【ミステリ】切り裂きジャックの帰還 4 / 全8話

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 曽根は多摩川付近で大掛かりな聞き込みを行ったが、軽バンはもちろん不審車両について目立った収穫はなかった。当然だ。地取りで召集されたものの、ふたを開けてみれば犯人に繋がる満足な情報を与えられていない。闇雲に聞き込みをしても成果が出るとは思えなかった。
 コンビニの駐車場に車を止めて運転席で休憩すると、外で風に当たりながらスポーツドリンクを飲んでいた連れの捜査員が呟いた。
「無駄だなこりゃ。マスコミ向けのアピールだろ」
 太った男で、風があると肌寒いぐらいなのに汗をかいている。
「いいのか? そんなもん飲んで」
「大丈夫だよ。息抜きだ息抜き」
「あとどのぐらい残ってる?」
 捜査員は内ポケットからリストを取り出して眺めた。
「ざっと二十件ぐらいだな。もうひと踏ん張りしないと終わらんなあ」
 曽根は何も答えなかったが、内心は捜査本部の動きを想像して気が気ではなかった。
 白の軽バンがレンタカーだという情報は蟹江を通じて本部に伝えていた。車両特定班にも情報が流れているはずだが、それきり音沙汰がなかった。同時期に起きた失踪事案とも関連があると付け加えたが、かえって墓穴を掘ったのかもしれない。
 捜査本部が関連を認めれば、多摩川の遺体と失踪事件が繋がり、白の軽バンを追えば、二年前のジャック事件に突き当たる。三つの事件がひとつなぎの犯行になる。それが二の足を踏ませているのだろう。放っておけばレンタカーの件さえ、うやむやになるかもしれない。
 だがこれは踏み絵だ。この事実をどう扱うかで本部の腹が読める。
 携帯が鳴った。検死した医師からだった。
「どうだいその後は?」
 曽根はため息を吐いた。
「どうこもうもない」
 連れの捜査員はそれを聞いて鼻で笑った。愚痴が始まると思ったのか、無言でコンビニのイートインを指さすと店内に入っていった。
 曽根は捜査員を眼で追いながら続けた。
「解剖記録はどうだった?」
「お前の見込み通りだ。提出したんだが、すぐに修正するよう口出ししてきたよ。ジャックに繋がるような太腿や胸についての特徴的な記載は抜くようにいわれた」
 陰惨な手口はジャックの名刺のようなものだ。自分が戻ってきたことを知らせるシンボルでもある。
 捜査本部がそれを消しに来たと言うことは──
 曽根の見込みは悪い方に当たった。警察内の協力者に網を張っていて正解だった。おのずと黒伏たちの役割もはっきりした。
「相手が悪いな」と曽根が呟いた。
「向こうは抜け目ないぞ」
「ケツまくって逃げた方がいいかもな」
「その方が利口だ」
「勝ち目は薄いが」
「何手か先に行ってると思っていいだろうよ」
「それ以上だろう。何者かは知らないが、こういう処理をするためにわざわざ呼ばれてるんだ」
「とりあえず写真も、元の写しも手元に残してるがね」
「すまんな。署に戻ってから顔を出すよ」
 通常、捜査機関は起訴不起訴がはっきりわかるまで解剖記録の開示には応じない。だが剖検医は別だ。当然控えを持っているし、その開示請求対応は各法医学教室に委ねられており、弁護士法に基づく照会には応じることが多い。
 黒伏はそこに先手を打ったのだ。
 解剖記録の改ざんは手始めだろう。ほかにも情報が上がってくるはずだ。
 いずれもジャック事件から遠ざけるための隠蔽工作だと考えて間違いない。改ざんそのものは誤認逮捕の直接証拠にはならないが、逆に言えば証拠をうやむやにしてまで隠し通したい理由があるということだ。その理由は、ジャック事件と同様の手口で殺人が起こった現状から見て誤認逮捕だと見当がつく。
「誤認逮捕ってことは間違いなさそうだな」
「そうだとしても物証はどうなる?」
「まだなんとも、わからん」
「捜査優先ってところか」
「行方不明者を見つけるほうを優先してる」
「いいんかねそれで」
「いいんだよ」
「分析官殿の影響か?」
「馬鹿言え。拉致されてる可能性があるのを助けないでどうする。警官だぞ俺は」
 けっけっけと医師は笑った。
「隠れ蓑として声をかけたのに、入れ込んでたら世話ないね」
 反論を待たず、検討を祈ると言って通話は切れた。
 曽根が表立って動けない以上、確かに隠れ蓑としての期待もしていた。だがそれだけで引き入れたつもりはない。人命がかかっているのだ。
 曽根は腕時計を見た。
 今頃、富岡萌の両親に会っているだろう。
 真琴には多摩川事件について口にしないよう釘を刺した。詳細を話せば、富岡萌の家族からこちらの動きが公に漏れる恐れがある。なによりジャック事件を掘り返していることが本部に伝われば、失踪事件の捜査継続は絶望的になるだろう。
 表向きは捜査状況秘匿のためといえるが、捜査本部に先手を打たれ、真実をもみ消される可能性のほうが恐ろしい。
 何とかしなければと思いながら、いまは言われた通り聞き込みを続けるほかなかった。連れがコンビニから戻るのを見て、曽根はエンジンをかけた。

4

