だとか、そういったわけであることが多い。

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(そういうこと言われがちな街、武●●杉。いいところなのに)

ただ二十代の若者である僕からすると、こういった趣旨の発言をするのはだいたい五十歳以上の年齢の人で、同年代ではほとんどいないという実感もある。

つまり、若者は比較的「あんな街、住むところじゃない」というようなことを考えない傾向にある、とも言えるはずだ。(若者の皆さん、首都圏で「住むところじゃない」街って繁華街を除いてどれだけ思い浮かびますか?)

もしそれが正しいとしたら、もちろん年を経るごとに「住むところじゃない街」のストックが増えていくという要因はあるだろうが、この「街のプロポーション理論」によってもある程度説明できるのではないかと考える。

率直に言えば、今の若者ほど、街の輪郭に触れずに生きている度合いが大きい、ということだ。そしてその大きな要因が、移動手段の変容ではないかと考えられる。

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(https://www.mlit.go.jp/common/001223976.pdf より)

これは国交省が数年に一回調査報告している『都市における人の動きとその変化』という資料(2015年版)からの抜粋である。1987年と2015年のデータを比較すると、三大都市圏において、休日の移動手段のうち【徒歩】または【自転車】が占める割合は、合わせると10pt以上も減少していることがわかる。つまり、生身での移動が1割以上も減少しているのだ。

街の境界を感じるためには、少なくとも二つ条件があると考えられる。それはある程度スピードが抑制されていること、そして生身であることだ。

車や電車に乗ってしまうと、移動速度が速すぎて矢継ぎ早に街の境界を踏み越えてしまうため、輪郭を実感できるほどの情報量はとても得られない。また乗り物の中に丸ごと身を預けてしまう(生身でなくなる)と、視覚が抑制されるのはもちろん、街の境界を識別するのに有用な、音や匂い、温度、湿度といった情報もほとんど得られなくなってしまう。街の情報がほとんど完全に遮断される地下鉄に乗ってしまえば、それはなおさらだ。

地下鉄などの輸送手段に慣れ切った現代っ子にとっては、半蔵門線で渋谷から表参道へ、千代田線で表参道から根津へと、ある街の輪郭の内側から別の街の輪郭の内側へ、境界をまたがずにワープするのが子供の時から当たり前になってしまっている。そうすると街と街との関係性、境界、輪郭、プロポーションはほとんど見えてこない。

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(改めて路線図を見ると、そりゃさっさとワープしてしまったほうが便利だ、とは思う。でも自転車のほうが好き)

昔の人(と言っては言い過ぎかもしれないが)が「あんな街、住むところじゃない」と言うのは、今の若者と比して「街のプロポーション」への理解が深いからではないだろうか。

例えば「住むところじゃない」とされている架空の川沿い低地があったとして、別の場所からそこへ行くには、本来標高の高いほうから低いほうへの物理的な移動、つまり坂を下るという動作を必要とするし、そのプロセスの中で「なんだか川の湿っぽい匂いがしてきたな」とか「このへんはサラ金の広告がやたら多いな」とかいうことにも気づくはずである。

電車に乗ってしまえば、そういったプロセスは全てすっ飛ばしてその街の輪郭の内側へ入ってしまうことができる。こうして移動から得られる情報の格差が蓄積した結果、「住むところじゃない街」について世代間で認識の相違が生まれている、と考えるのは無理のない推論であるはずだ。

こういった事象を受けて、僕自身としては「南千住に住むやつなんて気が知れん!」とか「湾岸の埋め立て地をもてはやすなんてけしからん!」とかいうことを言うつもりは当然だが毛頭なく、むしろ「街間ワープ」が当たり前になって、今までそのプロポーションのために過小評価されていた土地や街のマテリアル、ディテールにスポットライトが当たって評価が上向くのはとても前向きで建設的なことではないか、と思うのだが。

【おわりに】

自分でも驚くほど長くなってしまったが、書きたいことはだいたい書けたように思う(最後までお付き合いいただいた方、ありがとうございます)。

何かこれといった目的があって書いたわけではなく、シモキタを走って頭に浮かんだことをまとめてみたかっただけではあるものの、せっかく書いたので感想やら議論のタネやらをいただければ嬉しい限りです。

ちなみにこのnoteのアカウントは、ビートルズ全曲の歌詞を翻訳するという壮大な計画のために作ったものの、20曲くらいやったところで突然「利用規約に抵触している可能性があるため公開停止となりました」と通知され、半分凍結状態になっていたものでした。久しぶりに日の目を見られてよかった(歌詞目的でフォローいただいた方、そういう事情です、すみません)。

あと文中の画像は、Google画像検索で適当にひっぱてきたりしていて本来よろしくないのですが、あんまり目くじら立てずに見逃してください。

おしまい。

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