【ミステリ】切り裂きジャックの帰還 7 / 全8話

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 スーパーの駐車場は半分も埋まっていなかった。二十時を過ぎてピークを越えたのだろう。出ていく車のほうが多い。
「それで、なぜここに?」と真琴が言った。
 曽根はシートにもたれると、車載時計で時間を確認した。
「うまくいけば本部が押えたアプリ履歴が手に入るはずです」
 曽根が疲れの滲んだ顔を両手でぬぐった。協力者について当てがあるといった手前、夜まで尽力していたに違いない。理由を言わずに呼び出されたが、運転中は何か考え込んでいて話しかけづらかった。
 国道といくつか道を挟んだ先には、朝方に懲戒を言い渡されたばかりの警察署があった。来る途中で目をやると立番はいなくなり、出入り口は閑散として、とても捜査本部が設置されているとは思えない静けさだった。
「誰を待っているんですか?」
「わかりません。来る人間によって成功か失敗がはっきりすると思います」
 はたして十分ほどで駐車場の入り口に男が立った。近づいてくる姿を目で追うと、それが黒伏だとわかった。戸惑っていると、そのまま後部座席に収まった。
 曽根がバックミラー越しに目礼した。
「さて、今度こそ本当でしょうね。富岡萌のスマートフォンがあるというのは?」
 曽根に促され、スマートフォンを取り出すと黒伏に渡した。しばらく画面を見つめて、感心したように笑みを見せた。
「確かに本物のようですね」
 黒伏の声は手柄を得たように高揚していた。何かおかしい。隠蔽した事件が掘り起こされようとしているのに余裕があった。
「感心しましたよ」そう言って、黒伏は真琴にスマートフォンを返した。「富岡萌の家族を良く説得できましたね。神代さんの手柄だって聞きましたよ?」
 スマートフォンを受け取ると、脳裏に母親の言葉が蘇った。曽根が何か言いかけたが、真琴が言葉をかぶせた。
「富岡萌の両親は多摩川の事件を調べて、犯人が他にいるんじゃないかと疑ってました。二年前の記録や証拠が役に立つかもしれないと警察に連絡したら、警察は関連がないと突っぱね、取り合わなかったそうです」
「そんなことがありましたかね?」
「捜査に疑念を抱いていて、調べるための証拠もある。でも、その先は動けなかった。なぜだと思いますか?」
 黒伏は黙った。
「捜査権も、そのノウハウもないからです。個人情報保護も進んでいて、逮捕まで持っていくのは現実には警察以外では難しい。だから証拠のスマートフォンを託したんです。警察が信用できなくても、それしかないから」
 真琴はバックミラー越しに黒伏と視線を合わせた。
「この事件を終わらせたいからです」
「終わらせたいのは私も同じですよ」黒伏は睨み返して言った。
 曽根が割って入った。
「それは警察に託されたわけじゃありません。神代さんに託されたものです」
 黒伏は曽根と真琴に視線を移し、値踏みするように見つめていた。それから笑顔を作り直して、スーツの内ポケットから書類を差し出した。
 すぐ手に取れなかった。困惑しながら受け取り、中身を見て驚いた。アプリの履歴だった。ニックネームと電話番号、送信時間がセットで記載されており、木崎佳乃と古賀亮太が誰とやり取りしたのかを時系列で記載してあった。
 真琴があっけにとられていると、曽根が口を開いた。
「面会の手配はどうなっていますか?」
 黒伏は腕時計を見た。
「二十分後に直接向かってください。話を通しておきましょう。ただ時間は十分程度で済ませるように」
「助かります。本部の調査はどこまで進んでいますか?」
「古賀亮太のことが中心ですよ」
「私が以前調べたのですが、古賀美月の失踪当日は出張していたはずです」
「ああ、そのことですか。たしかに出張に出ていますが、ホテルに帰ってくる朝と夜と、取引先に顔を出した時間以外は足取りが追えてない。アリバイがないんです」
「毎日ホテルに返っているなら出張で間違いないんじゃ?」と真琴が言った。
「出張先の大阪から東京まで二、三時間ですよ。不可能じゃない」
「物証はないんですよね?」
 黒伏の眼が鋭くなった。
「その履歴を調べれば、あなた達にもわかるでしょう。古賀亮太は口をつぐんでいますが、こうも状況証拠が出揃ってくると、彼が殺したと考えるのが自然です」
「彼が殺してないといったら?」
 黒伏は笑った。
「いかにもあなたが気にしそうなことですね」黒伏は窘めるような口調で言った。「誰が何を言ったかなんて、どうでもいいんですよ。必要なだけの証拠があれば起訴する。勝ち目がなければ起訴しない。それだけのことです」
「証拠があればですか。二年前は自供内容が判決に一役買ってたようですけど」
「強要したとでも? それこそ証拠があるんですか?」
 何もいうことができなかった。
「今の状況が気に入らなければ、早く真犯人を捕まえるんですね」
 沈黙の中、曽根が咳払いして言った。
「例のデータはすべて送りました」
 黒伏はスマートフォンで何かを確認して頷き、ドアを開けた。
「いい報告を待ってますよ」
