【ミステリ】切り裂きジャックの帰還 3 / 全8話

 通勤客に紛れて駅を出ると、コートのポケットに手を突っ込んだままロータリーの端で車を待った。
 台風一過で早朝から抜けるような青空だった。風が肌寒く、いよいよ秋めいてきたと思っていると、足元の木の葉を吹き散らして黒い車が目の前に滑り込み、運転席の窓から曽根が顔を出した。
 真琴は近づいて、無人の後部座席を一瞥した。
「優秀な刑事をつけるって言ってませんでしたっけ?」
「わたしのことですよ」曽根は笑って助手席に促した。
 真琴が乗り込むと、打ち合わせ通り警察署に向けて発車した。
「ご協力感謝します神代警部補。先日は無礼な態度をとって申し訳ありませんでした」
「階級は忘れてください。慣れてないんです」
「いや、崩すと戻れない性格ですから」
「捜査も素人ですし。曽根さんとは年齢が離れすぎてやりづらいです」
「今年で五十五ですが、気にせず部下と思ってください」
「じゃあ、せめて警部補はやめてください」
「神代さんと呼びますよ」
「階級に細かいというわりに、思い切ったことしますよね。川村教授に連絡するとは思いませんでした」
 信号で止まった拍子に、曽根は申し訳なさそうに笑いかけた。
「でも我ながら名案だったでしょう?」
「教授はこないんですか?」
「神代さんだけです。声はかけましたが、引退したからと断られました。それに今は足を悪くして、車椅子だそうです」
 そんな話は初めて聞いた。電話では何も言っていなかったが、それも川村の性格からすると頷けた。これ見よがしに免罪符を振りかざさないあたり、馬が合うところだ。
 子供の悪戯に気づきながら黙っているような気持ちでいると、顔に出ていたのか曽根が口を開いた。
「川村さんとは長いんですか?」
「大学の恩師で、わたしを犯罪予防研究室にひっぱったのも教授です。現場を離れる時も上と話して、大学で教鞭をとる道を用意してくれた。科警研へのリクルートも兼ねてますが」
「確かに恩人ですね。川村さんなら顔も聞くだろうし」
「本当は辞めてもいいと思ってたから」
 曽根は気まずそうに相槌を打った。
「事件に引っ張り出して、旦那さんには恨まれそうですね」
「そうでもないです。一度も振り返らずに生きていけるわけないって言われましたよ」
 冗談のつもりだったが、曽根がどきりとしたように表情を強張らせた。
「確かに」
「心当たりがあるんですか?」
「三十年以上も勤めていれば、ひとつやふたつはありますよ」
「わたしが参加した理由を忘れないでくださいね。優先順位は犯人逮捕じゃない」
「わかってますが、どのみち逮捕できなきゃ彼女は救えません」
「でも、資料じゃ白い軽バンが目撃されているだけで、古賀美月がジャックの被害者だと断定はされていませんよね?」
「そうだといいんですが」
 曽根は前方を見据えていたが、横顔には静かな覚悟が感じられた。

 警察署は年季の入ったビルで、昼間でも薄暗く閑散としていた。曽根から多摩川の事件で報道協定が結ばれていることを聞いていたせいか、通り過ぎた記者室はしんとして、緊迫した空気が漏れてい流ように思えた。
 遺体を発見した事実以外は公表されていない。公開捜査にすれば犯人が逃走する可能性が高まるし、偽情報の多さで捜査が混乱するのも目に見えている。無理もない対応だった。
 多摩川OL殺害事件の合同捜査本部は殺風景な講堂に置かれ、十名程度の捜査関係者が入ってきた真琴を一斉に見た。席はまばらに空いていて、まだ集合時間には早いのか、すでに捜査員が散った後なのかはわからなかった。
 曽根は捜査官たちを見やると、目当ての相手がいなかったのか真琴を促して部屋を出た。
 生活安全課に入ってすぐ無人の受付があった。壁にはお笑い芸人を使った詐欺事件防止ポスターがでかでかと貼られている。奥はごちゃごちゃとデスクが並ぶパーティションのないフロアで、端から端まで見渡すことができた。
