【ミステリ】切り裂きジャックの帰還 2 / 全8話

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 また朝が来た。神代真琴はテレビで繰り返される台風情報を聞きながら着替えを終えて、玄関の全身鏡の前に立った。ミニマルなデザインのスーツだが、思い出せないぐらい前に買ったものでくたびれていた。視線を自分の顔にもっていくと、短く切られた髪と薄い顔でスーツと調和がとれている。
 良くはないが最悪でもない。
 鏡越しに身支度を終えた夫が現れて、かがんで靴ひもを結び始めた。
「なんか昨日眠れてなかったね。大丈夫?」
「ごめん、起こしちゃったよね」
「ニュースを見たんでしょ?」
 昨夜のニュースは多摩川で発見された女性の遺体で持ちきりだった。他殺だという。それを聞いて掴まれたように胸が苦しくなった。
 似た事件が報じられるたびに記憶が呼び起された。忙しくしている間は忘れられるが、ひと息ついた拍子に頭をよぎる。この二年は、記憶と一緒に罪悪感を追いやるのが習慣になっていた。
 夫が立ち上がって振り返ったので、慌てて表情を緩めた。
「しんどかったら休めばいいよ」
 夫が腕を広げた。真琴は夫のスーツにファンデーションが付かないよう気を付けながら抱き合った。背中をさする手は暖かく、気持ちを充電するようにしばらくそうしていて、身を離すと、その場を笑顔で取り繕った。
「大丈夫。わたしももう出るから」
 捜査から離れ、治療を終えて、また仕事を始めたいと言ったとき、担当医から「そう思えるようになったら大丈夫。よくがんばりましたね」と労いの言葉をかけられた。なにより夫が喜んでくれたことが嬉しかった。
 一方で不安もあった。快癒に向かっているという医師の所見に納得できていなかった。主観では治癒ではなく記憶の風化としか思えなかったからだ。
 予感は当たっていたのかもしれない。でも引っ越したばかりだし、新しい環境で社会復帰して間もない。またくじけて、これ以上心配をかけたくなかった。
 いつものように大学に出勤したが、どうしても気になって講義の前に事件について調べた。
 後悔したときには遅かった。
 便器に片肘を突きながら吐き気が収まるのを待つ間、汚物に血が混じっていないか確認した。もちろん混じっていない。最後に吐いてから半年以上は経つ。残ったのは確認する癖だけだ。
 スマートフォンで時刻を確認した。本来なら講義を始めていなければならない時間だ。生徒に連絡して欠席を伝えた。つらいときは何度もあったが、投げ出したのは初めてだった。
 自分の身体に何が起こっているんだろう。
 個室を出て手を洗い、涙で崩れた目元を直すと、トイレの出入り口にある全身鏡で身だしなみを整えた。鏡の自分にまた言い聞かせた。
 良くはないが最悪でもない。
 泥の中で呼吸を強いられるような息苦しい治療期間に比べれば、かなり安定しているし、実際、ひどい夢はみなくなった。後悔の記憶も、贖罪の意識も薄らいだ。大丈夫。大丈夫だ。治ったはずだと言い聞かせて、皮肉な状況に口元が歪んだ。そもそも医師の所見に納得できていなかったはずなのに、いまは良くなったという医師の言葉にしがみつき、反芻している。
 だがもうなんでもいい。普通の生活を送れさえすればなんでも。なりふり構っていられない。たとえ自分に嘘をつくことになっても、夫と前に進む力を得られるのであれば、それで構わない。
 不安を押し殺してトイレを出ると、まだ昼過ぎだというのに大学校内は薄暗く、学生の姿はまばらだった。どこかそわそわした雰囲気に飲まれて二階の窓から外を見ると、分厚く張り出した空の下で、学生の群れが足早に駅に向かっているのがわかった。
 台風のため電車が計画運休するという今朝のニュースを思い出した。
「大丈夫ですか」
 ふいに声を掛けられて振り返ると、女子学生がコートを羽織って寒そうにしていた。