 あざけるように言って、黒伏は去った。
 感情が高ぶったせいで手が震えていた。窓を開けて冷えた外気を顔に当て、何度か深呼吸して、ようやく落ち着きを取り戻した。
 すぐにアプリ履歴をラップトップに入力し、それらを突合する作業に没頭した。
 富岡萌と木崎佳乃。二年の時間を隔てた二つの事件。履歴を突き合わせると、共通するデータが絞られた。
 抽出されたのは古賀亮太のニックネームだけだった。
「どういうこと?」
 思わず顔を見合わせた。
「やはり奴がジャックなんでしょうか?」と曽根が言った。
「富岡萌とも関連がある以上、事件に関わっているのは間違いなさそうですが」
 その履歴を調べれば、あなた達にもわかるでしょう。
 黒伏の言葉が蘇った。
「番号が偽物ってことはありませんよね?」
「ないと思います。このマッチングサービスを調べましたが、SMSでの認証が必要ですから」
「やりとりした内容は?」
「取得するのはハードルが高いです。個人情報ですから、片っ端からってわけにはいかない」
「黒伏がリストから履歴を消している可能性はないですかね?」
 曽根は渋い顔をした。
「ないとはいいませんが、どうですかね? 時間はかかりますが、ひとまず黒伏に令状を取るよう依頼します」
 曽根は黒伏に対して一定の信頼を置いているようだった。それは黒伏が履歴を提供しに現れたことと関係があるに違いない。
「どんな取引をしたんですか?」
 曽根はスマートフォンを操作する手を止めて、取引の次第を語った。DNA型データベースについては知識不足からよくわからない点も残ったが、警察がジャック事件を掘り返さないよう隠蔽した理由は腑に落ちた。
 曽根はいつかきちんと説明すると言った。
「いいんですか? 逮捕のために、事件の告発を諦めて」
「黒伏に託しただけですから、奴がどうでるかはまだわかりませんよ。全部を明るみに出して正義の官僚になるつもりかもしれない」
 冗談のような口調だったが、曽根の覚悟を知って気おくれした。もしジャックを取り逃がせば、何もかも無駄になってしまう。
「もう後に引けませんね」
「まだこれからです。被害者が助かっても、犯人が逮捕できなければ本当の生活は戻らない。確かに、その通りだと思います」
「ありがとうございます」
「蟹江に頼んでいた黒伏の監視が役立ちましたよ。実際はただ張り付いていただけなんですが、あなたも上から信用されていない、いずれ尻尾を切られるって伝えたら、監視に気づいて、いろいろ勘繰ったのでしょう」
「蟹江さんを利用したんですか?」
 曽根は頷いた。
「監視していたのは蟹江の部下や外部の人間なんですが、奴らにとばっちりがいかないよう、念のため私たちを売るように仕向けました」
「売る?」
「黒伏に警察手帳を返却したときです」
 ぎょっとして曽根の顔を見つめた。
「あれ、狂言だったんですか?」
「蟹江と相談の上でした。万が一を考えて、蟹江とその部下を守るための安全策です。これは神代さんの考えですよ」
「私の?」
「いざとなったら私を売ってくださいっていいましたよね?」
 曽根は微笑んで続けた。
「あなたの立場まで悪くなってしまったのは謝ります」
「わざわざ人目に付くところでやったんですね。蟹江さんの立場を伝えるために」
「苦し紛れでしたけどね」
 真琴は手柄を得たような黒伏の表情を思い返した。
 蟹江を事件から切り離しつつ、黒伏と取引する。
 でも、それじゃあ──
「うまくいったとしても、曽根さんだけが泥をかぶることになりますよ」
「これでいいんです。覚悟はしていたし、ほかにいい考えもなかった」
 隠蔽を探るためにいつから根回ししていたのだろう。半年か。一年か。それでいて被害者の救出を優先するという約束も守った。その覚悟に頭が下がった。
 ジャック以外に、もうひとり計れない人物がいたか。
「ジャックを捕まえることで、二年前の誤認逮捕は明確になる。隠蔽にも光を当てることもできるんじゃないですか?」
 曽根の表情は険しくなった。
「かもしれませんが、もし告発に成功しても誤認逮捕や隠蔽に関わった者を組織から全員排除するのは不可能です。だから裏切れば一時はヒーローとしてマスコミや世間が持ち上げてくれるでしょうが、組織に残ることは難しい。遺恨が残る」
「だから警察に残る蟹江さんを下ろしたんですね。黒伏も、もちろんわかってますよね?」
「ジャック事件まで告発すれば組織からはつまはじきでしょうが、奴にはその先の手があるのかもしれないし、最初から告発する気なんてないのかもしれない。何を企んでいるのかわかりません」
「そのネタを上との取引の材料に使うこともできますしね。例えば出世の切り札とか」
 曽根は複雑な表情をしていたが、腕時計を見て続けた。
「もうすぐ時間なので、富岡萌との関係を本人に聞いてみましょう」
「黒伏と話していた面会って──」
「ええ、古賀亮太です」

 夜の署内はまばらな明かりだけで余計陰気に見えた。刑事課からは喧騒が漏れていたが、ほかのフロアは人気がない。ふたりは薄暗い階段を四階まで上がった。