 近くの署員が顔を上げ、曽根に向けて険しい表情でフロアの奥を指した。
 古賀美月の父親が来ているという。
「話を聞きたいんですけど、同席していいですか?」
 曽根は首を振った。
「古賀美月は夫と二人暮らしで、父親は何も知りませんよ。捜査の進捗を聞きに来ただけです」
 曽根はふうっと息を吐いてからデスクの捜査資料を取り上げて、個室のドアに手を掛けて静止した。
「まあ、うまく言いますから、どうしてもというならどうぞ」
 ドアを開けると恰幅のいい男がくたびれたダブルのスーツでパイプ椅子に座っていた。曽根を見ても立ち上がらず、後から入った真琴に視線を這わせた。
「新人かい?」
 曽根は真琴を見てから父親に視線を戻した。
「手伝ってもらってます。男だと聞きづらいこともありますから」
「それで、どうだ? 娘の行方は?」
「手がかりはまだ」
「捜索はしてるんだろう?」
「もちろんです。主要な友人知人には聞き込みを行いました」
「手がかりは? ないのか?」
「最善は尽くしてます」
「よく聞くセリフだな。何か言えないようなことでもあったんじゃないか?」
「捜査の過程では公表できることとできないことがあるのはご存じでしょう」
「まあそうだな。一般市民に捜査状況を軽々しく話すわけにはいかない」
 自分は一般市民ではないとでも言いたげな口調だった。真琴が辟易していると、ドアが開いて見知らぬ若い男が入ってきた。
「亮太くん、遅いぞ」
「申し訳ありません」
 その反応で古賀美月の夫だとわかった。
 叱責された古賀亮太は細長い顔にパーマのかかった髪をきちんとセットしていて、服装にも気を使っていた。三十程度で、真琴とそう変わらない年齢だろう。
「何やってたんだ。自分の女房のことだろう」
 古賀亮太は平謝りで、曽根や真琴にも頭を下げた。
 曽根は気の毒そうに古賀亮太を見て、父親に向き直った。
「とにかく進捗があればこちらから必ずお知らせします。それまで待っていただけませんか? 彼女も加わりましたし、これまでよりも手を広げられると思います」
 真琴は最善を尽くすことを約束した。
 父親はしばらく娘が行きそうな場所や過去の出来事を基にした推論を打ってから立ち上がった。曽根の疲れた表情を見ていると、いずれも一度聞いた情報のようだった。
「亮太くんにはいえないこともあるだろう。俺に直接連絡をくれ。よろしく頼む」
 曽根と握手して真琴の肩を叩くと、古賀亮太を後に残して部屋から出て行った。真琴は義父を追おうとする古賀亮太を引き留めて、時間があれば話を聞かせてほしいと頼んだ。
 曽根は部屋の隅のパイプ椅子に座り、真琴は古賀亮太の向かいに座った。彼が落ち着くまで待ってから「なかなか個性的なお義父さんね」と水を向けてみた。
 古賀亮太は自嘲するような薄笑いを浮かべた。曇りの取れたような表情になったのを見逃さなかった。わずかに緊張はありそうだが、義父と一緒の時より肩の力は抜けている。
 真琴は冗談とも取れる口調で言った。
「あんまり性格は合わなそうですね」
「まあ、そんな感じです。いつもは美月がいてくれるので、あんな風に言われることはないんですけど」
「あなたの責任だと思っているんですか?」
「僕は出張でいなかったんです。お義父さんが先に気づいたので、結構責められました」
「どんな仕事を?」
「営業です。年に数回ぐらいですけど出張で地方を回ったりしてるので」
「大変な仕事ですね。形式的な質問ですが、美月さんがいなくなったことをどう考えていますか?」
 古賀亮太の表情に影が差した。
「どう、とは?」
「自分の意思で失踪したのか、事件に巻き込まれたのか、どう考えていますか?」
「何かあったんです。いなくなる理由がないですよ」
「何か兆候はなかった?」