「大丈夫ですか? 具合悪そうですよ」
「もう平気。ありがとう」
 悟られないように表情を崩し、礼を言って校舎の出口に向かった。
 足音が追ってきた。
「先日の助手の件ですが」
 申し訳ない表情を作り、足を止めて振り返った。そこで進路相談を受けた日崎という学生だと気づいた。
「何度か話したかもしれないけど、非常勤としてもやっていく自信がないのよ」
「でも、犯罪心理をやろうとしたら、先生しかいないじゃないですか」
「専任でもないし」
 日崎は黙った。
 学生とは努めて距離を取っていたが、彼女の熱心さには気づいていた。優秀だし、できることなら協力したかった。川村教授に紹介すればなんとかなるかもしれないとは考えたが、自分が関わることで彼女にも悪評がついてまわるかもしれない。そう思うと踏み切れなかった。
 日崎は真琴の態度から何か感じ取ったのか、言いづらそうに、ポツポツと話し出した。
「あの、体調がよくないんですか? それとも、辞めるとか?」
「まだわからないけど」
 犯罪心理はデータの集積だ。あらゆる事件が研究の対象となる。そこに例外はない。この仕事をしている限り、嫌な記憶からは逃れられない。今日のことで何かの堰が切れて、講義のたびに朝食と再会するのは御免だった。
「ごめんね」
 会釈をして、立ち去ろうと背を向けた。
「でも、警察の現場経験のある方はいませんし」
「ええ、そうだけど、誰か紹介するから」
「捜査実務で実践できるような研究だって──」
 かっとなって、振り向き様に答えた。
「いまそれどころじゃないのよ!」
 言ってしまってから口をつぐんだ。日崎はなにかを言おうとしたようだが、真琴はそれを制して謝罪した。
「ごめんなさい。でも師事すべきは私じゃなくて、他にいるんじゃない?」
「ほかの心理の教授が学生にどう思われているかご存じですか?」
「わたしがみんなにどう思われているか知ってるの?」
 反応がなくなったので歩き出すと、日崎もついてきた。
 ふと周囲の視線に気づいて見回すと、男子学生が慌てて目をそらすところだった。
 大半の学生は、わたしを科警研の落ちこぼれ分析官か、トラウマを負った可哀想な女だと思っているだろう。
 どれも正解だ。
 組織に戻る目途も立たず、学会からの視線も厳しい。手元に残ったのは川村教授に同行して書いた論文と、その対価として得たいくばくかの評価だけで、おまけに悪評混じりのそれだけが社会と真琴をつないでいる唯一の楔だった。
 日崎が足を止めた。
 真琴は止めなかった。
「一体、何を心配なさっているんですか?」
「あなたのせいじゃないから」
「きっと成果を出しますから、チャンスをください」
 日崎の声は背後から追いかけてきたが、真琴は振り返らなかった。
 落ち着きを取り戻すと、自分の余裕のなさを恥じた。彼女に悪気はなかったのに、やり過ごすことさえできなかった。昨夜の事件からすべてがあまりに早く過ぎ去り、心が追いついていなかった。拒絶が一番楽な方法だった。すべてをやりすごせば、いつか元の生活に戻ることができるかもしれない。
 淡い期待はその夜に崩れた。
 これは夢だとわかっていながら、助けを求める声を頼りに藪の中に分け入っている。声の主は死んでいるんだから、自分が助けを求めているのかもしれない。必死で許しを請う。これ以上見たくない。許してほしい。それでも自分の足は進むことをやめず、やがて声の主が見えてきた。
 まずは無造作に投げ出された右脚が見え、次に左脚、そして胴体が見えた。顔形だけは綺麗で、富岡萌だと判別できた。暗い眼窩にはぽっかりと穴が開き、長い虫が出入りしていたが、視線だけは残っているようだった。
 口を動かさずに、富岡萌が言った。
「助けて」
 夢を飛び越えて現実に聞こえた気がした。起きてすぐ吐いた。口元を抑えて洗面所に駆け込み、蛇口をひねった。涙を流しながら嗚咽したが、吐き気ばかりで何も出なかった。そのうち夫の温かい手が背中に触れるのが分かった。