 留置場の警官と曽根が会話すると、格子扉の中に通された。警官の先導で通路を進むと、就寝間際で思いのほか騒々しかった。留置されている男たちが布団の上で思い思いの時間を過ごしている。
 警官が最奥にある独居の鍵を開けると、終わったら呼んでくださいと言い残して引き返していった。
 格子扉を開けると、スウェットで布団の上に胡坐をかいている古賀亮太が振り返った。絞られたせいか、曇った眼で真琴を見たものの、表情はそよとも変わらなかった。
 独房の中に入ると、古賀亮太の前に座って目線を合わせた。
「古賀さん、少しだけ話をさせてください」
  古賀亮太は戸惑いながら視線を外して向きを変えた。
「疲れてるんです」
「何も話さないそうじゃないか」
「このままじゃ、本当にあなたが殺したことにされますよ」
 古賀亮太が俯いて頭を抱えた。
「富岡萌を知っていますか?」
 古賀亮太が振り返った。なぜ知っているのか、強張った表情がそう告げていた。
「そんな人、知りません」
 富岡萌がアプリで名乗っていたニックネームを告げた時、古賀亮太の視線が泳いだのを見逃さなかった。
「知ってるんですね?」
 続けて木崎佳乃のニックネームを口に出すと、古賀亮太は慌てて膝を崩した。
「携帯見たんですね?」
 腕組みをした曽根が壁に寄りかかった。
「知ってることを全部話したほうがいい」
 古賀亮太は混乱しているのかまた黙り込んだ。
 曽根が続けた。
「富岡萌は殺されてる。もうひとりは、奥さんと一緒に助けられた被害者だ」
 古賀亮太は絶句した。何かが頭の中でつながったのか、曽根の足元ににじり寄った。古賀亮太は首を振りながら、やってないと繰り返した。
「僕じゃないです!」
「二年前の事件を知ってるか? バラバラ遺体が発見された事件だ」
「何のことですか? 知らないですよ」
「二人との関係を聞きたいの。本当のことを話して」
 古賀亮太がすがるような目で振り向いた。
「何度かデートして、その、ワリキリだったんです」
 寝ただけかと曽根が問うと、古賀亮太は申し訳なさそうに頷いた。
「浮気してたので、妻にはばれたくなくて」
「それだけか?」
 富岡萌は頻繁にスマートフォンの機種変更をしていた。そう話した親子との会話を思い出した。
「何度か会ったというより、付きまとったんじゃない?」
 古賀亮太は一瞬躊躇したが、渋々といった様子で頷いた。
「萌とは気が合って、何度か。それで後をつけて、バイト先を突き止めて、本名を知りました」
 富岡萌が携帯を新機種に変えていたのは、古賀亮太のような付きまとう男から逃げるためでもあったのだろう。アルバイト先もばれてしまった彼女は辞める気だったに違いない。
 富岡萌が沢山の男と会っていたというのはアプリ履歴からも裏付けられており、皮肉なことに大学の友人が話していた姿こそ本当の彼女に近かったのかもしれない。両親をはじめ、親しい人間にも見せない一面があったのだろう。
「富岡萌とはどうなったの?」
「急にバイトに来なくなったんで、それからは会ってないです」
「富岡萌はバイト帰りに姿を消したのよ。そして遺体で発見された」
「僕じゃない! 僕は関係ないんです! 本当です!」
「二年前の富岡萌と、今回の木崎佳乃を繋ぐ線は、お前しかいないんだ」
「嘘じゃない! 萌がいなくなって探したんですから!」
 曽根が木崎佳乃について問いただすも、古賀亮太の返事は同じだった。
 寝ただけで殺していない。
「多摩川の遺体はどうなの?」
 古賀亮太は黙ってしまった。
「話すんだよ」
「彼女も会っただけで、本当に何も知らないんです」
「黙秘したそうね。なぜ割り切った関係だったと答えなかったの?」
「だって、バレたら確実に離婚だし──」
 真琴は耳を疑った。
「あなた、事の重大さがわかってるの?」
「その話が本当なら、お前はいま冤罪で捕まっているんだぞ?」
「だって、離婚したら、生活がめちゃくちゃになっちゃいますよ。家も仕事もなくなるし」
「さんざん女遊びしてから後悔しても遅いだろう。捜査が進めばいずれバレるぞ」
 古賀亮太は片膝をついて頭を抱え、呻きを漏らした。
「本当のことを言っても疑われるに決まってるし、どうすればいいのかわからなかったんです。本当なんです」
 曽根は大股で古賀亮太に近づくと襟首を掴んで引き立たせ、壁際に押しつけた。真琴が止める間もなかった。
「いいか。富岡萌は死んでるんだ。付きまとうぐらいには好きだった女だろう。犯人が憎くないのか?」
 その言葉がめまいのような余韻を残した。頭の中を反響するようで、思わず曽根の袖を掴んだ。曽根が何か言っている。声は聞こえるが内容が入ってこなかった。次第に自分の思考がひとつの焦点を結んでいくのがわかった。
「どうしました?」
 ものすごい顔をしていたのか、曽根が心配そうに顔を覗き込んだ。
「曽根さん、急いで病院に行きましょう」
 困惑する曽根と古賀亮太を放って、留置場から駆け出した。外に出ると病院に電話をかけた。警察を名乗って病棟に繋いでもらい、応答した看護師に二人の様子を見てほしいと頼んだが、保留になったまま待たされた。
 時間を確認すると二十二時近い。すでに就寝時間は過ぎているだろうに、時間がかかりすぎる。
 何かあったのか?