 タクシーを使って多摩川付近から幹線道路を北上したところに、富岡萌のマンションはあった。大きな公園に面していて、前面道路は吹き溜まった落ち葉であふれていた。
 到着しても考えはまとまらなかった。何をどう話しても家族にしてみれば死者を起こし、過去を掘り返す行為だ。いずれ誰も望まない対話になる。
 オートロックのモニタ越しに名前を名乗り、警察の捜査に協力しているものだというと、母親らしき声は険のあるものに変わった。
「何の用でしょうか?」
「萌さんの事件について、もう一度伺いたいことがあるんです」
「すべて話しているはずです。お話しすることはありません」
 切り捨てるような調子で返す言葉に詰まったが、ここで引くわけにはいかない。
「警察が保管していた証拠資料は返却されていると思います。何か残っていたら確認させていただくことはできませんか?」
「もう残っていません」
「萌さんの失踪当日の行動や普段の生活について、もう一度整理したいんです」
「いまさら、そんな必要がありますか?」
 わだかまりを抑えて会話を続けようとするなら、二年前と同様の手口で人が消えていると伝えるべきだろう。
「どうしても調べたいことが」といったところで、声がかぶさってきた。
「あなた達に話すことなんて、なんにもありませんよ」
 何も言えずにいると、母親が声を震わせながら続けた。
「私たちは何度も何度も頼みましたよね? なのに、やっときたと思ったら──いまさら、よく顔が出せましたね」
「申し訳ありません」と言い終わる前に、インターフォンが切れた。
 富岡萌は失踪当時大学生だった。入学をきっかけに親元を離れ、都心のマンションを貸りた。その部屋に決めたのは家族ぐるみで付き合いのある一家が近くに住んでいたためだった。
 失踪当日、知人家族の母娘と挨拶を交わし、バイトに行くと答えたあと、バイト先とは異なる駅の改札で友人に目撃されていた。そして数時間後、バイトに現れて仕事を終え、店を出てそれきりになった。
 逮捕された男の自供では、彼女を待ち伏せて強引に性交渉を迫ったという。それだけでも気持ちの悪い話だが、実際に富岡萌がそのあと経験したことは想像もできない地獄だった。
 発見したときの遺体がよぎり、胸が悪くなった。何をいまさらと言った母親の気持ちはもっともだ。すべてを話せる時が来るまで、彼女を納得させることはできないだろう。
 自分のためにも、まだ来るべきじゃなかった。

 マンションから出ると、今度は友人が富岡萌を目撃した駅に向かった。
 ターミナル駅はホームから人でごった返していて、ようやく改札を出るとビル三階ほどの高さでペデストリアンデッキが広がっており、そこもまた混雑していた。景色のいいテラス席に空きを見つけると、テイクアウトのコーヒーで一息ついた。
 富岡萌が目撃された駅ビルは改札と連結しており、テラスから見上げるとテナントのアパレルや飲食店の看板がでかでかと見えていた。
 彼女はここで何をしていたのだろう? その場でラップトップを開き、目撃者である友人に連絡を取ると、最初は誰かわからず声が強張っていたが、警察関係者を名乗ったところで今度は困惑に変わった。
 電話だけなら、と当時の様子を語ってくれた。
「あたしは改札のところで友達と待ち合わせしていて、萌が駅から出てきたのを見たんですよ」
「どのあたりで?」
「改札の階段のところです」
 繁華街に下っていく大階段があった。人の流れは階段の中央だけで、多くの人が両サイドで手すりにもたれてスマートフォンをいじっている。
「階段は改札と近いけど、萌さんは気づかなかったの?」
「声かけたんですけど萌はずっとスマホ見てましたし、ちょっと離れてたんで、そのまま駅ビルの中に入っちゃいました」
 当の駅ビルにはカフェやアパレルの看板が目立った。
「いつもと違う様子はなかった?」
「ないと思いますけど、あんまり覚えてないです」
「大きな荷物を持ってたとかはない?」
「たしか前も聞かれましたけど、ないですね。小さいバックぐらいで。ボルドーっぽいワンピースの綺麗な感じの格好で、デートかなって思いました。あとで聞こうと思ってたんですけど、まさかあんなことになると思わなかったんで」
 なぜ今になってそんな話をするのかと聞かれたが、警察の研究室で事件資料を作るためだと答えると生返事が返ってきた。
「多分デートですよ。男子人気ありましたし。デートした相手が見つかったら詳しいことわかるんじゃないですか?」
「心当たりはないの?」
 前も警察に伝えたという。資料にその先の足取りが記録されていないことからして空振りだったのだろう。
「でも結構遊んでたりして、悪い話もありますよね」
「例えばどんな噂?」
「あの日誰に会ってたんだろうと思って、相手を探すつもりで友達に聞いたんですけど、結局誰もいなくて──だからほかにも男がいたのかもなって思って。わかりませんけど、警察も会見してたじゃないですか」
 報道発表の内容は真琴がドロップアウトした後のことで把握していないが、富岡萌の印象は事件以降、悪い方向に固まってしまったようだ。家族の心情を察すると関係者として胸が痛んだ。