 振り出しに戻った気がして、翌日から大学を欠席した。
 まどろみのなかで時間が過ぎていった。
 玄関で音がした。
 気が付くと、カーテンから漏れていた明かりはなくなり、真っ暗なリビングでソファにすわっていた。
 足音が近づいてきて、夫の声がした。
「起きた?」
 部屋の明かりがついた。眩しさに目を細めると、スーツ姿の夫がビニール袋をテーブルに置いた。
「寝てたから、外で食べてきたよ。これ、マコの分も買ってきた」
 スーパーに買い物に行ったことは覚えていた。戻ってきてソファに座り、そのまま──時間の感覚が戻ってくるに従って状況がわかってきた。
 テーブルには夫が買ってきたおにぎりとインスタントの味噌汁が置かれている。少し太ってきたせいで健康に気を使い、低脂質のものしか摂らないという真琴のルールを、夫は覚えていた。そのことが嬉しかった。ごめんなさい。気づかなくて。そう言ったつもりが、口が渇いて言葉にならなかった。
 夫がキッチンに入っていった。
「あれ? 買い物してたんだ」
 冷蔵庫を開ける音がして、缶ビールを補充しているようだった。それからリビングを抜けて寝室に入っていった。
 真琴は出しっぱなしにしていた食材を手早く冷蔵庫にしまい、洗面所で口をすすぎ、ボサボサの髪を整えて戻った。スウェットに着替えた夫が冷蔵庫から缶ビールを出そうとしていたところだった。
「何を作るつもりだったの?」
「鍋。なんか肌寒くなってきたからさ」
「いいね。今度作ってよ」
 夫はソファに座りテレビをつけた。缶ビールをグラスにあけると、立ったままの真琴を振り返った。
「食欲ないかもしれないけど、ちょっとでも食べなよ」
 ありがとうといって、真琴は夫のとなりに座るとビニール袋を漁った。
 その日もまた眠れなかった。閉め切ったリビングに座ったきり、気が付けばカーテンから光が射していた。
 何度もこの朝を繰り返している気がする。
 寝間着姿のままソファに座る真琴の前に、スーツに着替えた夫が水の入ったグラスを置いた。
「ごめんなさい。気づかなかった」
「そろそろ出かけるね。今日はひどい雨だよ」
 何も予定がないと答えようとして、グラスを握ると、いま置かれたばかりなのに汗をかいているのに気づいた。テーブルにグラスの描いた水滴の輪がふたつ、重なっていた。
 一瞬、どういうことかと考えた。夫が水の入ったグラスを目の前に置き、氷が溶けたことに気づいて入れ替えてくれたのだとわかって、声も出なかった。
 何ひとつ気づかなかった。
 夫がため息を吐いたようだった。
「また今度さ、教壇に立ってみたら? なにか始めるだけでもいいとおもうよ」
 うん、というのがやっとだった。
 夫の言う通りだ。本当に、そうなればいい。
 見送ろうとソファから立ったが夫が制止した。それでも見送りに出ると、玄関で靴を履き、忘れ物がないかチェックしてドアを開けた。激しい雨音とともに風が吹き込んできた。夫は傘を手に取り、ひどい降りだと笑ってから、真琴を振り向いた。
「前も言ったけどさ、亡くなった被害者だって、マコに不幸になれなんて思ってないよ。人生を楽しんでいいんだよ」
 ためらいがちに頷いたものの、夫は小さくため息を吐いた。
「それじゃ、いってくるね」
 ドアが閉まり、ガチャリと、施錠の音がした。夫の足音が遠ざかると、糸が切れたようにその場に座り込んだ。
 その励ましは、いままでで一番強い言葉だった。
 わたしはまたここに戻ってきた。ずっとずっと続く長い道を歩いて、また同じところに戻ってきた。もう終わりかもしれない。いくら夫でも限界は来る。いまの言葉は彼自身も思わず発してしまった、私に対する警告だったのかもしれない。
 息苦しさを解決しようと二人であがくことが、かえって墓穴を掘っているような気がした。
 いっそ、終わらせたほうが楽かも──
