【ミステリ】切り裂きジャックの帰還 5 / 全8話

 7

 曽根は車で署に向かっていた。
 レンタカーや廃墟に踏み込んだことをどう説明すればいいだろう。黒伏が何を知っていて、どう出てくるのかもわからない。
 ひとつ確かなのは、廃墟の一件が公になった今、捜査本部は多摩川の遺体と古賀美月失踪事件を繋げざるを得ないということだった。
 答えがでないまま個室に入ると、黒伏は紙コップのコーヒーで暖を取りながら、向かいに座るよう促した。黒伏の背後に立つ蟹江は、それ見たことかという表情で腕を組んでいる。
「さて、なんで呼び出されたかはわかってますね?」
「単独行動の件です」
 黒伏からは獲物を追い詰めようという意思が見えた。
「捜査本部の仕事を放っておいて、なんの事件を追っているんですか? あれだけの騒ぎを起こしておいて、違うとは言わせませんよ」
「把握されていると思ってましたが」
「勝手に暴走して、怪我人まで出したんですよ」
「それは──私の判断ミスでした」
 真琴の動きは確かに予想外で、思い返してもひやりとした。まさかなりふり構わず踏み込むとは思わなかった。おかげで被害者は救助できたが、曽根の計画には危険信号が灯った。
 あの一瞬、すべてばれてしまうのではないかという焦りが先に立って声を荒げたが、後になって恥じた。
 被害者の救出とジャック事件の調査を天秤にかけたのだ。
 これじゃ事件を隠蔽した側と大差がない。皮肉にも計画が破綻しそうになったことで、それを思い知らされた。
 つまるところ、神代真琴を読みそこなったのだ。たったひとつの判断ミスで、自分に協力した関係者にもとばっちりがいく恐れがある。
 蟹江をちらりと見た。
 特にあいつは気が気でないはずだ。
 黒伏は部屋を見回した。
「早く済ませましょうよ。ここは冷えますから」
 そう言って背を丸め、下から覗き込むように、じっと曽根を見た。
 証拠資料はすべて捜査本部が押さえている。捜査の主導権だけでなく、精神的にも後手に回っていた。これ以上、弱みを握られるのは避けたい。焦りが顔に出ないよう気を張った。どう出るべきか。黒伏が準備をせずに来たとも思えない。
 意を決し、白を切るつもりで口を開いた。
「生安課で失踪した女性を追っていました。白の軽バンを運転していた犯人に拉致された可能性がありましたので、車の行方を追って、あの廃墟にたどり着いたんです」
「半分本当で、半分嘘ですね」
 曽根が無言でいると、黒伏が鼻で笑った。
「ジャック事件を掘り返しているんでしょう。あなたも多摩川の遺体を確認したときに気づいていましたよね? たしか手口が特徴的だとか言って濁してましたが」
 もう、仕方ない。
 曽根は覚悟を決めた。
「多摩川の遺体はジャックの手口そのものです。助け出された古賀美月も、目撃証言によれば白の軽バンで拉致されています。同じ車種はジャック事件でも目撃されたもので、一連の事件のすべての痕跡がジャックに繋がっています」
「ジャックは逮捕されていますよ」
「多摩川の遺体を見たはずです。当時の詳しい手口は公表されていません。模倣犯ではないと思います」
「誤認逮捕だと、そういうことですか?」
 余計なことまで言わないよう慎重に言葉を選んでいると、黒伏は続けた。
「分析官の入れ知恵ですかね?」
「違います。神代さんは私が頼んだんです」
「なるほど、じゃああなたが主犯というわけですか」
「被害者を助けられたのは、わたしたちが捜査した結果です」
「助かるかどうかはまだわかりませんよ」
 一瞬、場が凍った。事実だが誰も口にしなかったことだ。
 黒伏は表情を変えずに続けた。
「結果はどうあれ、職務を放棄した上、勝手にジャック事件の捜査を掘り返した。組織の人間として褒められるものじゃありませんよ」