「ほかに親しかった人はわかる?」
「それも話しましたけど、わからないですね」
 礼を言って電話を切ると、残っていたコーヒーを飲み干し、カップを握りつぶしてゴミ箱に捨てた。
 自分の知見が現実の犯罪捜査で役に立たないと思い知られるのは何度目だろうか。新しい切り口を探していたはずが、二年前に描いた線をなぞっているだけのように思えた。

5

 夕暮れを待たずして捜査員が呼び戻された。車中では連れが、さもありなんといった調子で捜査本部の采配を腐していた。いつもならなだめるところだが、今度ばかりは曽根も同感だった。
 何が起こっているのか把握しているのは上層部だけだろう。講堂に召集された捜査員を遠巻きに見つめる男たちのなかに黒伏も混じっていた。
 いつもより早い捜査報告を終えると、彼らは方針を決めるから待つように言って、指揮を執る部長や課長を連れて姿を消した。
 ぽつぽつと、捜査員のなかから困惑した声が上がった。
 殺人事件の広域捜査が敷かれているとは思えない無為な時間だった。
「どうなっているんです?」と、若い男性刑事が蟹江に話しかけていた。
 曽根は我に返って腕時計を見た。待てと言ってから大分経っており、焦れるのも無理はない。
 曽根はため息をついて椅子から立ち上った。
「どこにいく」と見とがめた捜査員が言った。
「小便です」
「すぐ戻れ」
 曽根は自動販売機で缶コーヒーを買うと、そのまま屋上に出た。西日が青空を染め始めて、冷たい風がくすぶった気持ちをいくぶん和らげた。
 捜査本部はやはり期待できそうもない。時間をかけているのは捜査をどうやって機能不全に追い込むか、その算段だろう。遺体が挙がっていては打ち切るわけにも行くまい。彼らも足掻いているのだ。
 携帯が鳴った。真琴からだ。
 めぼしい成果はないと話した後、送った分析資料はどうなったか聞かれた。
「受け取りましたが、あれは迂闊に出せません。藪蛇になりそうですから」
「収穫はなしってことですか?」
「いまのところは」
「あの、ひとつ教えてほしいんですが、富岡萌の家族と警察の間になにがあったんですか? おおよそはわかってるつもりなんですが、玄関先で追い返されたので」
「よくある話ですよ」
 当時、富岡萌の捜索を依頼された警察は乗り気でなかった。ジャックによる二件の殺人で家出人どころではなかったからだ。
「そこで神代さんが遺体を発見して、風向きが変わったんです」
 富岡萌は一連の事件の最初の犠牲者とされた。
 警察は逮捕後の記者発表で「彼女は出会い系アプリを利用して男と頻繁に会っていて事件に巻き込まれた」と発表し、メディアによって警察の対応は適切だったという世論が作られた。そんな生活を送っていれば家出だと思うし、事件に巻き込まれてもしかたがないというわけだ。
「なるほど」
 真琴のため息が聞こえた。
 年間八万人が失踪する時代である。大抵はすぐに見つかるが、それでも千人程度は行方知れずになる。一方で警察の人員は限られており、捜索にも限度がある。自然と優先度をつけるほかない。
 警察にしてみれば運が悪かったということだろう。曽根も少なからず担当者に同情した。
 だがアプリはただの手段だ。利用するのに良いも悪いもない。遊んでいたなら殺されても仕方ないと判断するほうが異常なのだ。
 曽根は苦々しい表情で続けた。
「警察の責任をうやむやにするには十分でしたよ。そういう意味じゃ成功なんでしょう」
「事実はどうあれ、責任を被害者自身になすりつけたってことですね」
 すべてが手遅れだった。
 もっと早く捜索していれば。
 もっと早く犯人を逮捕できていれば。
 富岡萌の両親は深く長い後悔を引きずってきたに違いない。あるいは怒りを。警察は信頼できない。それでも娘の無念を晴らすには警察の協力が必要になる。そこには骨も軋むような葛藤があったに違いない。
「門前払いでしたし、いまさら過去を掘り返すなんて、家族にとっては余計なことでしょうね」
「でも間違ってませんよ。自信をもってください。ジャックを捕まえて、被害者の無念を晴らすんでしょう?」
「そうですね」
「当時の捜査に加わっていましたが、じかに聞いていないことも多い。新しいことが分かるかもしれない。レンタカーの件だって、神代さんが調べ直したことで出てきたわけでしょう」
 真琴は富岡萌と最後に言葉を交わした母娘に会うという。曽根は車を出すと伝えて、時間を決めると通話を切った。
 行方不明者の救出は急務だが、慎重にやる必要がある。ジャック事件を調べ直していることがばれては、芋づる式にこれまで集めた調査資料をふいにしかねない。いまだ誤認逮捕や捜査の手落ちを告発できるだけの物証がないのだから。
 ちびちびやっていた缶コーヒーを飲み干して署内に戻った。講堂から吐き出される捜査員とすれ違うと、ひとりが「きょうはしまいだぞ」と吐き捨てた。
 入れ違いに入った講堂にはひといきれが籠っていた。さきほどの若い刑事が蟹江に詰め寄っていて、何があったのかは想像できた。
「なぜ待機なんでしょうか? 何も収穫がないんですよ?」