 治療を続けられたのはふたりの生活を守りたかったから、夫の期待にこたえたかったからだ。夫は環境を変えるために引っ越しを決めてくれたし、いまの医師に出会うまで、根気強くセカンドオピニオンを求めて奔走してくれた。なのに、気持ちは楽になるほうに、落ちていくほうに傾いた。前を向こうと環境を変えて努力しても、過去の自分が足を引っ張っていた。いま夫の手を離せば、すぐにでも引きずり込まれそうな気がする。
 悪い想像がつきまとって離れなくなった。しかたなく担当医に連絡を取ろうと、リビングに戻って携帯電話に手を伸ばした。
 インターフォンが鳴った。
 びくりとして身体がこわばった。来客の心当たりはなかった。夫が何か買ったのかとモニタに近づくと、寒そうにするスーツ姿の年配男性が映っていた。五十ぐらいか表情はにこやかで、カメラに向かって何かを開いて見せていた。
 顔を近づけて、それが警察手帳だとわかった。
 思考が一瞬停止し、不安が襲ってきた。急かすようにインターフォンが鳴った。通話ボタンを押して返事をすると、男が名乗った。
「生活安全課の曽根と言います。突然すいません」
 知らない名前だった。
 家に入れるのは嫌だったが、私とわかってきている以上、断れそうもない。
 玄関で迎えると曽根は敬礼した。小柄な男だった。真琴は会釈して曽根をリビングに通した。着座を促してから部屋に引っ込み、着替えて戻るとキッチンで薬缶を火にかけた。
「どうぞ、お構いなく」
 曽根の声がして、静かになった。
 雨音に混じって、こつこつというお湯の沸く音が室内に満ちた。少し落ち着きを取り戻して、曽根を観察する余裕も出てきた。短髪に茶のスーツでベテランの風格だった。カバンから書類を取り出し、テーブルに広げている。
「この辺は駅が近いですね。便利でしょう?」
 適当に相槌を打った。
「それで、用件はなんですか?」
「言いにくい話なんですが」
 曽根はキッチンを振り向いた。まっすぐに真琴を見つめ、隠すことは何もないという印象だった。
 適当にあしらうのも無理か。
 お湯が沸いた。インスタントコーヒーを淹れると、ふたつのカップをテーブルに置いた。真琴は自分のカップを持って、そのまま落ち着きなくリビングのソファを回り、カーテン越しに外を見た。土砂降りだった。視線をマンションの前に落とすと、雨の中に黒い車体が見えている。
「早く話をしたほうがいいですよ」
「台風がきてますからな」
「駐車禁止なのよ。前の道は」
 曽根は愛想笑いをして「本題に入りましょう」と言った。「捜査に協力してほしいのです」
「悪いけど」と言いかけた真琴を曽根が遮った。
「また、始まりました」
 その一言で十分だろう、そういった表情で、曽根は反応を待っているようだった。言葉の意味がわかってくるに従って、喉がつかえたようになった。
「ニュースを見ましたか?」と曽根が言った。
「多摩川で見つかった遺体のこと?」
 困惑と好奇心が渦巻き、ソファを回り込んで曽根の対面に座った。
 曽根は深刻な表情で続けた。
「遺体は都内のOLでした。マスコミには公表していませんが、両足を切り取られています。乳房も削がれて、性器もひどいもんです」
 粟立つ感情に耐えながら遺体の状況を聞いていると胸が苦しくなった。思わず「なんなのよ」とこぼすと、曽根が話を止めた。自分が話過ぎたことに気づいたようだった。
 真琴は胸の悪さをごまかしながら言った。
「いまさら何を期待してきたんですか? 犯人なら、警察が逮捕したでしょう」
 真琴は『犯人』という言葉を、皮肉を込めて強調した。
 二年前に犯人とされた男は強制性交等致死罪で起訴され、無期の判決を受けた。現在は収監されているはずだ。
 曽根は何も答えず頷いただけで、テーブルの資料をめくり、写真を抜き出した。
「古賀美月さんです」
 夫婦で撮った写真だという。二人とも二十代だろう。古賀美月は短髪にカジュアルなパンツスタイルがよく似合っている。細いが肩幅はあって、背も高そうだ。スポーツをやっているのかもしれない。