「申し訳ありません」
 黒伏は紙コップの中身を飲み干して、曽根に目を据えた。
「やけに素直ですね?」
 どきりとした。表情を取り繕うのがやっとだった。
「ひとつ意見を聞いてもいいですか?」黒伏は座り疲れた様子で椅子から立ち上がり、肩をまわして、身体を伸ばしながら続けた。
「あなたの妄想が現実だとしましょう。これがジャックの犯行だとして、これからどうやって捜査を進めるつもりですか?」
「わかりません」
「ジャック事件は過去の事件です。事件資料もすべて返却されて、捜査は完全に終了しています。蟹江くん、ジャックはどうやって被害者を選んでいたんでしたっけ?」
 急に矛先を向けられた蟹江は困惑した表情を見せたが、マッチングアプリだと答えた。
「なるほど。じゃあ被害者と思われる人物のスマートフォンを調べればジャックに近づくことができますね。どうですか? 曽根さん、このプランは?」
「あり得ると思います」
「大方そういう考えだったんじゃないですか、あなたも?」
「考えたことはあります」
 黒伏はしばらく探るように曽根を見ていたが、反応がないとわかると溜息を吐いて部屋の中を歩き出した。
「残念ですけどね。古賀美月はマッチングアプリを使っていません」
 思わず眉間に皺を寄せると、黒伏は目を細めて微笑んだ。
「スマートフォンはもちろん、彼女の私物は現場から見つかっていませんが、犯人とはSNSやネットの掲示板でやりとりしたと話してるそうですよ。まだ医師の許可なしでまともに聞き取りできてませんが、結婚してますからね。アプリを利用する理由もない」
「河岸を変えただけでは?」
「想像力が豊かなのはいいことですが、そういうのは捜査ではなくて小説にでも活かしたらいい。幸いこれから時間もできるでしょうし」
 黒伏は手を温めるように擦り合わせてゆっくりとドアに向かい、ノブに手をかけてから振り返った。
「曽根くんの処遇は後で伝えます」
 そう言って蟹江に視線を送った。
「旧友同士で、別れの挨拶でもしておいたらどうですか?」
 黒伏は部屋を出ていった。空の紙コップが楔のようにぽつんと、デスクに残された。
 足跡が遠ざかっていくのを聞いて、蟹江を見た。
「だから言ったのに、か?」
 曽根は苦笑した。
 蟹江は笑わなかった。
「お前を見張れとさ」
「今度は俺が監視される番か」
「懲戒だと言っても表情も変わらないような奴は要注意だと」
「まだ例の監視は続けてるか?」
 蟹江は妙な顔をした。
「黒伏のか? もう不要だろう?」
「続けてくれ」
「何を企んでるんだ?」
「頼む。逐一、動きを教えてほしい」
 蟹江はため息をついて向かいに座った。
「黒伏に着く相手を間違えるなと言われたよ。レンタカーの件だって、勘づいているかもな」
「俺と神代さんしか知らないんだ。口裏を合わせて迷惑はかからないようにするさ──そういや、えりちゃんは? いくつになった?」
 蟹江は表情を変えずに答えた。
「十六だ」
「じゃあ、あと四年は面倒見ないとな」
 曽根がまた笑うと、蟹江は怒ったように鼻息を荒くした。
「何度も警告しただろう。俺の話を聞いてなかったのか?」
「お前こそ聞いてなかったのか? 覚悟の上だよ」
「本部は連続殺人として追ってるが、ジャックとの繋がりは認めていない」
 曽根が椅子に座り直し、腕を組んだ。
「警察は何を守ってる? 知ってるんだろう?」
「俺が知るわけない。知りたきゃ黒伏にでも直接聞いてみたらどうだ?」
 曽根は無言だった。蟹江が続ける。
「ただ爆弾だってことはわかる。全部ぶちまけたら、俺たちだけじゃない。上のクビも飛ぐらいのな」
「多摩川の遺体の検死報告は差し替えられてたよ」