「え? もしかして僕を疑っているんですか?」
 表情がひきつったものの、口元には笑みが残った。通常の反応と言えた。
「ただの確認です。曽根が一度伺ったかもしれませんが、わたしもあなたの考えを直接聞いてみたかったので」
「別に喧嘩もしてないし、おかしなこともなかったです」
「いつもと違うことはなかったですか? 何でも構いません。例えば習い事を始めたとか、スマホを触る時間が増えたとか」
「特にないです。元陸上部なんですけど、ジムにはずっと通ってるぐらいですね。社会人になってから運動不足だって言って」
「これまで連絡が取れなくなったことはありますか?」
「丸一日はありません。友人と旅行に行っても毎晩連絡をくれましたから」
「彼女の仕事は?」
「いまはしてません。事務をしていたんですが、結婚したときに辞めました──あの、本当に何も進展がないんですか?」
 古賀亮太は曽根を向いた。
「申し訳ありませんが、まだお伝えできるような進展はありません」
「そうですか」と肩を落とした古賀亮太は、スマートフォンを取り出して時刻を確認した。
 捜査に進展があれば必ず連絡すると約束して、古賀亮太を送り出した。
 曽根は彼と一緒に部屋を出ると、コーヒーを持って戻った。真琴の前にカップを置くと、自分も一口飲んで息を吐いた。
「ふたりの印象はどうでした?」
「正直言って、違和感があります。娘や妻がいなくなったにしては二人ともいまいち緊張感がない。何かほかに心配事があるみたい」
「それは私も感じましたが、父親についてはずっとあんな感じですよ。定年退職していますが、不動産会社で出世した地元の有力者で、うちの署長の知人です。不謹慎ですが、正直に言えば押し付けられたってわけです」
「曽根さんの言う通り、父親からは何も得られそうもないですね。彼が何かを知っていたらすぐに話すでしょうし」
「扱いづらいタイプでしょう?」
「どこにでも我が物顔で立ち入って、自分は特別だと思い込んでる。たぶん彼は職場が居場所だったんでしょう。奥さんは大変そうですね」
 曽根は苦笑した。
「奥さんはもう亡くなってます。分析にしては手厳しいですね」
「今のはただの偏見です」
 曽根はため息を吐いた。
「娘を心配する気持ちはわかるが、しばらくこないでしょう」
「身内で何かあったとしたら有力なのは夫だけど、事件前後の裏は取れているんですか?」
「出張は本当ですね。出先で会議に出席したのは確認が取れていますし、ホテルの滞在も照会しました。間違いなさそうです」
「曽根さんを信用してますが、一応これまでの記録は後で見せてください」
「おい曽根」という野太い声がしてドアが開き、男が入ってきた。
 細身の曽根と違いがっしりした強面で、堅気には見えない。顔に傷でもあれば満点だと思った。
 男は真琴の存在に気づくと表情が強張り、露骨に警戒を示した。
 曽根は男を蟹江と紹介し、真琴の身分を明かした。蟹江は敬礼してもう一度自分の名を名乗ったが、明らかに戸惑っていた。
「俺の助っ人だ」と曽根が言った。
 その一言ですべてを察したのか、蟹江は叱責するような視線を曽根に向けた。
「地取りに参加しろ。不審車両の捜索だ」
 曽根の表情に緊張が走った。空気が張り詰め、緊張で胸が苦しくなった。
「捜索って、軽バンですか?」
 蟹江は曽根を責めるように見た。それから表情を取り繕って、真琴に向き直った。
「いえ。不審車両と言っても特定しているわけじゃありません。周囲の聞き込みと、県境のNシステムから犯行時刻前後の怪しい車両を当たります」
「白の軽バンが出たら──」と言いかけたところで、蟹江が言葉をかぶせた。
「申し訳ありませんが、部外者に捜査の内容はお答えできません」
 真琴は口をつぐんだが、すぐに言い直した。
「すいません。捜査本部の邪魔はしないようにします」
 蟹江は会釈をすると曽根に視線を戻して「早く来い」といって退室した。
