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世界初のエジプトパッケージツアー物語〜「アレクサンドリア大図書館を見たい」「1500年前に燃えています」→苦情…トーマス・クック シリーズ①


  昔、日本で旅行なんとか主任なんとか資格を取った時(証書はどこかに無くしました)、確か講習があって驚いたのが一切トーマス・クックに関する話も、ツーリズムを確立させたイギリスの旅行業の歴史、もっと言えば私が働いたオリエント急行のあの鉄道会社に関する問題も皆無。
 しかし、少なくともツーリズムを語るなら、トーマス・クックは欠かせない人物です。

 さて
「ルクソールの街にトーマス・クックの像を建てたい」  
そんな話が持ち上がったのは数年前のことでした。なぜイギリス人のトーマス・クックの像をルクソールに?
 イギリス人なら全員知っている? これはエジプトとトーマス・クックの興味深いストーリーです。

多分、手前の座っているラクダ🐪に乗っているのがトーマス・クック氏

世界初のエジプト旅行パッケージツアー

 スエズ運河の開通が迫った1869年初頭、イギリス人トーマス・クックが世界初の「エジプト・パッケージツアー観光」を売り出しました。 そのツアーは1869年の2月4日にイギリスを発ち、三日間の航海を終えて到着しました。グループの人数は28人+ツアーエスコート(添乗員)であるトーマス・クックでした。 クックの初めてのエジプトツアーの売出し文句は〈完成間近のスエズ運河を見学しよう〉。

スエズ運河開通式。壇上にはウージェニー(ウジェニー)仏皇后、彼女の従兄のレセップス、フランツ・ヨーゼフ・オーストリア=ハンガリー帝国皇帝、そしてプロセイン王国の国王、オランダ国王の弟、イスマイール副王などがいるはず。

 ここでのツッコミどころは、イギリス政府はさんざん(フランス主導の)スエズ運河建設を反対し運河工事の妨害までし続けていました。
 なぜイギリスはスエズ運河完成を望んでいなかったというと、
1その建設工事はナポレオン三世主導だったこと(「エジプトは俺たちの縄張りだぞ、かたつむり野郎は引っ込んでいろ」と)
2スエズ運河が完成してしまったら、エジプトが宗主国オスマン帝国から独立してしまうかもしれない、→ロシアがエジプトを狙うかもしれない→中東&インドも獲られるかもしれない。

 イギリス政府はフランスが進めているスエズ運河建設を反対しており、ダイナマイト輸送や労働者(奴隷)運搬の妨害をしたり、絶対に宗主国のオスマン帝国が許可を出させないように裏から手を回すなど嫌がらせを続けていました。

 ところがです。
トーマス・クック氏がイギリス国内で
「さあ、建設中のスエズ運河観光に行きましょう!」
の謳い文句のエジプト旅行ツアーを売り出すと、申込みが殺到!あっという間にツアーは完売。イギリス人たちはスエズ運河建設に興味津々で見たくて仕方がなかったのです。どこの国でも、民意はいつだって別の方向ですね。

初めての中流階級ツアー販売

 ロンドンにはコックス&キングスという旅行会社がすでに存在していました。(1758年に創立)、恐らく世界で一番古い旅行会社ですがこの旅行社の顧客ターゲットはエリート階級のみでした。 (もっとも裏ではインドの骨董品など違法でイギリスに運ぶ仕事もしており、東インド会社とのもめ事などありました) 

 コックス&キングスの旅行者は大勢のお供(家来など)を引き連れて旅行し、道中、日当の高い地元の有名な学者(道案内人)を雇い、インドやヨーロッパ大陸各国で偉大な美術品コレクションを大枚をはたいて買い求め、あとは気候の良い保養地まで何ヶ月もかけてのんびりと優雅に巡っていました。旅行とは時間と大金をかける娯楽で、旅行者=富豪限定でした。 

 十八世紀後半の産業革命が起こりイギリス、他の西欧諸国やアメリカでも中産階級が多く誕生しました。 
 すると
「俺たちも世界を見て回りたい」 
 しかし繰り返すと、外国旅行=富裕層のものだったので、中産階級の人々は外国旅行には行けず、近場に行くしかなくクサクサ。

 そこに登場したのが、イギリスの中部に住むトーマス・クック。有名な話ですが、彼はもともと宣教師である傍ら家具職人でした。

 家具を買いに求める客らが「ああ外国旅行してみたいな、でも高いしな。俺等みたいな中流階級の人間は行けないなあ」とぼやくのを度々耳にし、「これはビジネスチャンスだ」と閃き、「中産階級向けの旅行会社を開業してみよう」。