 蟹江は苦い表情を作った。
「俺たちの仕事は逮捕して起訴してこそだろう。方針に沿わないことをしても何にもならない」
「それなんだが、ジャック事件を葬りたい理由は、本当に誤認逮捕だけか?」
「どういう意味だ? 他に何がある?」
「本来なら多摩川の事件は管理官あたりが箔をつけるために来そうなものだろう。ところが最初から黒伏と見慣れない男たちが出張ってきてる。まるで事故処理だ」
 蟹江がなにかを振り切るように腕を振って、椅子から立ち上がった。
「そこまでにしてくれ。この話は終わりだ」
 曽根が口を閉じると、蟹江は鼻息を荒くして続けた。
「俺や部下がとばっちりを食うのはごめんだ。それに組織を守るのが最優先だろう。信用があってこそ警官でいられる。警察手帳を見せて聞き取りできるのは警官だからだ」
「それは欺瞞ってもんだ。だからといって警察の信用を守るために隠蔽が許されるのか?」
「お前は辞めるつもりだからそんなことがいえるんだ。警察が信用されなくなったら、どうなるとおもう?」
「俺は後ろめたいまま生きるのはごめんだ」
「それだ。お前の自己満足だろう」
「そうだが、こうすることが正しいと信じてる」
「正しかろうが、俺とは守るべき優先順位が違うんだよ」
 どんな人間でも自分の組織を、ひいては自分の家族を守るために動いている。事を荒立てたくない。平穏に人生を送りたい。その気持ちはわかる。だがそれで崩れるぐらいの組織なら、いっそ壊せばいいと思う。間違っていることを間違っていると正すことができる組織を再構築すればいい。
 国だって壊れる。組織が何だというのだろう。
 束の間の沈黙を破って、曽根は口を開いた。
「もう行けよ。お前は警察に残る選択をしたんだ。それが間違ってるわけじゃない。監視の件は頼んだぞ」
「どうかな」
 蟹江は黒伏が残した紙カップを取ってドアを開けた。背中に向かって曽根が続けた。
「何か聞かれたら、俺たちとは関係ないって言えよ」
 蟹江は紙コップを握りつぶし、振り向かずに言った。
「救いがたい馬鹿だな、お前は」

 8

 西日がソファを温めているだけで、病院の三階にある小さな談話スペースは静まりかえっていた。
 真琴が嵌め殺しの窓から沿道を見下ろすと、騒ぎから数日、病院の周囲で鈴なりになっていたマスコミは姿を消していた。
 ほっとしてソファに座った。あれから宿泊していたホテルと病院の往復で一度も家に帰っていない。どうしても夫の声が聴きたくなって電話をかけると、彼もそれを予期していたようだった。
「怪我がなくてよかった」
「うん、大丈夫」
 自分の手にまかれた包帯を見て答えた。無我夢中で、どこで痛めたのかすら覚えていない。
「それで?」
「ニュースの通り」
 廃墟での騒ぎがマスコミに漏れたことにより、警察は事態を公表せざるを得なくなった。もちろんジャック事件には言及していない。捜査本部は最後の砦だけは守ったが、多摩川の遺体と古賀美月の失踪事件は繋がった。
 記者発表では氏名はもちろん被害者には一切触れず、慎重な捜査を要したため結果的に救出が遅れたこと、犯人逮捕に至っていないことを謝罪した。
「なんにせよ、よかった」
「でも捜査からは外された」
 次に首を突っ込んだら逮捕だ。
 見舞いだと言って病室に来た黒伏に、そう脅されたことは伏せた。夫はしばらく黙っていたが、意を決したように話し出した。
「助けられたの? 本当はそれで電話してきたんでしょ?」
「ひとりはまだ意識が戻らないの」
「そうか」と夫がいった。声は身体に染み入るように響いて、ぴんと張っていたものがたわみ始め、気が付けば視界が滲んでいた。
「どうしよう、ダメだったら──」