 本人は控えめに意見しているつもりだろうが、芯を食った質問だった。答えられるはずがない。
 蟹江は「本部の考えがあるんだろう」と言った。
 嘘ではない。曽根は思わず笑ってしまった。
 蟹江と若手が一斉に曽根を見た。
 曽根は片手を上げて挨拶した。
「あんまり蟹江をいじめないようにな。そいつもわかってないんだ」
 若手は矛先を曽根に向けた。
「それは、もちろんわかっているんですが」
「納得できないか?」
 若手は頷いた。
「本部はお前に納得してもらう必要なんてないんだよ」
 若手の顔は曇った。
 蟹江は曽根の腕をつかみ、廊下まで引っ張った。曽根はされるがままについていった。
「お前、なにかやったんじゃなかろうな?」
「何をやったって言うんだ」
「とぼけるな」
「レンタカーの件は伝えたんだろうな」
「報告した」
「じゃあなんで動かない?」
 蟹江は口ごもった。
「あの若手、ちゃんと見てやらないと辞めちまうぞ」
 背後に視線を投げると、妙な顔でやりとりを見ていた。曽根は蟹江に向き直って呟いた。
「まともな警官で、今の状況を納得できる奴なんていないだろ」
 蟹江は若手に「いま行く」と言うと、去り際に「馬鹿はするな」と釘を刺してきた。

6

 真琴は富岡萌と親しかった母娘に連絡し、曽根と落ち合って指定されたカフェに入った。店内はどちらかといえばファミリーレストランで、近隣の主婦や学生たちで混んでいた。
 曽根は座席に着くと出された水を飲み、疲れ切った表情で黙り込んだ。
「何かあったんですか?」
「何もないことが不満なんです。なぜかは予想がつきますけどね。馬鹿はするなと釘をさされましたし」
「蟹江さんにですか?」
 曽根は頷いた。
「曰くがあるんですね」
 曽根は力なく笑った。
「そんなところです」
「警察署で会った時、私が来た経緯をわかっているようだったし、ジャック事件との関連も知ってるでしょう? 誤認逮捕が絡む事件なんて気を許している相手にしか話さない。でも仲がいいようには見えなかったから──」
「まあ恨まれているのかもしれません。色々ありましたから」
「あれから古賀美月のご家族は?」
「連絡はあったんですが、いつもの調子です」
 曽根がメニューに手を伸ばした。
「まだ時間があります。何か食べましょうか?」
 テーブルのベルを鳴らしてサンドイッチを頼んだ。曽根も同じものを注文し、店員が去ったところで店内の声がひときわ高まった。
「随分騒がしい店ですね」
 騒々しい集団に目をやりながら呟くと、曽根は慣れた様子で、人の多い場所を選ぶのは証言者がとる防衛本能なのだと答えた。
 感心していると曽根が口を開いた。
「それで、なぜいま富岡萌を?」
 運ばれてきたサンドイッチを食べながら、プロファイリングをやり直し、富岡萌に注目した経緯を語った。
「富岡萌を目撃した友人と電話で話しました。彼女が言うには、恋人かそれに準じた男が複数いて、失踪当日も自分たちが知らない男と会っていたんじゃないかって」
「当時も富岡萌の交友範囲は調べましたが、怪しい男はいませんでした」
「ええ。資料にも記載がなかった。ただ、まったく関連がない人間だったら?」
「マッチングアプリですか?」
「鑑取りに出ないかも」
 曽根は食べる手を止めて考え込んでいる。真琴が続けた。
「その友人の富岡萌に対する認識が報道発表に影響されて歪んでいるってことも考えられますけど。富岡萌に非があるような口ぶりでしたし──なにも収穫らしきものはなくて、情けなくなりました。捜査も中途半端で、分析官としても結果を出してませんし」
「それは違います。なんせ人間を扱う商売なんだ、うまくいくことのほうが少ないんですから。私なんか自分のやり方が時代遅れな気もしています」
「それこそ違いますよ。いま実績を上げているのは地道な捜査です。私の研究室では刑事の勘を利用できないか考えていたぐらいです」
「それはAIってやつですかね?」
「AIに食わせるデータの話です。何のデータをどういう基準で読ませるかという部分は、教師データというんですが、結局人間が決めるんです。属人化しているベテランの勘を、だれでも利用できる形でシステムとして再構築する研究で、むしろ現代の犯罪プロファイリングの役目のひとつは、刑事の勘を可能な限り定量化して正しく引き継いでいくことだと思っています」
「そりゃあ助かるだろうな」
「犯罪プロファイリングも時代遅れになりますよ。統計的にはとっくに限界が見えてますから」
「それで刑事の勘ですか」
「犯行に至った経緯をひも解くためにできるだけ多くの切り口が欲しいんです」
「悪く取らないでほしいんですが、犯人を理解するなんて、できるもんですかね?」
「理解する必要はないんです。犯行に至った経緯さえ推定できれば。あくまで統計ですから」
「経緯ね。つまりなんでやったかってことでしょう? そこでいくと昔の動機は単純でしたよ。大半の事件は犯人の性格や境遇が分かると、動機も自ずと見えてきたもんです。ですがいまはさっぱり。ジャックのような奴は、何者で、どんな生活を送っているのか、まったく想像できません」