 不吉な想像が消えなかった。
 真琴は舌打ちした。
「何やってんのよ。早く出てよ」
 悪態をついた矢先、相手が電話に出た。
「ふたりとも眠ってましたよ」
 真琴はほっとして、冷静さを取り戻した。
「これから私か警官が行きます。二人に気を付けていてください」
 看護師はそっけなかった。
「ええ、あの、病室を巡回してますから、安心してください」
 曽根が追い付いてきてエンジンをかけた。電話を切って、助手席に乗り込んだ。
「病院の警官に連絡を取れますか?」
 曽根は強張った表情で言った。
「見張りの警官はもういません」
「じゃあ黒伏さんに連絡して、病院に警官を送ってください」
「どういうことです?」
「とにかく急いでください。ジャックが何者かわかりました」

 病棟全体が消灯していて、廊下のフットライトや非常口の誘導灯だけが頼りだった。多くの患者は寝静まっているようだが、夜の病院は思いのほか騒がしく、医療機器が出す電子音やひそひそとした話し声が耳についた。
 明かりを頼りにスタッフステーションに着いたが誰もいない。さっきまで座っていたらしきテーブルにはファイルや医療機器が残っていた。
 巡回かもしれない。そう思いながらも胸騒ぎがした。オンコールの可能性があるのに無人にするだろうか?
 近くに誰かいないかと廊下を覗いたが、明るい蛍光灯の元では奥を見通せなかった。
「神代さん、ひとまず古賀美月のところに」
 曽根が先を歩いた。目を慣らしながら後を追ったが、角を曲がったところで足が止まった。廊下にうずくまっている人影に気づいた。女性の看護師で、白い制服が闇の中でぼんやり光って見える。曽根が近づいて肩に触れると、何かを呻いて仰向けにくずれた。思わず後ずさった。彼女は両手で腹部を抑えていて、白衣はべっとりと血に濡れていた。
「おい、わかるか? おい!」
 曽根の呼びかけに顔を上げて答えたが、表情に力がない。呼吸が浅く、ショック症状が出ているようだった。
 曽根が古賀美月の個室のドアを開いて室内に入ったが、すぐに出てきて首を振った。
「曽根さん手伝ってください。明るいところに運びましょう」
 廊下のベンチを担架代わりにスタッフステーションまで運んだ。曽根が手当たり次第にガーゼを集めて腹部の傷を圧迫した。看護師は顔を歪めて低く呻き声を上げた。
「誰か! 誰かいないの!」と叫んだ。
 どこに連絡すれば良いのかわからず、スマートフォンの履歴から病院の夜間受付を再度呼び出し、看護師が重症だと伝えた。困惑しているのが伝わってきたが当直の医師を向かわせるという。
 真琴は電話口の相手を落ち着かせて、警察に通報するよう伝えた。
「看護師を刺した犯人がまだ病院のどこかにいます。警察もすぐに来ますから、それまで騒がず、迂闊に動かないようにお願いします」
「患者を避難させたほうが──」
 真琴はもどかしさを押さえながら言った。
「パニックになります。必要な時は警察が指示しますから、いいですね?」
 押し付けるように言うと通話を切った。
 曽根が止血しながら真琴を呼んだ。
「代わってください。木崎佳乃のところに行ってみます」
「凶器をもってます。気を付けてください」
 真琴は声をかけながら止血を続けた。しばらくすると女性医師と看護師が駆け付けた。真琴に取って代わると素早く被害者をストレッチャーに乗せた。
「警官が来たら木崎佳乃がいるICUに来るように言ってください」
 女性医師が脈を取っていた顔を上げた。
「いまそれどころじゃ──」
「犯人がまだ病院内にいるんです」
「木崎さんなら今朝一般病棟に移ってます」別な看護師が答えた。
 踵を返して看護師にとりついた。
「病室はどこ? 大事なことなんです」
 看護師は慌てて端末で確認した。
「六一五です」
 廊下を足早に進みながら曽根に連絡した。
「先に行きます。急いでください」
「すぐに行きますから! 待っててください!」
 真琴は曽根の声を無視して電話を切った。
 一刻の猶予もない。
 エレベータが六階に着いた。暗い廊下が伸びていて、先ほどのフロアよりずっと静かで不気味だった。
 部屋番号と木崎の名前を探して廊下を進んだ。自分の足音が耳につく。待ち伏せされればひとたまりもない。背後を気にし、角を気にした。
 突き当りの個室に木崎の名前があった。番号も合っている。
「警察です。木崎さん、入りますよ」
 警戒しながら病室のドアを開けた。掛布団がめくれ上がっており、姿が見えない。
 どこに行ったの?