「彼女が多摩川の?」
「いえ、いま探している女性です」
 思わず視線を上げると曽根と目が合った。
「わたしがここに来た理由です。失踪直前、白の軽バンのそばにいたところを目撃されています」
 途中から会話は頭に入ってこなかった。自分を落ち着かせて、必死に思考を整理した。
「いまさら復帰しても役には立てません。二年前に参加していたなら、わたしが捜査の素人だってことぐらいわかるでしょう?」
「捜査は素人かもしれませんが、こうした事件については専門家のはずです。二年前もほとんど手がかりもないなか遺体を発見してる」
 それは正確ではないと反論しかけて辞め、自分を守るように腕を組んだ。
「私の事情は?」
「聞いてます」
「症状がぶり返してる」そう言うと、思わず目の前が潤んだ。「また彼女の夢を見るようになったんです」
「富岡萌ですね」
 真琴は頷いた。
 三件の殺人事件はいずれも遺体損壊の程度が激しかった。真琴は最初から関わっていたが、誰一人助けることができずに、初めて遺体と対面した際、その場に頽れた。
 逮捕できなければ次の犠牲者がでる。机上の研究だけでは感じることができない責任の重さと緊張感から追い込まれ、憑かれたように仕事に没頭し、そして潰れた。
 富岡萌。
 当時大学生だった彼女の名前は生涯忘れないだろう。
 分析から犯人の潜伏先について複数の仮説を立て、それを実証しようと現場に出向いた。発見したのは遺体だった。富岡萌は最初に殺され、最後に発見された被害者で、腐敗も進んでいた。遺体の凄惨さには検視官も息をのんだという。
「悪いけど、自分のことで手一杯なの」
 そう言って立ち上がり、玄関につづくドアを開けた。曽根は座ったまま、まっすぐに真琴を見た。
「二年前、あなたは立派に成果を残しましたよ」
「本当に優秀なら、彼女も助けられた」
「富岡萌の遺体を発見できたからこそ、DNAから被疑者を特定できたし、彼女のスマートフォンを辿って自供の裏付けが取れたんです。十分な実績じゃないですか」
「でもあなたの話が本当なら、彼はジャックじゃなかった」
「あの状況でできることはやりました。被害者を出してしまったのは、あなたひとりのせいじゃない」
 曽根は一呼吸おいて言葉を続けた。
「多摩川の事件には捜査本部が設置されましたが、ジャック事件はもちろん、古賀美月の失踪も関連付けて考えていません。彼女の行方を追っているのは私一人です」
「どういうこと?」
「警察や検察にとって、すでに終わった事件です。だれかが確証を掴まない限り、過去の事件を掘り返すことはしないでしょう」
 言葉がつかえて出てこない。
 曽根は資料をまとめて立ち上がった。
「どうしても、ご協力願えませんか? 必要なら優秀な刑事にも声を掛けます」
「だったらなおさら、わたしは必要ないでしょ」
 曽根は名刺を差し出した。
「気が変わったら連絡をください」
 受け取らなかった。
 曽根は差し出した名刺をリビングのテーブルに置いて出て行った。
 玄関の鍵を閉めてリビングに戻り、名刺を手に取った。二枚あるのに気づき裏返すと、一枚は古賀美月の写真だった。幸せそうに笑う彼女と、その腰に手を当てて寄り添っている夫。写真を見つめ、しばらく目を放すことができなかった。

 曽根が帰った後、また気持ちの揺り戻しがあった。
 このまま仕事を辞めて、夫からも実家からも離れれば、背負うものがなくなって楽になれるかもしれない。そう思う反面、夫と離れたくはなかったし、すべて捨てたところで過去から逃れられるはずがないとわかっていた。
 天候が小康状態になるのを待って、財布と鍵をとると買い物に出た。夫が帰るころにはひどい嵐になるだろう。晩御飯は作るからとメッセージを送っておいた。今朝のこともあるし、久しぶりにきちんと話す時間を持ちたかった。
