手帳とノートは何が違うのか

突然、手帳とノートの違いが気になった。

僕は去年の後半から、書くことを、できるかぎり手帳に集約させてきた。

その前はずっと、「手帳&ノート(しかも複数)派」だった。

それは単に、「手帳だけだとページ数が足りないのでノートを持っている」と思っていた。

だが、ここ数日、「それは本当だろうか」と考え始めたのだ。

実は、手帳とノートには、機能のうえで決定的な差があるのではないか。

あるとしたら、何なのか。

まだ考えが浅いが、書いておくことにする。

時間の概念

多くの「手帳」と呼ばれるものには、カレンダーがついている。

バーチカル型なら、時間まである。

ノートには、それがない。

だから、手帳のメモページに何か書くとき、僕たちは「時間に関係のある手帳というツールに書き込んでいる」という意識を持っている。

忘れないようにしたメモだとしても、その内容は時間と無関係ではいられない。

「将来」やらなければいけないこと

や、

「2/16の会議で」上司がした発言

というように、何らかの時間感覚とともにメモをされる。

対して、ノートへのメモは、上と同様の内容だったとしても、僕たちはその内容自体を重視している。

すなわち、

将来「やらなければいけないこと」や、2/16の会議で「上司がした発言」だ。

自分の話

もう一つの違いは、自分以外の話がどれだけ書かれるかだ。

例えばノートに、「任天堂スイッチはなぜおもしろいのか」と書く人がいたとしよう。

多くはないだろうが、そうやって思考を整理していく人には、たまに会う。

では、同じ内容を手帳に書く人を想像してみよう。

どこか、違和感がある。

「任天堂スイッチはなぜおもしろいのか」というお題が、手帳というフィールドに合わないのだ。

なぜ合わないのかというと、手帳には見えない制約があるからだ。

それは、手帳が、自分またはそれに関連する話を書くツールだからだ。

だから、「手帳で人生を記録する」というのは自然に聞こえるが、「ノートで人生を記録する」と言われると、少しだけ「ん?」と違和感が生じる。

「少しだけ」と書いたのは、手帳とノートの機能重複(記録できる)部分によって、「まあできるだろう」と感じるせいだ。

有限性

これはかなり大きな違いかもしれない。

手帳は、たとえば「2018年の手帳」などと表現するように、ページに限りがある。

一方ノートは、1冊のページ数こそあるものの、書き切ったら2冊目、3冊目と同じものを追加すればいいので、実質的には無限だ。

この違いは、「どんどん書くかどうか」という書き手のスタンスに影響を与える。

結果、手帳には2018年に関係のあることが書かれ、ノートには何でも書かれることになる。

手帳には10年後の夢や一生のうちにやりたいことも書くかもしれないが、それはあくまでも「2018年」を起点とした「10年後」や「将来」だから、やはり2018年からは逃れられない。

このあたりは、最初の論点の「時間」に関連する話だ。

また、システム手帳のリフィルはどうだろうか。

綴じ手帳に比べれば、「いくら書いても追加できる」わけだから、ノートに近いはずだ。

中間といったところか。

だが、ノートと同じではない。

ノートは、元々1冊目の次は2冊目で、以下3、4と続くのが当然だ。

一方システム手帳は、おさまるのならば最初に購入したセットについているページでおさめたいし、追加したとしても2018年が終われば次に買うリフィルは、2019年のデイリーリフィルとともにはさまれることになる。

同じテーマだからといって、延々と2018年のリフィルの後ろに追加していく人は、かなり少数派だろう。


ということを、最近考えている。


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