 焦って病室から出ると廊下を見回した。トイレの先、突き当りに休憩室があった。嵌め殺しのガラスだけでカーテンがないため、外のビル灯りが射し込んでぼんやりと明るい。
 そこに誰かが立っていた。
 息を整えて、近づきながら声をかけた。
「こんばんわ」
 シルエットからニット帽をかぶった女性だとわかった。歩行器を使っているようだ。
「木崎さん?」
 人影はこちらを向いているが身動きひとつしなかった。
「大丈夫ですか?」
 さらに一歩近づいて背筋が凍った。
 木崎佳乃は凄まじい形相で、あらぬ方向を見たまま硬直していた。真琴は声も出せず、口を開け閉めすることしかできなかった。
 彫像のように動かない木崎佳乃から、ぴちゃぴちゃと水音がして我に返った。音をたどって視線を彼女の足元に移した。
 失禁していた。
 状況を把握する前に、背後から一撃を受けた。床に打ち付けられて意識に火花が散った。痛みで息がつまり声もでない。焦って床から視線を上げると、裸足の足が見え、血を滴らせるメスが見えた。白いワンピースを着た古賀美月が、仁王立ちで見下ろしていた。
 ジャック。美しすぎて邪悪な、切り裂きジャックだ。
 無言で見つめ合ったのは一瞬だった。立ち上がろうとしたが、脇腹に鋭い痛みが走って床に倒れた。痛む部分に手を当てると、温かい血が手のひらにべっとりとついた。
 ジャックも木崎佳乃も、声を発することはなかった。
 代わりに真琴が絶叫した。
「曽根さん!」
 その声が病棟に響き渡った。人声がしてジャックが背後を警戒した。いまだ。渾身の力で組み付き、床に押し倒した。短い悲鳴が上がった。メスを持つ手を両手で抑え込み、床に叩きつけた。吠えながら、二度、三度、それでも指は絡みついたままメスを離さなかった。
 ジャックが暴れだし、腹部に一撃を食らった。弾き飛ばされて二人とも床に転がった。衝撃で息が詰まり、床に倒れると芋虫のように身体を折った。全身を痺れるような痛みが走った。悶えていると、ジャックが身じろぎした。立たなきゃ、やられる。四つん這いで身体を起こすと、自分の下に温かい血だまりが広がっていた。傷口が開いたのだ。血が、血を止めないと。片手で腹部を圧迫したが力が入らない。血溜まりにくずおれ、痛みともどかしさで、我慢できずに唸り声を上げた。
 ジャックは壁に手をつき、立ち上がった。表情は怒りに歪んでいた。
「あんたのせいで台無しよ」
 真琴の視界は溢れた涙で曇った。ジャックは目の前を素通りして、まんじりともしない木崎佳乃に向かった。その足首を掴み、痛みをこらえて叫んだ。
「逃げて! 逃げてえ!」
 木崎佳乃は窓際から動こうとしない。恐怖に歪んた表情のまま、真琴に縋るような視線を向けている。
 ダメだ。ふたりとも殺される。
 ジャックの足が真琴の頭に叩き込まれた。痛みの代わりに痺れのようなものが全身を貫き、意識が遠くなった。反射的に足首から手を放し、頭をかばうようにして血だまりの中で動けなくなった。
 ジャックが真琴をまたいで木崎佳乃に近づくのがわかった。何とか阻止しようとやみくもに手を伸ばしたが、空を切るだけだった。血にまみれてのたうつ様に身体を動かし、どうにか上半身を起こした。身体が言うことを聞かなかった。
 ジャックは木崎佳乃のニット帽を鷲掴みにして投げ捨てると、僅かに残っていた髪を掴んでメスで切り落とした。
 バツン、バツンッと切り裂く音がするたび、木崎佳乃は震えながらしゃくりあげた。髪を切るたびに何度も何度も痙攣したようにびくりと震えるのを見て、ジャックは吹きだした。
 逃げて、と言ったつもりが声にならなかった。必死でふたりに這い寄った。刺された腹は何も感じず、怖くなるほど呼吸が浅くなって、腕が震えてきた。
 木崎佳乃は肉体に閉じ込められているかのように、されるがままで、真琴を見つめたまま涙を流した。ジャックは髪を切る手を止めて、名残惜しそうに泣き顔を覗き込んだ。
「続きをしたいけど、もう時間切れね」
 メスを持ち直して振り下ろした瞬間、真琴は吠えてジャックの足首を思い切り蹴りつけた。ひざを折って態勢を崩したジャックの腰にすがりつき、床に引き倒した。だがもう、暴れまわるジャックに覆いかぶさることしかできなかった。
 嵐のように暴れるジャックに組み付きながら、殺されると思った途端、眩しさに目がくらんだ。病棟の照明が一斉に点き、警官たちがなだれ込んで、真琴を引きはがすとジャックを床に押さえ込んだ。一瞬の出来事だった。
「制圧! 制圧だ!」と男たちの怒声が響いた。
 ジャックが甲高い声で放せと叫んでいた。
 助かったのだとわかったが、同時に意識が暗い縁に沈んでいった。

 五日間の入院と聞いて夫が駆け付けたという。脳震盪に腹部二か所の裂傷。内臓に損傷はなかった。合併症が出る恐れはあったが、きっかり五日後、傷が完全に塞がるまで安静にするよう言い渡されて退院が決まった。