 なぜそんなに簡単にそれが出来たのかと言うと、クックは元々宣教師活動でイギリス国内各地に足を運んでおり旅そのものの知識もあった、そして鉄道会社や各ホテルの人間ともすでに顔見知り、既に人脈が広かったからです。

 クックは「中流階級向けの」旅行会社を始めると、まずイギリス国内ツアーを売り出します。自分で企画と手配をし、自分で集客をすると、自分で添乗員兼ガイドも務めました。今でいうところの「手配旅行」です。

 クックの案内は非常に変わっていました。
 集まったツアー客に「禁酒の案内」を配布し、移動中の鉄道の中でも延々に禁酒の心得などを説きます。彼は子供の時から大のアルコール嫌いで、宣教師活動でも人々に口うるさく「禁酒」を説いており、自分のツアー客にも延々とその話ばかりです。

 聞かされる側はうんざりしそうなものですが、しかしこれまた奇妙なことに彼には「ファン」「固定客」がついていきました。
 クックはツアー客一人一人に気を配り、旅行の自信のない初心者らに旅行することの自信を持たせ、見知らぬ土地を堂々と歩くことの喜びを教える天才でした。

 売上好調で、トーマス・クック旅行社が正式に創業されます。
 すると1855年には英仏海峡を越えてフランスへ、数年後にはスイスへツアーを出しました。 アメリカの南北戦争が終わるやいなや、クックは大西洋を渡ってニューヨークへもツアーを企画し販売しました。

「さて次はどこの旅行を企画しようかな…」
 新聞を見ると、エジプトのスエズ運河開通の記事でもちきりです。
『いよいよビター湖で地中海と紅海が合体する』

 この記事を読んだ時、クックの全身は震えました。ヨーロッパとアジアが結ばれる瞬間が迫っているなんて、感動しかありません。
「おお、すごいな!事実上のスエズ運河誕生の瞬間じゃないか!」
 ちなみに、万が一失敗したらデルタ地帯は水没しその近辺の綿花畑も一巻の終わりです。よくやったと思いますが、その裏にはあまり知られていないエジプトの「理由」がありました。
 もっといえば、エジプト副王とフランス皇后の「ラブロマンス」もあります、実話です。ぜひ近々Kindle読み放題にアップし、紙の本も出す予定の、私の19世紀エジプト舞台の小説「エジプトの狂想」をお読みください。(予定より遅れていますが、前作「エジプトの輪舞」より面白いと自分では思います。トルコ料理とフランス料理とギリシャ料理を食べながら読んで欲しいです)

19世紀のエジプト旅行ブーム

 ところで、ヨーロッパでのエジプトブームは1798年のナポレオン・ボナパルトのエジプト侵攻以来から起きています。

 (宗主国の)オスマン帝国がクリミア半島の件でロシアと揉めて、ちょっとエジプトから目を離したすきに、ボナパルトがするりとアレクサンドリアの港に上陸してしまいます。
 ボナパルトはカイロに逗まり、前王朝時代のスルタンの宮殿に住みます。その宮殿はのちの、あの伝説のホテル、シェファードホテルになります。

 エジプトでのボナパルトの評判はそんなに悪くありませんでした。その理由はいくつかあるのですが、そのうちの一つは
「酒をもたらした」
ことです。

 多分、イスラム教時代に入って以降、初めてこんなに大量のアルコールが大々的に持ち込まれたのは、ボナパルトのフランス軍のおかげです。
 ベドウィンの首長らも病みつきになったのはフランス産のシャンパンでした。
「コルクを開けて泡が飛び出す瞬間が面白い」
 もう大喜びします。そして「酒は薬でもある」という古代ギリシャの民間療法を口実にしたり、あるいは「コーランにはシャンパン、ウィスキー、コニャックを飲んではいけないとは書いていない」と、彼らはじゃんじゃん飲み始めます。
 確かにワインについての言及はありますが、焼酎、日本酒、ホッピーについての注意も書いてありません。

 その約50年後にイギリスがエジプトに鉄道を敷きますが、列車車内はお酒の広告だらけ、各駅も同じ、そしてどの駅の食堂でも様々な種類のお酒のサーブス提供がありました。主に酒屋はギリシャ人、酒場はアルメニア人が経営していました。
 アルコール輸入の関税は高く、アルコールがもたらす利益はとても大きかったので、エジプト総督のムハンマド・アリおよびその後の子孫たちも、飲酒には見てみぬふりをし、第5代目のイスマイール副王など、アブディーン宮殿で毎日フランス産のシャンパンを堂々と飲んでいました。