 鼻をすすり流れ落ちる涙を拭った。無力だった。恥や罪の意識が渦巻いて、夫であってもすべての感情をさらけ出せなかった。
 救うための捜査だった。助けるためだったのに。そう思うたび、後悔は身体のどこか奥のほうに、深くしずかに沈殿していった。
 もっと早く場所を特定できていたら。
 あと一日早く踏み込んでいたら。
 深呼吸をして気持ちを落ち着けようとした。おもえば、二人とも自分が助けたわけじゃない。犯人が解放したようなものだ。
 十分に痛めつけてから。
 富岡萌が殺されたときも同じだった。犯人の後をついて回るばかりで自分は何をした。何ができたというのだ。
「まだ亡くなったわけじゃない」
 夫がためらいがちに、帰ってきてはどうかと言った。
 まだ帰れない。そう言おうと顔を上げると、廊下を曽根が近づいてくるのが見えた。
「刑事が来たから、またかけ直す。ありがとう」
 電話を切って、慌てて頬を拭った。
 曽根は少し息が上がっていた。
「怪我はどうですか?」
 無言で手にまかれた包帯を示した。
「無茶するからですよ」
 そう言って隣に座った。
「遅れてすいません。被害者が中野に転院したのを後から知らされたもので」
「強引に進めたみたいです。ここの看護師に聞きました」
「参考人として保護するそうです」
 曽根は神妙な顔つきになってファイルを取り出した。
「彼女たちの資料をもってきました。話を進めたいんですが、気分はもう大丈夫ですか?」
「お願いします」
 曽根は真琴の表情を伺いながらファイルを開いた。
「二人とも命に別状はないそうです。重症だった被害者も意識を取り戻しました。もう数時間遅ければ危なかったそうです」
 真琴は両手で顔を覆った。「よかった」と言おうとしたが、口元が震えて声にならなかった。表情を整えてハンカチで目元を拭った。
「すいません。続けてください」
 被害者のひとりは古賀美月。衰弱は見られず、かすり傷程度の外傷だったが、ショック状態で当初は面会が難しかった。現在は捜査に協力できるまでに回復したという。
 もうひとりは木崎佳乃。派遣社員として証券会社に勤める二十六歳の女性で、一週間前に出社してこないと連絡を受けた家族が捜索願を出していた。
 曽根が写真を指さして言った。
「木崎佳乃はベッドに縛り付けられていて、右足の太腿やふくらはぎの肉を削がれ、頭を焼かれてました。頭皮の火傷は真皮までは達しておらず、時間はかかるが回復できるということでした。足のほうは深刻で、筋肉がかなり損傷しているそうです」
「歩けるんですか?」
「元のように動けるかはリハビリ次第ということでしたが、見立てでは日常生活で不自由しないぐらいには回復できるそうです。ただし長期の治療が必要と聞いてます。あと数日で一般病棟に移る予定です」
「犯人の顔を見ているかもしれませんね」
「かもしれませんが、証言を取るのは難しいでしょうね」
 資料写真の木崎佳乃は美しい黒髪が印象的だった。カメラに向かって微笑んでいて、綺麗なだけに痛ましかった。肉体的にも精神的にも治療には長い時間がかかるだろう。
「とにかく二人は助かった。それが救いですよ」
「ジャックを捕まえないと。彼女たちは安心できませんから」
「当初の目的は果たせたじゃないですか。捜査も公になったし、一歩前進ってところです」
 曽根は腕組みして続けた。
「本部が言うように、わたしたちは犯人に見られたのかもしれませんね」
「手がかりは出たんですか?」
 曽根が首を振った。
「広域捜査になってますが、まだ何も。ただ車両を抑えてます。本部が照会書を出せばレンタカー会社経由の個人特定はスムーズにいくはずです」
 あの時、恐怖から自分の身体が思うように動かなかった。もっと早く踏み込んでいたら、状況は違っていたかもしれない。