 四人部屋で真琴の荷物をまとめていた夫に、まだやることがあると伝えると驚いて振り返った。
「まだ抜糸もしてないんだよ」
 険を含んだ口調に、近くの患者が振り返った。真琴は謝って、もっと声を落とすように伝えた。
「絶対無理はしないから」
「だけどさ。軽傷だから退院するわけじゃないんだよ?」
「わかってるけど、捜査に関わるのはこれで最後にするから、いいじゃない」
 夫は不満そうな表情で衣類をバッグに詰め、ベッドに腰を下ろした。
「あと、どのぐらい?」
「犯人の取り調べに立ち会うだけ」
「傷を治してからでもいいんじゃない?」
「どんな奴か、きちんと見たいの。このままじゃなんだか中途半端で。あとは治療に専念するから」
「向こうは知ってるの?」
「曽根さんにはさっき連絡した」
 夫は明らかに納得していなかったが、バッグを持つと立ち上がって、忘れ物がないかとあたりを確認した。
「じゃあ俺が運転するから。警察に寄ってからまっすぐ帰るってことで。長居はしない。それでいいね」
「うん、わかった」
 スタッフステーションで世話になった礼をすると、そそくさとエレベーターに向かう夫を呼び止めた。
「もうひとり挨拶しておきたいんだけど」
「ああ、木崎さん?」
 入院中に彼女の兄妹や両親と何度か顔を合わせていた。面会謝絶だった木崎佳乃本人とは一度も会えなかったが、ショック状態からようやく落ち着いてきたという経過だけは聞かされていた。
 大股で歩くと傷に響くので、すり足で歩くことにすっかり慣れた。もたもたと木崎佳乃の病室まで歩く途中、コンビニの袋を持った木崎佳乃の母親と会った。ずっと泊まり込んでいたようで、服装は依然と変わっておらず、今日は化粧もしていなかった。
「退院するので挨拶に」と真琴が言うと、母親は疲れた顔で微笑んだ。
「娘も体調が落ち着いてきたので、経過を見て自宅療養になりそうです」
 心底安堵して、ドアの閉まった病室に視線を移した。
「ほっとしました。本当によかったです」
 入院中、木崎佳乃の恐怖に歪んた表情を忘れたことはなかった。助けを求める彼女の視線は、これからも残るだろう。ただ彼女は助かった。助けることができた。それだけが救いだった。
「今度、お見舞いに──」
「あの、それは」
 真琴をさえぎって、母親が口を開いた。
「ようやく落ち着いたところで、実は兄妹にもまだ会っていないんです。それで、娘を助けてくれた方にこんなことを言うのは申し訳ないのですが、もう来ないで欲しいんです」
 言葉が見つからず、わかりましたと言うのがやっとだった。
「そっとしておいてください。娘が会いたいというなら、そのときは止めません。きっと必要なんでしょうから。でもそれまで、見守ってやりたいんです」
「そうですね。申し訳ありませんでした」
 頭を下げると、母親は微笑んだ。
「警察の方にもよろしくお伝えください。本当に、ありがとうございました」
 病室に消えていく後姿を見送った。目の前でドアが閉まり、ふと悔やんでも仕方のない考えが頭をもたげた。
 本当に木崎佳乃を助けることができたのだろうか?
 何かが背中に触れてびくりとした。夫が手を回し、寄り添っていた。
「できることをやったんだから、それ以上は考えても仕方ないよ」
 わかってはいたが、力になれなかったという気持ちは拭えなかった。

 夫を車に残して取調室に向かった。警官に案内されてドアを開けると、捜査官のひとりが立ちふさがった。
 部屋の奥から黒伏の声がした。
「通しなさい。彼女は事件の功労者ですよ」
 人が割れて、曽根と黒伏を除いた捜査官がぞろぞろと部屋から出ていくと、マジックミラー越しに取り調べを受けている古賀美月が見えた。シャツにジーンズの簡素な格好で、向かいに座って調書を取っている男女の捜査官には目もくれず、剥げたネイルを気にしているようだった。
 彼女の姿を凝視していると、そばに誰かが立っていてはっとした。曽根が心配そうに眉を寄せていた。
「具合はどうですか?」
「まだ歩くだけで傷に響きます」
「お大事に」と黒伏が言った。視線は古賀美月から離さなかった。
「どうですか?」真琴は黒伏に呼びかけた。
 黒伏は居心地悪そうに、真琴をちらと見た。
「見た通りですよ。ほとんど話しません」
 古賀美月の表情は和やかだった。やたらと身だしなみを気にしている。
 黒伏が続けた。
「良くわかりましたね。古賀美月がジャックだと」
「気づくのが遅すぎたぐらいです。古賀亮太が獲物を選択して、古賀美月が殺していた。動機と犯行が噛み合わないせいで、プロファイリングの妨げになっていたんです」
「なるほど。そういうもんですかね」
 黒伏は綺麗に剃られた顎を掻いた。
「古賀亮太の浮気相手ばかりを狙っているって聞いた時に思いついたんです。単純な嫉妬による犯行だとしたらどうだろうって。夫の浮気に嫉妬するとしたら、まずは妻ですよね?」