「かもしれませんが、学者がそれを受け入れたら進歩はありません」
「そりゃそうか」と言って、曽根は笑った。「ってことは、物事を研究するのに失敗はつきものなんじゃないですか?」
 そこまで話して曽根の魂胆が分かった。結局、話の結論を真琴を励ます方向にもっていこうとしていたのだ。
 曽根の気遣いが嬉しく、思わず口元がほころんだ。
「どうしました?」
「いいえ、なんでも」と言って、真琴は微笑んだ。
 曽根は食事を平らげるとスマートフォンを見た。なにかの通知が来たのか、画面を操作してスーツの内ポケットにしまった。真琴もスマートフォンで時間を確認し、店の入り口を見た。
 制服姿の女生徒が席に通されてきた。後ろにいるのは母親だろう。曽根が慌てて向かいの席から真琴の隣に移ったが、母親は空いた席を一瞥しただけで座らず、個室を予約しているといった。
 個室に移ると喧騒は遠くなり、国道を通る車の走行音が曇って響いてくるだけになった。
 親子は谷口と名乗った。曽根が最後に挨拶をして、そのまま会話の口火を切った。
「富岡萌さんとは家族ぐるみの付き合いだったとか?」
 母親が頷いた。
「小さいころから知っています。萌ちゃんがこっちの駅に引っ越したのは、私たちが住んでいたからなんです。ご両親にも何かあったらお願いしますねって頼まれていましたし、だから事件に巻き込まれたって聞いた時は、もっとよく見てあげていればって」
「そうですか。それで、娘さんと最後に萌さんに会った時のことを話してもらえませんか?」
 女生徒は叱られているように伏し目がちのままで、母親にうながされて口を開いた。
「最後に会った時、萌ちゃんは男に付きまとわれているって言ってました」
「警察には?」
「前に話しましたよ」と、間髪入れずに母親が口を開いた。「つきまといは前からだったみたいです。こんなことになる前、一度警察にも相談に行ってます。萌ちゃんのお母さんと電話で話したとき聞いたことがあるんです。萌ちゃんがバイトの帰りに怖い目に遭ったそうですねっていったら、お母さんは知らなかったって、驚いてましたよ。それでそのあと二人で警察に行ったって聞きました。警察は自宅周辺のパトロールを強化するだけだったみたいですけど」
 真琴は女生徒に質問した。
「萌さんはどうして母親につきまとわれていることを話さなかったのかな?」
「心配かけたくなかったんでしょうね」と母親が代わりに言った。
「そのバイト先って、たしか居酒屋だったよね?」
 女生徒は頷き、スマートフォンを操作して差し出した。
「このお店です。酔っ払いに絡まれるからやめなよっていったんですけど、その人、帰り道に声をかけてきたって言ってました」
 曽根と目が合った。恐らく自供内容にあった『彼女を待ち伏せて強引に性交渉を迫った』ことの裏付け証言だろう。
 曽根が書き留めながら聞いた。
「店の客? 知ってる人なの?」
「わからないです。怖かったって言ってました」
 母親は横でうなづき、娘の背中に手をまわした。
 曽根を横目で見た。押し黙って考え込んでいる。
 代わりに真琴が口を開いた。
「結局、その相手の検討はついたんですか?」
 母親は訝し気な顔をした。
「捕まった男なんじゃないですか?」
 真琴が言葉に詰まると曽根がフォローした。
「そうですね。起訴内容ではそうなっています」
「え? どういうことですか?」
「いや、当時の記録を調べ直す必要が出てきましてね。こうしてお時間を取ってもらっているんですよ」
 母親は腑に落ちない表情だったが、娘に「怖いね」と呟いた。
 母娘は失踪当時の富岡萌に一番近い人物だろう。
 真琴はもう一歩踏み込んだ。
「それで、さきほど富岡さんのお宅にも伺ったんですが、会えなかったんです」
 母親は表情を強張らせた。
「そりゃそうですよ。警察が早く捜査してくれていれば、助かったかもしれないんですから。それにどうしてあんな発表をしたんですか? 新聞にもひどいこと書かれるし」
 当時の記者発表のことだろうと察しはついたが、あえて聞き返した。
「ひどいこと?」
「萌ちゃんを不良みたいな書き方をして」
 母親の語気には怒りがにじみ始めた。
「絶対嘘ですよ、あんなこと、ねえ」と娘に同意を促して続けた。「いまどきアプリで出会ったっていいじゃない。結婚相手だってアプリで探す時代なんだから。そんなこと関係ない人がとやかくいうことじゃないでしょ? 犯人が一番悪いに決まってるんだから」
 大学の友人とやらに聞かせたい言葉だと思った。娘を見ると、もう怯えていなかった。前傾して、挑むような姿勢で口を開いた。
「萌ちゃんは真面目でした。アルバイトをはじめたのも自分の生活費を稼ぐためだっていってましたし、居酒屋を選んだのも給料がいいからって。スマホの機種変して、よく新しいスマホを見せてくれました」
 話の大枠は捜査資料や報道発表を裏書きする内容だったが、中身には隔たりがあった。
 当時の資料からすると、富岡萌は男性から人気があったが決まった交際相手はいないようだった。友人は少ないが特定グループと付き合いをしていて、一緒にカラオケやショッピングをすることが多かったらしい。