 不意に周囲が慌ただしくなったように感じて、また胸が苦しくなった。
 曽根は心配そうに手元の資料を差し出した。
「大丈夫ですか? 少し具合が悪そうですけど」
「ちょっと緊張しただけです。それより、これで堂々と車両捜索できますね」
「古賀美月を探す唯一の手がかりですからね。何かわかればすぐに報告します」
「曽根さんに追いつきたいので、わたしは彼女の足取りを追って、目撃者と話してみます」
 曽根から受け取った資料に目を通した。
 古賀美月を最後に目撃したのは近隣住民だった。

 駅から線路沿いを十分ほど、風は冷たいものの目が痛むほどの陽射しで、途中でジャケットを脱ぐと腕にかけた。住宅密集地で延々と豪邸が並んでいたが、時折その一角だけタイムスリップしたかのような年季の入った平屋が残っていて、目的地はその平屋のひとつだった。
 チャイムを押すと、エプロン姿で小太りの女が出てきた。自己紹介してスマートフォンでの録音許可を取ると、彼女は神妙な顔で見たものを話し出した。
「Tシャツにジーパン履いて、コンビニの裏から出てきてね。あっちの大通りの方に歩いて行ったの。そしたら白い車が停まってて」
 彼女が指した方向を見ると、来るとき目印にしてきたコンビニがあり、その背後の高台には古賀夫妻の二階建ての家屋が見えていた。家の真裏に当たるようだ。
 スマートフォンを取り出して軽バンの写真を見せた。彼女は画面をのぞき込んで頷いた。
「そうそう。うちでも仕事に使ってるのよ」
「古賀さんは何をしていたんですか?」
 彼女はスワイプするようなジェスチャーを見せた。
「なんかアレをいじってたけどね。ほかは、別に何も持ってなかったとおもうな」
「何をしていたんですかね?」
「運転している人と話してたんじゃない? 何か調べてたとか」
「そのあとは?」
「あたし買い物行くところだったから、自転車出しに行って戻ったら、もういなくなってたね」
「間違いなく古賀美月さんでしたか?」
 女は頷いて、道路沿いまで出てくるとコンビニを指した。
「あの裏、抜け道があってね。フェンスのドアがついてて、鍵はかかってないんだけど地元の人しか通らないから。古賀さんの奥さんは町内会とかゴミ捨て場の掃除とかで何度も会ってるし。顔は覚えてるから」
 車道は片側一車線で顔が判別できないほどの距離ではない。やはり古賀美月本人と見て良さそうだ。
「ねえ、奥さんに何かあったの?」
「具体的にはお話しできないんですが、警察でも探してまして、もし見かけたら最寄りの警察署にご連絡いただきたいんです」
 玄関から男が出てきた。ツナギを着ていて仕事の途中のようだった。夫だろう。女が気づいて背後の男を振り返った。
「あんた、古賀さんの奥さん、警察で探しているんだって」
「あー、こないだ見たのが最後だな俺も。レンタカー借りてたときだろ」
「レンタカー?」と聞き返すと、夫は「そうだよ」と言って陽射しの下に出てきた。手のひらで庇を作りながら、主婦が指していたところと同じ箇所を指さして言った。
「『わ』ナンバーだったから。白い車で」
「確かですか?」
 夫は頷いた。
「よく覚えてるよ。うちの近くに止まってるからお客かなと思ってスピード落としたんだ。そしたらレンタカーだったから。うちのが買い物出るところが見えて、俺は駐車場に止めるのに車でこの道通りすぎたんだ。あっちにあるからさ」
 曽根の資料には記載がない。食い下がるとナンバーまでは覚えていないと答えた。
「誰がいたか見えましたか?」
「古賀さんだろ?」と確認するように主婦を見て、彼女がうなづくと真琴に視線を戻した。「知らない車だったから、俺は誰だったのかまではよくわかんないね。白っぽい服着てたことぐらいしか。運転してたし」
「運転席のところに立ってたよね? なんか話しながらスマホいじってた」