「今度は助けられたじゃないですか」
 その声で我に返った。曽根が横から顔を覗き込んでいた。
「彼女たちは助かったんです。医者も言ってましたよ、わたしたちがいなかったら手遅れになっていたって」
「あの場で冷静だったのは曽根さんだけです」
「なんであんな無茶をしたんですか?」
 過去の自分が許さなかった。格好よく言えばそうなのだろうが、言い訳のようにも思えた。曽根のいう通り、冷静に考えればもっと酷い結果を招いていたっておかしくなかった。例えば自分が被害者の名前に連なるような──
 曽根は安堵するようにため息をついた。
「これっきりにしてくださいね」
「曽根さんの立場を悪くしたんじゃないですか?」
 曽根は言葉に詰まった。
「やっぱり。本当に、すいません」
「例の、黒伏に目をつけられていますが、まあ思惑が外れただけですから」
「すいません。二人とも懲戒かもしれませんね」
 曽根はなぜか微笑んで、ふざけた調子で言った。
「わたしはあなたの独断だっていいますよ」
 真琴も笑った。
「いざってときは本当に、身代わりにしてくれて大丈夫です」
 曽根が資料を閉じようとした途端、木崎佳乃の写真が目に入って思わずその腕を引いた。
 曽根は驚いて身構えた。
「どうしました?」
 髪、唇、太もも、胸、性器、そして足。これまでの被害者が傷つけられた部位は、すべてフェティッシュな女性性の象徴だ。
 犯人が重要視するものは本当に苦痛を与えることなのだろうか? 実は切り取った部位にこそ意味があるのだとしたら?
「ジャック事件で犯歴を照会した時、性犯罪者以外を確認しましたか?」
「いや、あの時は性犯罪に絞ったはずです」
「窃盗や暴行で探せませんか?」
「それじゃ数が多すぎますよ」
「まず富岡萌の関係者からでいいんです。暴行罪は女性の髪を切ったり、噛みついたりした事件を探してください。窃盗の方は下着や女性の靴、口紅なんか、今回の事件で傷つけられている部位を中心に調べてほしいんです」
 曽根は慌てて手帳を開いた。
「殺人まで発展する前に幾つも前触れがあったはずですから、関係者でダメなら関係者の関係者を、必ず繋がりがあるはずです」
「わかりました。やってみます」
 曽根は難しい顔で立ち上がった。おや、と思って、真琴は声をかけた。
「あの、古賀美月に面会しないんですか?」
「男は会えないそうです」
 その言葉ですべてを察した。
「本部の人間が先に聞き取りをしてますよ。ただ、肝心のスマートフォンは見つかっていないそうです」
「木崎佳乃もですか?」
「ええ。富岡萌のスマートフォンは偶然残されたわけですし。ジャックが持ってるか、捨てていると見て良いでしょうね」
 曽根が立ち去ると、入れ替わりに看護師がやってきて医師の面会許可が下りたと告げた。

 教えられた部屋番号を探しながら角を曲がると、椅子に座る見張りの警官が見えて、ドアの前にも男が立っていた。すぐに古賀美月の父親だとわかった。中腰になって個室のドア窓から不安そうに中を覗いている。初対面のふてぶてしさはまるでなく、まだ着るには早そうな厚手のダウンが妻に先立たれたことを物語っていた。声をかけるべきかとも思ったが、慰めの言葉は浮かばなかった。
 父親だとしても男性が会うことは叶わないだろう。しばらくして気が済んだのか、とぼとぼとエレベータホールに歩き去った。
 個室のドアには古賀とだけ書かれたネームプレートが貼ってあった。見張りの警官に挨拶すると、真琴と認めた瞬間に表情が曇った。敬礼こそしたもののすぐに目を伏せてしまった。
「いまのは古賀美月の父親よね?」
「はい。よく来てます」
 警官の顔を見て、廃墟で曽根を手伝った警官だとわかった。
「ああ、あの時はありがとうございます。おかげで助かりました」