 帰宅してすぐ、出迎えるように電話が鳴った。買い物袋をキッチンに置いて着信表示を見ると胸が騒いだ。川村教授からだ。迷ったが電話に出た。
「もしもし川村です」
 二年前どころか、学生時代に引き戻されるような懐かしい声だった。思わず目頭が熱くなったが、平静を保って挨拶を返した。
「ご無沙汰しています」
「僕のほうこそ。しばらくは連絡をとらないほうがいいとおもってね。いい思い出ばかりじゃないだろうから」
 丸眼鏡で背の高い、老執事といった風情の飄々とした姿が浮かんだ。その佇まいは以前のままだったが、電話の声には力がない。事件の後に勇退して、もう古希も近いはずだ。
「おかげ様で、だいぶよくなりました」
「おかげ様か。皮肉でなきゃいいが」
「本当にそう思ってますよ。籍を残したまま、研究や現場以外の仕事ができるだけでありがたいんですから」
「別な口も探したんだが、力不足でね」
「そのうち大学から正職員としてスカウトされるかもしれませんから、そのときは警察をやめます」
 懐かしい笑い声が聞こえて、真琴も微笑んだ。
「冗談を言えるなら大丈夫。大学を休んでいると聞いたから、ちょっと心配してたんだ」
 川村の声から安堵が伝わってきた。
「僕の方は時々筆を執るぐらいで、もっぱら遊び惚けてるよ」
 川村とのやりとりは学生時代の記憶を呼び起こした。ほとんどが大学、アパート、バイト先の往復で遊んでばかりいた気がするが、それでも教授に認められて科学警察研究所に就いてからは、犯罪プロファイリング導入の講師や捜査協力を担うことができた。
 あの時がひどく明るく、輝いていたように思える。
「それはそうと、今日、刑事が行っただろう」
「断りました」
「知ってるよ。ぼくが説得を頼まれたからね」
「だとおもいましたよ」
「資料は見たのか?」
「誤認逮捕じゃないかと疑ってました」
「だから言ったのにってところかな?」
「昔のことです」
「時間は関係ない」
 川村は強い口調でそう言ってから、取り繕うように声色をやわらげた。
「きみはまだ警察の人間なんだ」
 真琴は話を続けることが苦痛になってきた。スマートフォンをキッチンに置くと、スピーカーに切り替えた。
「悔やんでいるのはわかってるが──」
「救えなかったことを悔やんでます」
「それは誰のためだ?」
 真琴は両手で顔を覆った。
「わかってます。でも、前に進まなくちゃ」
「前に進むというのは、どんな状況を指しているのかな?」
 真琴は言葉に詰まった。川村はうーんと唸って、続けた。
「なるほど。やっぱり難しい状況なんだね。前向きな言葉で自分をごまかしているなんて、きみらしくないな」
「本当は、もう駄目かもしれません」
「それもらしくないな。わかってるだろうが、過去は過去だ。きみが破滅したところで死んだ被害者は救われない」
 答えられずにいると、川村は、ほーっとため息をついた。
「久しぶりに叱ったから、疲れてしまったよ」
 真琴は口元を震わせた。
「いまの生活を壊したくないんです。でも、同じぐらい全部手放してしまいたい。もう、どうするべきかもわからないんです」
「現場から退いたのはいい。辞めるというならそれもきみのケジメだ。でも自分が不幸になるべきだなんて思っているなら、黙って見過ごすわけにはいかない」
 鼻をすすり黙り込んでいると、川村が言った。
「一応、捜査資料はメールで送ろうと思うが、いいかい? アドレスは変わってないかな?」
 断ろうと思ったが、それでは川村の立場がない。仕方なく変更していたアドレスを伝えた。
「電話しておいてなんだが」と前置きして、生徒に諭すような調子で言った。「願わくば、君には辛い思いをしてほしくない。でもね、このまま自分を責め続けるのもよくない。どうすべきか、考えてみてくれ」
「正直に言って、迷っているんです」
 電話口から笑い声が聞こえた。
「覚えてるかな。私が君を研究所に誘った時もそう言った」
 真琴は涙を流しながら微笑んだ。