「ちょっと覚えてねえな」
 目撃した日時を聞くと、古賀亮太が会社に出していた出張申請の日時と重なった。運転席の人物は夫ではなかったことになる。
 真琴は礼を言って、駅に戻る道すがら曽根に電話をかけた。レンタカーの件を伝えると、息を飲むのがわかった。
「該当車が多すぎて絞り切れなかったところなんです。レンタカーなら話は早い」
「多摩川の現場から逃げた方向はわかっているんですか? 過去の目撃証言も含めて付近の店舗を当たれば」
「ええ、遠からず特定できるかもしれませんね。とりあえず蟹江に話してみます」
「それと、ジャック事件とは繋がりそうですか?」
 曽根が口を開く前のわずかな間で、いい話ではないとわかった。
「難しそうです──そのあたりも、まずは蟹江に投げて探ってみますが」
「蟹江さんは信頼できるんですか?」
「奴が二年前との符合に気づかなかったら、私も動いていません」
「軽バンの捜索は本部に任せます。私じゃ仮にナンバーがわかっても身元特定までもっていけませんし。ほかに失踪当日に古賀美月を見たものはいないんですよね?」
「知る限りは」
 曽根が行った事前捜査について簡単な確認をすると電話を切った。
 見ず知らずの人間に運転席から話しかけられて警戒しない人間はいない。ジャックと古賀美月は面識があるのかもしれない。
 曽根も関連人物には当たっていた。これといって成果はなく、収穫と言えば古賀美月の夫である古賀亮太に暴行の犯歴があったことだという。およそ十年ほど前の二十代前半に起こした女性との喧嘩に端を発するもので不起訴になっている。関連は薄そうだった。
 古賀美月を中心に、ジャックの人物像を絞るべきだろうか?
 だが二年前は同様のロジックで失敗している。
 性犯罪は再犯率が高い。事例が多いため犯罪プロファイリングによる犯行の推定が成り立つ。だが連続殺人は稀だ。日本ではほとんどデータがない。そして事件を問わず、分析で犯人像を明らかにすることはかなり困難であることがわかってきている。正直言って、やれる自信はない。しかし古賀美月につながる情報が白の軽バンの目撃情報しかない今、その困難な作業の精度を上げる以外にできることはなかった。
 手口から動機に遡って犯人を推測する『捜査』と、犯人像から手口に繋げて犯人の行動を推測する『犯罪プロファイリング』で挟み撃ちにする。理にかなっていそうだが、図らずもジャック事件の失敗を踏襲するようで不安だった。
 駅前でチェーン店のカフェに入るとコーヒーだけ注文し、目立たない席に座ってラップトップを開いた。
 性癖が絡む犯罪であれば遺体の一部を持ち去るケースが多い。一連の遺体は全裸で発見されて所持品も見つかっていないことから、記念品として小物や服を収集している可能性がある。同時に犯行時の興奮を追体験するため、犯人が現場に戻ってくる可能性も高い。
 だがこれでは本当に二年前の分析と同じだ。ジャックは網にかからなかった。この事件には当てはまらないのだ。
 運ばれてきたコーヒーに口をつけると、身体がじわりと温まるのを感じた。
 過去の分析は捨てよう。別な角度から考え直すべきだ。
 遺体をバラバラに遺棄する場所は、過去の三件と多摩川の遺体でそう遠くない。遺体は切断された両脚はもちろん、削がれた胸や太ももの肉までが、散り散りではあるものの同じ場所に投棄されていて──一部、カラスや野良犬が持ち去っていった形跡はあるが──過不足がない。
 一連の事件に共通して、犯人を駆り立てているのは女性への妄執や激しい怒りだろう。恐らく単独犯。この凶行を共有できるとは思えない。幾重にも織られた強迫観念に囚われているのか、執拗に同じ手口を繰り返すことがそれを示唆している。
 どこかで時間をかけて身体を切り刻み、遺体を投棄する。記念品も取らず、現場にも戻らないとしたら、ジャックの目的は何?