「いえ、仕事ですから」
 今回の経緯を聞かされているのか口が重い。関わりたくないのだろう。
 気持ちを落ち着かせて病室のドアをノックした。
 返事はないが、そっとドアを開けて中に入ると、古賀美月はベッドの上で見ていた雑誌を抱えるように胸に押し付け、ぴたりと動きを止めた。入ってきた真琴と目が合うと、ほっとして空気の緩むのがわかった。
「神代といいます。警察関係者です」
「知っています。助けてくれた人ですよね」
 病室はすっきりしていて、仰々しく取り巻いていた医療機器は取り払われており、経過が良いことがわかった。その回復ぶりに思わず微笑んで、ベッドに近づいた。顔色もよい。パジャマ代わりのワンピースに着替え、ざんばらに切られていた髪をベリーショートに切りそろえていて、同世代のはずが驚くほど幼く見えた。
「体調はどうですか?」
「いいです。それより、あまり覚えてなくてすいません」
「当然です。つらい思いをしたんですから」
「あの、私と一緒に助かった人は、どうしてますか?」
「数日で一般病棟に移れるそうですよ」
「よかった。ずっと気になってたんです」
 安堵する古賀美月の表情から陰りが消えていった。
 伏せておかれた雑誌に目を移すと、古賀美月が反応した。
「いま夫と行くお店を探していたんです。退院したら何か美味しいものでも食べに行こうって」
 そう言って紙面を開いて見せた。
「ここがおすすめらしいんです」
 高級そうな料亭の写真がずらりと並んでいた。
「素敵な店ですね」
「彼はいまご当地鍋にはまってるんです。出張のたびに全国の美味しい店に行ってるんですけど、そこで何かにハマると東京で店を探して連れて行ってくれるんです」
「おいしそう。楽しみですね」
 これからの生活について語る彼女を心から祝福したかったが、心配が先に立った。あれだけの事件だ。フラッシュバックの経験は真琴にもある。ほんの数日の出来事が彼女の記憶に深く刻まれ、簡単には消えない。
 好きな食べ物や夫との約束について話す彼女を見るのは、真琴にとっても救いだった。それだけに、犯人が捕まらなかったとき、彼女の日常がどうなるのか想像したくもなかった。
 気持ちが伝わったかのように、古賀美月が口を閉ざした。思わず「ごめんなさい」という謝罪の言葉が口をついた。
「お父さん、来てましたか?」
 意外な答えだった。さっき見たことを伝えると、古賀美月の口元は歪み、目が潤んだ。
「本当は会って大丈夫だって言いたいんですけど。身体が言うことを聞かないんです」
「わかってくれてますよ」
「夫にも、お父さんにも申し訳なくて、わたしがこんなことになったから」
 古賀美月が顔を上げて涙をこぼした。そして何かを諦めたように、あっけらかんとした口調で言った。
「あーもう。ちょっと趣味の友達を作ろうと思っただけなのに。出歩いたりしなければよかった」
「あなたは悪くないですよ。行動を制限する権利なんて誰にもないんですから」
「言うのは簡単ですよ」
 古賀美月が突き放すように言った。
「何もされなかったって伝えたんですけど、夫や父の意向で調べますって──平気なはずなのに、身体をいくら洗っても、不潔な感じが取れないんです」
 古賀美月はしばらく肩を震わせていたが、そのうち泣きはらした顔に悔しさが滲んだ。厳しい目つきで、鼻をすすりながら、絞り出すような声で話し出した。
「あの男、まだ捕まってないんですよね?」
 何も言えなかった。頷いてベッドに座り、ただ黙って待った。
「覚えていないんです。記憶の中で、顔だけがぼんやりモザイクがかかったみたいで」
「相貌失認と言って、心理的ショックを受けるとなる方がいます」
「警察の方にもそう言われました」