 そして親子の証言が確かなら、居酒屋のアルバイト代をスマートフォンの機種変更や生活費に充てていた。
 なんのことはない。普通の学生だ。
 だが警察の発表は違ったという。
 曰く、多くの男と交際し、夜の歓楽街で遊んでいた。
 曰く、頻繁に居酒屋に出入りしていた。
 都心で遊ぶなら歓楽街でないところなどないし、アルバイト先なのだから居酒屋に出入りするのも当たり前だ。
 報道発表は典型的な印象操作としか思えなかった。たとえ嘘でもマスコミが一斉に報じれば世間は信じる。富岡萌に対する悪印象は、絵に描いたようなヴィクティム・ブレーミングといえた。
 富岡萌の両親が会ってくれないはずだ。
 親子に礼を言って店を出た。車に戻った途端、曽根がため息をついた。
「今更悔やんでも仕方ないが、嫌らしいもんです」そう言って、資料を叩いた。「こいつは警察側の資料で、起訴して有罪にもっていくためのものだから都合の悪いことは書いてない。ほかに被疑者がいそうだって思われちゃ元も子もないですからね」
「二年前の捜査で切り落とした枝葉は、かなりありそうですね」
 曽根は妙に納得したような表情で車のエンジンをかけた。
「正直いって、小さな不正なら見逃すこともありました。同僚の違反を注意したこともありますが、処分されたやつもいれば、都合が悪くてもみ消されたこともある。納得は行かないが折り合いをつけてやってきました」
「今度は違うんですね」
 曽根は頷いた。
「急に正義面しだすなんて都合のいい話だってことは重々承知です。同僚には退職が近いからそんな気になったんだって言われましたよ」
「いいんじゃないですか。聖人君子ってわけじゃないし。でも警官は間違いなく誰かを救える仕事です。現に曽根さんが来なかったら、わたしも事件に関わってません」
「だといいんですが」
「自戒を込めていいますけど、きっかけや結果がどうあれ、変わろうっていう意思は大事じゃないですか?」
 ここに川村教授がいれば、警察は法の執行者であって正義の味方ではないというだろう。時には組織の正義が人道に悖ることがありうる。歴史が証明していることだ。
 曽根は警察組織を知っているのだろう。だが理解していても納得できないからこそ、再捜査をする気になったのだ。
 その覚悟も、失踪した古賀美月を救えなければ台無しになる。
「結局、富岡萌の線はこれ以上追えませんね。わたしが会った感じでは両親は説得できそうにないですし」
「最終手段はありますけどね」
「誤認逮捕のことを話すってことですよね?」
 曽根は頷いたが難しい表情だった。できない話だとわかっていた。
「でもレンタカーの線は期待していいですよね?」
「それなんですが動きがないので、難しいところです。これから署に戻ってみますが」
「同行しますよ」

 とうに定時を過ぎた警察署は薄暗く、受付に数名を残してもぬけの殻だった。
 曽根は捜査本部になっている講堂を見やってから誰かに連絡し、真琴を促してテーブルと椅子があるだけの殺風景な個室に入った。
 後から入ってきたのは蟹江だった。
「この間は失礼しました」蟹江は敬礼した。
 照明の下で見る蟹江は、ひどいクマがあり疲れているようだった。真琴がそのまま口に出すと、意外そうに微笑んだ。
「捜査本部に召集されると、ひと月は休みなしです」
 蟹江は曽根に視線を走らせてから、真琴に近づいた。
「申し訳ないがあなたは目立つから、いまは署内をうろうろしないほうがいい」
 曽根が補足した。
「本部にきている警部が女嫌いなんだ」
「なんですかそれ。犯罪捜査に男も女もあります?」
 曽根は肩を揺らしてくつくつと笑い、蟹江の肩を叩いた。蟹江は笑みを作ってはいたが、そ知らぬふりを通した。
 蟹江がそのまま窓際に立つと、曽根と真琴も続いた。窓が閉まっていることを確認したようで、声が漏れるのを警戒しているようだった。曽根が個室に呼び出したのは、蟹江の立場を慮ったのだとわかった。
「黒伏だが、現場の人間じゃないな」と蟹江が言った。
 真琴はよくわからなかったが、黙って二人のやりとりを聞いていた。
「役人か?」
「たぶんな。そっちはどうなんだ?」
「神代さんがジャック事件を洗い直して、当時の手落ちもわかってきた。いまやらなけりゃまた被害者が出る」
「探しているのは古賀美月だろ」
 曽根は軽く驚きの声を上げた。意外そうな曽根を見て、蟹江が続けた。
「俺も気になっただけだ」そう言って真琴に視線を移した。「神代警部補はどうですか? 古賀美月も多摩川の遺体も、ジャックの仕業だと思いますか?」
 真琴は頷き、確認するように言った。
「多摩川で遺体があがって、手口は二年前と同じ。数日前、白の軽バンと一緒に目撃された女性が消えた。偶然だと思いますか?」
 蟹江は曽根に向き直り、ため息を吐いた。
「似た者同士だな」
「レンタカーの特定はどうなった?」
 蟹江は口ごもった。曽根が詰め寄ったが、首を振るだけだった。計ったように外から数人の足音がした。