 ジャックの妄想はどこで終わっている?
 殺すことそのものか?
 その手前、切り刻むと同時に興味を失っているとしたら?
 聖地は殺害場所であって投棄場所じゃない。だから現場には戻らなかった。いい線だ。遺体が副産物だとしたら、ゴミのように無造作に投棄して顧みないことも頷ける。そうだ。多摩川の遺体は生きたまま肉を削がれている。ジャックが執着しているのは被害者に苦痛を与えることだ。
 拷問か。それがジャックの目的か?
 だが、なんのために?
 異常性犯罪の場合、不能者の線はケースとしてあり得る。フロイトじみてはいるがデータとして皆無じゃない。
 ジャックは手始めにマッチングアプリを通じて被害者と接触している。だが性的な関係は結べない。不能であることが劣等感に繋がっているとしたら? 自分が役に立たない男だと突きつけられる対象、つまり女性の肉体を恐怖しているはずだ。だから女性を支配しているときは興奮を覚える。太ももや尻の肉など、死に至らない部分から少しずつ傷つけていく。長く続く苦痛ほど興奮も持続する。
 ここまで凄惨な手口を実行するまでには妄想の中で犯行を繰り返しイメージしているはずで、実際に手を下すまでに大きなきっかけがあったはずだ。
 妄想だけで我慢できなくなった理由はなにか? 理想的な獲物を繰り返し見たのかもしれない。目の前に餌をぶら下げられていれば我慢するのは難しい。ジャックは彼女たちに憧れたのだ。一方的なものだとしても、被害者を何度も目にしている可能性は高い。被害者の生活圏とジャックの生活圏が重なっているのかもしれない。
 だとすれば、ジャックを追うには最初の被害者、富岡萌の事例こそ見直す必要がある。彼女が最初でなくてはならなかった理由があるはずだ。
 ラップトップの資料から富岡萌の情報を探し出した。
 遺体はすでに荼毘に付されている。彼女のスマートフォンも家族に返却されていてアプリの履歴は確認できない。残り二人の被害者に至っては所持品がなにひとつ見つかっておらず、遺体以外は発見できていなかった。
 富岡萌はアルバイト先の店から出たところで襲われたという。現場にスマートフォンを落としており、店の客が発見して店主に届けていた。同僚が富岡萌のものだと証言している。真琴が彼女の遺体を見つけたことで、関係筋を調べてスマートフォンに残されたアプリの履歴にたどりついた。
 つまり、ジャックとして逮捕された男の『マッチングアプリで出会った』という証言の裏付けは、唯一スマートフォンが遺されている富岡萌の履歴によって為されていた。マッチングアプリは匿名のサービスだった。やりとりした互いのスマートフォンが発見され、アカウントの裏が取れなければ証拠として立証できなかったのだろう。
 富岡萌の家族に会ってみるか? あわよくばアプリの履歴を確認したいが、いまから何かを得られるとすれば周辺情報だけかもしれない。
 過去の一連の事件は地図上でプロットすると直径五キロ圏内で起こっていた。多摩川に上がった遺体も、古賀美月と白の軽バンの目撃情報もまたこの圏内だ。ここに最初の被害者、富岡萌の生活圏を重ねれば、犯人の行動範囲や犯行現場を絞り込めるかもしれない。
 真琴はデータを整理して曽根にメールを送った。捜査本部がジャック事件や失踪事件との関連を認めさえすれば、この分析は次の一手になる。

1:https://note.com/zamza994/n/nef2c2bd0746b
2:https://note.com/zamza994/n/n46a4a426f5cd
3:この記事
4:https://note.com/zamza994/n/n6c8b9fdb17a0
5:https://note.com/zamza994/n/n51ef7c2d95cc
6:https://note.com/zamza994/n/n7442a1ba8d6b
7:https://note.com/zamza994/n/n2bacc53787bd
8:https://note.com/zamza994/n/n826a7100c002

#創作大賞2023

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