 曽根は顎をしゃくって、ミラー越しの古賀美月を指した。
「彼女の証言は全部嘘だったってことですか?」
 真琴は頷いた。
「彼女が白い軽バンと目撃されたときに、車の運転席には誰も乗っていなかったんです。なぜなら、これから彼女が乗るところだったから」
「マッチングアプリじゃなく掲示板だと答えたのも?」
「話をそらすための嘘でしょう。もっと決定的な理由もあります」
「ああ、レンタカーか」黒伏が言った。
 真琴は頷いた。
「そうです。捜査本部がレンタカーの契約元を古賀亮太の会社だと突き止めましたが、あのレンタカーは福利厚生を兼ねていて家族も利用できるんです。契約していることを知っていて、レンタカーを利用できる人物は古賀美月しかいない」
 黒伏は腕を組んだ。
「古賀美月のマッチングアプリのアカウントを特定したんですが、富岡萌と木崎佳乃の両方と接触してましたよ」
「二人の履歴を照合した時には古賀亮太のアカウントしか出なかったのでは?」
 曽根の問いには真琴が答えた。
「番号を変更していたのね」
「ええ、頻繁にね。それぞれ別なアカウントを作ってましたよ。犯罪に関与しているとわかるようなやりとりも取れたし、お手柄ですよ」
 証拠を突きつけられた古賀美月はふてぶてしい態度を崩さず、主張は愛する夫とそれを誘惑した女性たちという構図で一貫していたという。殺人についても、夫が称賛するはずだと言ってきかなかった。
 古賀美月の最初の犯行は浮気を目撃したことから始まったのだろう。相手の女性が夫と別れた後、後をつけて殺害した。
 そこからは徹底していた。
 古賀美月は夫のアクティビティが追跡できるように監視アプリを仕込み、ひそかに自分のスマートフォンに情報を連携したという。夫のすべてのやり取りは筒抜けになった。
 そして彼と寝た女を狙って、次々に殺していった。
 大方、真琴の予想通りだった。黒伏の話に頷いていると、曽根が疑問を投げた。
「そんなにうまくいくんですかね? 半分ぐらいは想像できないんですが」
 真琴が答えた。
「監視アプリと言っても、そんなに特別なものじゃないんです。元々は紛失した時に遠隔操作でロックしたり位置情報を送信したりするためのアプリなので」
 古賀美月が顔を上げた。向かいで話し続ける捜査官を興味がなさそうに見てから、マジックミラーに身体を向けて髪に手櫛を入れた。
 ミラー越しに視線が合った気がした。感情のない眼だった。こちらは見えないはずだが、古賀美月はゆっくりと口元を綻ばせて笑顔を作った。
 彼女に刺された傷が疼いた。思わず手を当てると、目を閉じ、深呼吸して見つめ返した。
 木崎佳乃は長い黒髪が特徴的だった。だから髪を切った。足が長くて綺麗ならその足を。胸を。そうやって夫を虜にした部位を切り取り、破壊して、気が済んだら捨てる。自分しか見えてない。被害者たちはみんな古賀美月の慰み者だったのだ。
 黒伏がうんざりしたようにため息を吐いた。
「はじめからずっと、口を開けば古賀亮太のことばかりです。あの男にそんな価値があるとは思えませんけどね」
「そうじゃありません。彼女の眼には自分しか映ってないんですよ」
「なんでもいいですけどね」
 黒伏は動機など関心がないようだった。
「彼女と話をさせてもらえませんか?」
「目的はなんです?」
「本人の口から聞きたいんです」
 黒伏は考えを巡らせているようだった。
「まあ、いいでしょう」
 黒伏がマイクを使って取調室の男女の捜査官に声を掛けた。ふたりはテーブルの上をさらって部屋を出た。古賀美月は興味がなさそうに一部始終を見ていた。
「手短にお願いしますよ」
 取調室の空気はひんやりとしていた。ドアを開けて向かいに座っても、古賀美月は俯いて目を閉じていた。
「すっかり騙された」と真琴が言った。
「傷の具合はどうですか?」
「木崎佳乃の病状を気にするそぶりを見せていたけど、殺す機会を伺うためだったのね」
 古賀美月が目を開けて、口をゆがめて笑った。
「わざわざ説教するためにきたの?」
「あなたが夫を想うのと同じように、彼女たちにも家族や友達がいるとは考えなかったの?」
「だったらなんで亮太にちょっかいを出すわけ?」
「殺さなくてもいいでしょう」
「あなたに殺すっていう選択肢がないだけでしょ。それだけのことをしたのよ」
 冷たい眼だった。自分を信じて疑わない眼だ。
 この方向ではダメだ。完全にすれ違っている。別なアプローチが必要だった。
「他人なんて関係ないって気持ちはわかるけど、少なくとも相手の人生を狂わせるようなことはするべきじゃない」
「あなたは誰の邪魔もしてないっていうわけ? みんな自分の荷物を押し付け合ってるじゃない。わたしがやってダメな理由がある?」
 古賀美月はそう言って、秘密の話をするかのようにテーブルに身を乗り出して続けた。