 足音が遠ざかるのを見計らって蟹江がドアを開くと、捜査官らしき男たちが廊下の角に消えるところだった。姿を消す間際に一人が振り向き、そのまま姿を消した。その男の睨めつけるような視線はしばらく残った。
「黒伏と、この間の男たちだな」曽根がぼそりと言った。
 蟹江は個室のドアを開け放ち「レンタカーは見つからなかった。すまんが、行かなきゃならない」とだけ言うと、男たちの後を追った。

 曽根と別れ、警察署近くのビジネスホテルでおにぎりと味噌汁の晩御飯を済ませた頃には時間も深くなっていた。メッセージアプリで夫とやりとりをしていると着信を知らせる画面に切り替わった。
「蟹江さん?」
 直接連絡がきたことに構えながら電話に出ると、どういう態度を取ればいいか逡巡していたようだが、意を決して話し出した。
 曽根を説得してくれないか、という相談だった。
「捜査をとめろというなら無理です。ひとりでも続けるつもりです」
「曽根はジャック事件を調べるために、自分から生安課に異動したんですよ」
「どういうことですか?」
 蟹江は口ごもった。
「あいつから聞いてませんか?」
「署で二人が話していたことと関係がありそうですね」
 真琴が水を向けると、蟹江は言い淀み、渋々と言った調子で口を開いた。
「俺に、上司を監視するように頼んでたんですよ」
「曽根さんは役人といってましたね?」
「去り際見た男たちのひとりで、黒伏という男なんですが、おそらく現場じゃなく検察か、あるいは警察庁の人間です」
 耳目を集める事件とはいえ、捜査現場に行政機関の役人が出てくることはまずない。
「それって、誤認逮捕を隠蔽をしようってことですか?」
「おそらくは。少なくとも曽根が上に盾突こうってことは確かです。この事件は根が深い。悪けりゃ何人かクビが飛ぶ」
「以前にも同じようなことがあったんですか?」
 蟹江はまた口ごもった。それで蟹江と曽根との間に共通の秘密があるのだろうとわかった。
 真琴は話題を変えた。
「監視は引き受けたんですか?」
「断りたかったが、接点のない部署の人間を引っ張って、監視するだけの条件で引き受けました。あいつひとりでは──まあいい。忘れてください。ただこれを続けてたら、あなたもただじゃすまない。手を引くなら今が最後だ」
「本部で何かあったんですか?」
 蟹江はしばらく黙っていたが、投げやりな口調で答えた。
「政治になってる」
「どういう意味ですか?」
「ジャック事件を掘り起こそうとするなら覚悟がいるってことです」
「レンタカーの捜索は、本当のところどうなっているんですか?」
「ええ、それを話すために連絡したんです」
 蟹江はNシステムから取得した多摩川周辺の通行車両について話した。
「部下を使って記録されていたレンタカーは調べがつきました。ただ、そのなかに白の軽バンはなかったんです」
「なかった? そんな──」
 ここで糸が切れたかと落胆した矢先、蟹江が口を開いた。
「それで今度は白の軽バンだけを調べました。そしたら一台、登録情報と違ってる車両がありましたよ。いわゆる天ぷらナンバーってやつです」
「捜査本部には報告したんですか?」
「明日の夕方には」
「もっと猶予をくれませんか?」
「残念ですがレンタカーの捜索は本部の命令です。報告を遅らせれば、それだけ私も部下も立場が危うくなる。それに、私も監視されている可能性が高い。長くは待てません」
「そうか。そうですね」
「わかってください。古賀美月を助けたいのは私も同じです。ジャック事件だってこれでいいとは思っていないが、曽根のやり方は強引すぎる」
「何とかしてみます」
「曽根には私の方から伝えますよ」
 蟹江はナンバーの盗難届が出ている住所を言って電話を切った。

 資材置き場はトタンを組み合わせたあばら屋で畑の隅に立っていた。そこに頭だけを突っ込んで軽トラックが停めてあり、はみ出た後部は雨ざらしになっている。ナンバーはなかった。
 真琴はかじかむ手を擦りながら傘を傾け、あたりを見まわした。 住宅地には違いないが古いアパートやシャッターの閉じた商店が多く、間を畑や藪が埋めていて、長閑というより陰鬱さが勝っていた。都内のショッピングモールまで車なら十分もかからないが、このあたりにはコンビニすらない。雨足が強くなって、人影は見えないのに気配だけがするようで、急に心細くなってきた。
 砂利を踏みしめる足音にはっとして振り返ると、曽根が駆け寄ってきて傘に入った。
「出荷の時にしか使ってないようで、ナンバーがいつ盗られたのかまではわからないそうです」
「軽トラックのナンバーを乗用車がつけてたら目立ちませんか?」
「いや、軽トラックも軽バンも小型貨物車向けの4ナンバーです」
 曽根は手帳を閉じて、独り言のように続けた。
「こりゃレンタカーっていうのもどうかわからなくなってきたな。最初から偽装するつもりだったんでしょう。だから封印がない軽自動車を選んだんじゃないでしょうか」
「封印?」
「ナンバーを止めているネジのことです。乗用車にはキャップがはめられていて外せばそれとわかるんですが、軽はボルトがむき出しなので」
「始める前に用意していたってことですね。やっぱり拉致も殺しも、犯人にとってはなにか意味がある」