「どうやって出会ったの?」
「アニメの、趣味の話をする掲示板です」
「マッチングアプリじゃなくて?」
 古賀美月は頷いた。
「オフの同人サークルがあるからって言われて会う約束をしたんですけど、来たのが男性ひとりで──昼間だし、断りづらくて車に乗ったんです。でも途中でやっぱりやめるっていったら、急に無言になって、そのあとはあまり覚えてません。気が付いたら部屋に閉じ込められていて──」
 そこまで話して、古賀美月は言葉を切った。また顔を伏せ、鼻をすすり、話を続けた。
「あの女性が酷いことをされて、それをずっと見せられたんです。次は私の番だってわかりました。毎晩、夢に見るんです。忘れたいのに──」
 古賀美月は真琴にもたれるようにして肩を震わせ、その先の言葉は押し殺した泣き声でかき消された。
 自分が痛いほど拳を握りしめているのに気づいた。そして泣き伏している背中に手を添えて、抱きしめた。いまの真琴にはそれが精いっぱいだった。

 9

 曽根は生活安全課のデスクに戻ると、真琴の指示通り窃盗や暴行事件の前歴照会を願い出た。係長はデスクに座ったままひと通り話を聞くと、老眼鏡越しに一瞥をくれただけだった。
「失踪事件に関係があるんです」
 係長は書類に視線を落としたままだった。
「眼をつけられているんだからおとなしくしていろ」
「こっちの捜査はやらせてください」
「気の毒だが止められているんでな」
 癇にさわったが、おとなしくデスクに戻った。黒伏が手を回したのだろう。
 正直なところ、いまから窃盗や暴行事件の犯歴を探っても収穫らしきものを得るころには次の被害者が出ているんじゃないかと思えた。それでも手がかりにつながる可能性はある。
 足掻くことすら許されないのか。
 ほかに手はないかと考えているとスマートフォンに通知があった。蟹江からだ。
 個室に入って掛け直した。
「お前はたぶん懲戒だろうが、餞別がある。いまな、古賀亮太を容疑者として探ってるところだ」
 唐突過ぎて頭が回らなかった。
「なんでそうなる? 古賀亮太が犯人かどうか、奴のスマートフォンを調べれば──」
「もうやってるだろうよ」
「どうだか」
「いいから黙って聞け。犯歴があるのは知ってるな? 暴行事件の詳細を調べると、一緒にいた仲間が女性の髪を切ったことで通報されてる。古賀亮太は暴行に直接関わってないという判断で不起訴だ。当時に遡って友人を洗うと、ほかにも起訴には至ってないが、女性関係で怪しい噂がゴロゴロ出てきた。どうやら二十歳ごろから数年間は半グレとつるんで売春斡旋の真似事をしてたらしい」
「今も繋がってるのか?」
「いや、それはないな。自然消滅したようだ。一応調べてはいるが、いまはどこで何をしているのか、連絡が取れん」
「レンタカーはどうなってる?」
「あれは古賀亮太が勤める会社の法人契約だとわかった」
 犯歴もあり犯行に使われたレンタカーにも関連している。
 なるほど、重要参考人になるわけだ。
「福利厚生の一環らしい。家族旅行に利用する社員もいるそうだが、本来は各地にある営業所で利用できるようにリース契約してる」
「女の髪を切ったことについては調べがついてるのか?」
「十年前の話で本人もうろ覚えだが、囲っていた女に対する罰だったそうだ」
 疑わしい過去があるのはわかったが、腑に落ちないことが多すぎる。
「被害者のひとりが彼の妻だってことはどう説明する?」
「本人は何も話さない。これは捜査本部の見解だが、古賀亮太はかなり女遊びが激しかったようだ」
「邪魔になったか?」
「あるいは殺しがばれたか」
「夫の顔を忘れるか? 古賀美月は犯人の顔を覚えてないんだろ?」
「庇ってるか、あるいは妻も共犯か」
「なんのために?」
「可能性の話だ」