 本筋に話を戻します。
 酒を持ち込み歓迎されたボナパルトですが、オスマン帝国が「エジプトを奪い返す」と反撃し、それにイギリス軍も加勢します。その結果、フランス軍は敗北し、エジプトを出ていきます。もともとフランス軍兵士の大半が風土病にやられており、弱体化していたのが痛かった。

 負けたボナパルトは国際条約により、〈エジプト誌〉をそっくりそのままイギリスに引き渡すように命じられます。調査団に調べさせ、エジプトの何もかもを記録してまとめた壮大な本です。
 しかし苦労して仕上げたシリーズ本です。しゃくです。そこで誰でも思いつくとおもいますが、先に「コピー」をとり、その後で原本をイギリスに渡します。そしてボナパルトはまんまと〈エジプト誌〉を出版し、これがフランス国外でもヒットします。

 さらに、その数十年後、フランスの学者シャンポリオンがロゼッタ・ストーンのヒエログリフの解読をついに完成させました。これが大きかった、一気にヨーロッパ中で本格的なエジプトマニアが急増しました。

 ちなみにパリのコンコルド広場にあるオベリスクは、ムハンマド・アリが闇でシャンポリオンに売りつけ、シャンポリオン経由でシャルル五世に行きました。
 

 とにかくナポレオン・ボナパルトの「エジプト誌」シリーズ本、シャンポリオンのヒエログリフ文字解読、そして1869年のナポレオン三世&レセップスのスエズ運河開通でもう決定的、空前のエジプトブームの到来です。

「この波に乗らないわけにはいかない」
 トーマス・クックはスエズ運河開通が目前に迫っているタイミングで、史上初のエジプトパッケージツアーを出します。
 約二千年前にもギリシャ人のエジプト旅行ツアーが出ていますが、古代ギリシャ人のエジプト旅行ブーム話を持ってくると面倒くさいので、これは無視しましょう。

客「アレクサンドリア大図書館を見たいの」 添乗員「それは1500年前に燃えています」⇒苦情!

トーマス・クックツアー。「クックのお客さんはいつも面白みのない人々」というエジプト側の記録にウケました…

 そうして、28名&杖を持った添乗員のトーマス・クックは丸2日間かけて船で地中海を渡り、アレクサンドリア港に到着。出迎えに来たスタッフたちは驚きます。「えらく地味な客層じゃないか」

 実際そのとおりで、定年した中年夫婦、自営の中年夫婦、農業をやめた老夫婦という顔ぶれで、これまでの大富豪の旅行者とは外見、服装がまるで違ったのです。

 一団はまずアレクサンドリアの市内観光をしますが、初日からクレーム発生。

 参加者の婦人が添乗員のクックにこんなリクエストをあげました。
「アレクサンドリア図書館に案内してくださらないかしら?」
「はっ?無理です。図書館は千五百年前に焼失しています」
「えっ?そんな酷い…」
 目当てのアレクサンドリア図書館を見れないとその婦人はむっとし、それから不機嫌になり「こんなはずじゃなかった」とカンカンに。ガイドや添乗員を経験したことがある人は全員、「あるある」です。
 私もエジプト案内でよく文句を言われたのが
「(神殿や墓)どれも同じでつまらない」
「神殿の中に何もないじゃないか」。

 さらに、ある男性ツアー客は真っ裸でナイル川を泳ぎ、地元のムスリムと揉めることになったり、ある婦人は十字架を胸元にぶら下げたままモスク見学しようとしたり、クックもへとへとです。
 
 しかしクックが一番注意していたのはお客さんの苦情や文句などよりも「感染症」でした。
 19世紀のエジプトというのは、感染症パンデミック世紀でもあり、その百年の間に何度も何度もえんえんとコレラとペストの感染症が繰り返し繰り返し大流行しています。
 1832年、在アレクサンドリアのイギリス領事も激怒した日誌を残しています。
「ずさんな検査、ずさんな隔離、ずさんな治療。全てずさんだ」
 この間のコロナの時もエジプトは本当にルーズでした、全く変わっていません。

 とにかくエジプトは感染症パンデミックの時代だったので、クックはツアー客にずっと煩く注意をし続けました。
例えば
「いいですか、決してオペラグラス(双眼鏡)をエジプト人に貸さないように、共有しないようにしてくださいね。双眼鏡を貸しただけでも病気になる、感染症が感染することがありますからね」

 そしてトーマス・クックの第一本目のエジプトパッケージツアーはアレクサンドリアを出てカイロに向かいます。

 続きはクックが今や伝説の、ナイルクルーズ船の蒸気船を開発させる、ルクソールの観光地を作り上げる、台頭するライバル旅行会社と争うなどです。

              つづく

トーマス・クックとベルギーのワゴンリーはブローシャーやリーフレットのデザインが良かったですね

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