「あのね、知らないなら教えてあげる。自分の幸せは自分で掴まないと、誰も助けてなんてくれないのよ? 世の中、やったもん勝ちなの」
 焚きつけるような笑みだった。
 真琴は気持ちを落ち着かせて、努めて冷静な口調を装った。
「それで、あなたは欲しいものを手に入れたの?」
「どういう意味?」
「夫はあなたのことをどう言ってるの?」
 古賀美月は拍子抜けといった風に椅子に深々と腰かけた。
「あんたたちが会わせてくれないんだから、知らないわよ」
「夫の気持ちが離れてしまうのがそんなに怖い?」
 古賀美月の顔つきが変わった。
「離れてなんかいない。あいつらが亮太を誘惑しただけよ。ちょっとした気の迷いで浮気をしただけじゃない。大したことじゃないわ」
「ちょっとした浮気だって思いたいの?」
「え? なに?」
 古賀美月は眉間に皺を寄せた。
「なぜ相手の女性にだけ敵意を向けるの? 浮気なら夫にも過失があるでしょ?」
「はっきり落とし前をつけてもわらないと」
「私の話を聞いてる? あなたの夫も相手の女性も、合意の上で会っていた。知ってるでしょ? 夫にだって非があるんじゃないの?」
「誘惑したのはあっち。相手が寝る気満々なら、亮太だっていくじゃない」
「古賀亮太が誘わなきゃ会ってないでしょう?」
「それは許すわよ。夫だもん」
「相手の女性がすべて悪いの?」
「あたりまえでしょ。バカ女ども、アレされて当然のことをしたんだから。みんな泣きながら謝ってきたけど、許せるはずない。身動きでないように手足を縛って、どこから切ってほしいって聞いたの。でも親切にもしてやったつもり。じゃないと死んじゃうっていうから、水もあげたし、血が一気に出ないように気を付けた。バケツおいてトイレも用意したのよ」
 黙って様子を見た。古賀美月は明らかに興奮していた。居心地が悪そうに身をよじり、真琴を睨んでは警察や被害者の女性たちに向けた悪態をつく。いじけた子供のようだった。
「あなた、いつまで自分を憐れんでいるの? 捨てられるのがそんなに怖い?」
「何の話よ」
「夫の気持ちが離れたなら、次に行けばいいじゃない」
「離れてない」
「連続殺人犯の妻を愛せると思う?」
 古賀美月は無言で首を傾げて、憎悪のこもった眼で睨んだ。あの時の壊れた眼だった。真琴もひるまず睨み返し、追い打ちをかけるように続けた。
「邪魔者を排除して自分の世界を変えたつもりなんでしょうけど、変わりっこない。永遠に殺し続けることになる」
 古賀美月は微動だにしない。
「それが望みなの?」
 古賀美月の眼の中に一瞬ノイズが混じり、感情が揺らぐのを感じた。迷いなのか混乱なのかわからないが、何かに触れた気がした。彼女が逃げるように視線を外したことで狂っていないと確信した。いつか自分を守っている殻が砕ければ、一連の犯行や夫の気持ちのすべてを受け止める時が来るだろう。そのとき、彼女がどうなるのかはわからない。ただ現実を知ること自体が、彼女にとって一番の罰になるはずだ。
 彼女が哀れに思えた。攻め立てる気持ちが切れて、椅子を引いて立ち上がった。
「ちょっと待ってよ。あなた医者なんでしょ?」
「医者じゃない。分析官よ」
 古賀美月は右手を伸ばし、手のひらを上にして差し出した。
「こっちの手を見て欲しいんだけど」
 手? ただの手だ。綺麗に手入れされていて、美しすぎて邪悪な、人殺しの手だ。
「どう? なんかわかる?」
「何を言ってるの?」
 古賀美月は腕を下ろすと、ポツリと言った。
「夜になるとさ、こっちの手が誰かに握られているような気がするのよね」
 カウンセリングは専門ではないが、総合的に見て、おそらく人格障害の一種だろう。手首など、見える範囲に自傷行為の跡はない。彼女の場合は、どういうわけか感情が他人への敵意にだけ振り向けられているのかもしれない。
 だから手についても気のせいとしかいえない。もっといえば、彼女は心のどこかで殺人を悔いているのかもしれない。罪の意識が毎晩のように無意識の殻を破って表出し、凶器を握っていた手を通じて殺したことをわからせようとしているのかもしれない。
 黙っていると「もういいわ。ご苦労様」と古賀美月が言った。元通りの不遜な態度に戻っていた。
 真琴は説得するように呼び掛けた。
「いい? これはチャンスよ。きちんと治療を受けて、罪を償って」
「どういう意味?」
「本当の医者が来て、あなたを助けてくれる。だから、そのときは素直に従って。このままじゃ、あなたはここまで。これで終わることになる」
「何の話よ」
「わかってるはずよ。いい? 治療を受けるのよ」
 そこまで言って真琴は口をつぐんだ。そして怪訝な顔の古賀美月を残して、取調室を出た。

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