「教授のようになるのが夢でした。でも、向いてなかったんだと思います」
「いまでも君を誘ったことを後悔してない」
 礼を言うと、川村は「それじゃあ」といって電話を切った。
 答えは出せそうもないのに、事件のことばかりが頭を占めた。
 帰宅した夫がすさまじい風雨に晒されて興奮しているのがわかった。着替えを済ませて夕食についたところで刑事が来たことを伝えると、神妙な顔つきになった。
「でも協力は断った」
「そっか。正直に言うと、被害者は可哀そうだけど何の接点もない他人だし、マコが行くことないと思う」
 言葉とは裏腹に、夫はこのままでいいとは思っていない。どこか含みのある言い方で感情が伝わってきた。真琴も同じで、ただ息をひそめて生活していくつもりはなかった。だが捜査に参加することが解決とも思えない。
 ふたりで食事をし、夫が食器を洗い終えてソファに戻ると、真琴は食後のコーヒーを用意してから隣に座った。夫はしばらく黙っていたが「迷ってる?」と言った。
 真琴は頷いた。
「気持ちはわかるよ。環境が変わるのは怖いからね」そう言ってコーヒーを飲んで続けた。「でも俺みたいに四十ぐらいになるとそういうこともなくなってきて、この先、できそうなことと、そうじゃないことがわかってきちゃうんだよね。それも嫌なもんだよ」
 真琴はソファに横になって、夫の腕に寄り掛かった。
 被害者は見ず知らずの人間だと事実をはっきりいえる夫の印象を「ちょっと怖い」という友人もいた。気持ちはわかるが、真琴にはむしろ心地よかった。彼は正直なだけだ。責任がとれないのに同情や印象だけで知った風なことをいい、いい加減な関わりを持つことを避けている。彼がはっきり物をいえる数少ない相手のなかに自分も入っていることが幸せだった。
 ずっとこんな時間を持ちたいと願っていて、それがやっと叶ったような気がした。泡立っていた感情の波が凪いでいくのがわかった。
 何の抵抗もなく、素直な気持ちが口をついた。
「確かに、やり直すチャンスではあるとおもう。でも、やっぱり怖い」
 夫が髪をなでた。
「どうなろうと付き合うよ。マコだって、この先一度も振り返らずに、前に進めると思ってたわけじゃないだろ?」
 妙な空気が流れて、真琴は我慢できずに噴き出した。
「急になに?」
「ばれたか」と、夫は笑った。
「マーロウのつもり?」
「まあまあ、ずっと過去を拒んでいてもしょうがないっていう意味だよ」
 その夜、自分の叫び声で目が覚めた。気が付くと夫が肩を揺さぶっていた。起こしてしまったことを謝ってベッドを出ると、洗面所で顔を洗い、鏡を見た。
 青白くこわばった表情はくたびれて、しわが深くなったようだ。鏡の中に様子を見に廊下に出てきた夫の姿が見えた。鏡越しに向かい合ったが、夫は何も言わずに寝室に引っ込んだ。
 キッチンに入るとグラスに水を入れて一気に飲んだ。もう一度水を入れ直してリビングのソファに座った。暗闇の中で背もたれに深く身を沈めると、また水を飲み、気持ちが落ち着いた。
 こんなことをいつまでも続けられない。そう思ったとき、テーブルの上でスマートフォンが明滅しているのに気づいた。
 川村の電話を思い出した。
 ラップトップの電源を入れるとメールが来ていた。古賀美月の情報とジャック事件についても資料が添付されている。
 目を通し始めると、視界が涙で滲んだ。
 過去の記録の中から被害者の写真を開く。皆若く、快活で、未来があった。富岡萌も夢の中で見る姿とは違った。大学のキャンパスを背景に友人と映っていて、暖かそうなマフラーに首を埋めている。
 彼女はもう、この世に存在しない。胸をつく感情を押さえられず、声を殺して嗚咽した。涙は後から後から溢れ、口元を押さえた手の上にふりかかった。
 彼女の眼は、まだ助けを求めていた。

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