「実際、本部はどう見てる?」
「わからん」
「古賀亮太にはアリバイがあるだろう。出張してたはずだ」
「わかってる。だから別な共犯者の線も調べてる」
 確かに半グレ集団とまだ繋がっていて共犯者がいるとすれば、ジャック事件が複数犯による犯行という仮説も成り立つ。
 そう考えていると、蟹江が話を続けた。
「それと、もうひとつ話しておきたいことがある。部下が聞いたことで確証はないが、本部がジャック事件に触れないのは、DNAが関係しているらしい」
「DNA? 前の事件の物証のか?」
「どうやら違うらしい」
「じゃあなんだ」
「役人に関係ありそうなことと言ったら、データベースの方だろう。それなら黒伏はじめ役人が出張ってきている理由も説明がつく」
 真琴が富岡萌の遺体を発見し、そこから犯人のDNAが採取できたことでジャック事件は終結した。DNA型データベースが決定的な役目を果たしたことは周知のことだ。
「話が見えん。聞き間違いじゃないのか? 採取したものが違ってたってことなら、誤認逮捕の話だろう」
「そこまではわからん。そういう話をしていると聞いただけだからな。だが関係はある」
 曽根は警察政治がらみの適任を思い出した。彼のパイプを利用して確認すれば、詳細が分かるかもしれない。
「この手の適任がいる。どういうことか調べてみる」
「まだ誰か巻き込むつもりなのか?」
「川村教授だ。知っているだろう? 俺の協力者のひとりだよ」
「お前、どこまで手を回してるんだ?」
「信用のおける人間を選んでる。誤認逮捕なんて簡単に話せる内容じゃないからな」
 蟹江は露骨にため息をついた。
「まあ収穫があったならいいが、監視はもう止めるぞ。レンタカーの件もあって、部下も俺も疑われ始めてる」
「ばれたのか?」
「いや、だが雲行きが怪しい」
「黒伏か?」
「誰でも関係ない。予想通りの爆弾だ」
「ここまでやったんだ。引き返す気はない」
 蟹江が息をつき、口調を和らげた。
「もう十分じゃないか?」
「何度も言ったはずだ」
「お前の家族はどうなる」
 曽根は椅子を引き、くたびれた表情で背もたれに身体を預けた。
「警察を辞める許可を取ったよ」
「そろそろ就職だろ」
「ああ、肩の荷が下りるよ」
「なんて言ってた?」
「辞めることか? 母さんが喜ぶだろうって話したよ」
 蟹江が笑った。
「確かにな。彼女ならそういうだろう」
「お前に迷惑はかけんよ」
「そうあって欲しいが、もう遅いかもしれん」
 そこでひとつの考えが浮かんだ。どうせ懲戒は免れない。神代さんには悪いが蟹江を救うために協力してもらおう。彼女なら多少危ない橋を渡っても、ジャック事件の捜査継続を望むだろう。やってみる価値はある。
「もう少し監視を続けてくれないか? ひと芝居打ってみる」
 訝しげに返答した蟹江に、曽根はこれからの計画を打ち明けた。

1:https://note.com/zamza994/n/nef2c2bd0746b
2:https://note.com/zamza994/n/n46a4a426f5cd
3:https://note.com/zamza994/n/n629a9ba47e0c
4:https://note.com/zamza994/n/n6c8b9fdb17a0
5:この記事
6:https://note.com/zamza994/n/n7442a1ba8d6b
7:https://note.com/zamza994/n/n2bacc53787bd
8:https://note.com/zamza994/n/n826a7100c002

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