「人を切り刻む目的なんてわかりたくもないですけどね」
 曽根はそういって周囲に目を走らせた。
「この辺りにわざわざやってきたんだ。通りすがりの犯行とは思えませんね」
 真琴はスマートフォンで地図を表示して曽根に示した。
「この点は目撃証言や死体遺棄現場で、円は富岡萌の生活圏と犯人の行動範囲です。仮説として、遺体を乗せたまま長距離を移動するのはリスクが高いですから、恐らく監禁場所と殺害現場は同じか、近い場所だと思うんです。この辺りは犯人の行動範囲を示す圏内でもありますし──」
 言葉の意味に気づいて曽根の表情が険しくなった。
「このあたりに?」
 真琴は頷いた。
 曽根は付近の通報記録について調べると言って車に戻った。真琴は大通りに出る方向とは反対に路地の奥に進んだ。舗装されてはいるが道幅は狭くなっていき、側溝の蓋もなくなって水路がむき出しになっていた。
 常に車で移動しているなら、この道を何度か通っているはずだ。両サイドには外階段が錆びついたアパートや間口の小さい長屋が目立った。軒先に泊まっている車両を覗き込みながら進むと、藪を切り開いた空き地に白い軽バンが頭から突っ込んで停車していた。
 一瞬、足を止めたが慌てて取り繕い、運転席が見える位置まで歩き続けた。辺りは雨に霞み始めていた。四人乗りの軽バンで誰も乗っていない。引き返してナンバーを確認し、息をのんだ。
 『わ』ナンバーだ。よく見るとプレートの左右のネジ縁に跡が残り、周囲の塗料が剥げている。レンタカーの社名があればと車体を確認したが、外から見る限り特定できるような情報はなかった。
「神代さん? どこです?」
 雨音に紛れて曽根の声がした。
 慌てて道に飛び出して手招きした。曽根はすぐに察して走ってくるとバンを見て足を緩めた。内ポケットから手帳を出すとナンバーを控えた。
「こいつを見張りましょう」
「本部には?」
 曽根はむっとした表情になった。
「蟹江が言ってたとおりです。この事件はもう政治になってる」
「私たちだけじゃ身元特定できませんよ」
「だから見張るんです。レンタカーのナンバーすら偽装の恐れがある。直接犯人を抑えれば話は早いでしょう。さっきの家主に張り込みの協力を頼んでみます」
 白い軽バンが見える位置に駐車してドライバーが現れるのを待った。時計と車両を交互に睨み、時々車の陰で硬直した身体をほぐした。
 真琴は焦れてきた。
「落ち着いてください。きっときますよ」曽根は車両の周囲から視線を離さずに言った。
「その前に殺されるかもしれない」
「すぐには殺しません」
「でも無事じゃないかも」
「闇雲に動けば足元をすくわれます。ジャックを取り逃すかもしれない。その時は被害者も無事じゃすまんでしょう」
 真琴はペットボトルの水を飲み干して息を吐いた。落ち着きを取り戻して、また車両の周囲を伺った。
「今日がその日じゃないことを祈りましょう」
 雨が上がり、雲間から西日が射した。人通りもなければ路地に入ってくる車両もなかった。途中から監視を曽根に任せて、スマートフォンで近隣の地図やストリートビューを見て建物を調べた。
「それらしい場所があればいいんですが」
「あれだけの手口だ。傷つけられれば暴れるし、呻き声もあげるでしょう。何度もやってるなら血の匂いも凄いだろうし、近所から苦情が出そうなものだが」
「マンションの一室で解体した例もありますよ」
「鉄筋コンクリートのしっかりした家ならありえますが、この辺りには古いアパートか平屋ばかりで、ほとんど木造でしょうし、臭いまで抑えるのは難しいんじゃないですか?」
「通報記録はどうでした?」
「空き巣や不審者の目撃情報ぐらいで、決め手はありません」
 曽根の横顔を見ていて、ふと昨夜のことを思い出した。
「蟹江さんから、昨日の夜に連絡がありましたよね」
「ええ」
 淡白な反応だった。蟹江と何を企んでいるのか話す気はないらしいとわかった。
「黒伏さんって何者ですか?」と水を向けてみた。
 曽根は驚いた表情で振り向いた。
「蟹江さんもよくは知らないようでしたが、曽根さんに監視を頼まれたと」
「余計なことを。どこまで話しました?」
「どこまでっていうと? 曽根さんがまずいところまで踏み込んでいるのを止めたいようでしたけど」
「ジャック事件の詳細を独自に調べているんです」
「何をしていてもいいんですが、優先順位は間違えないでくださいね」
「約束は守りますよ」
 ナンバーを盗られた家主の家でトイレを借りると、お茶と菓子パンを差し入れてくれた。礼を言って雨の上がった通りを車まで戻った。西日が水たまりや水滴に反射して昼間よりも明るいぐらいだった。助手席のドアを開けて差し入れを渡すと、車の屋根越しに周囲を伺った。
「そろそろ時間切れですね。どうせ本部に主導権を取られるなら、暗くなる前にこのあたりを見てみたいんですが」
「見張ってますから、何かあれば連絡をください。犯人と鉢合わせると困るので、あまりきょろきょろしないで、住人を装ってくださいね」
 ストリートビューで目星をつけた家屋を回った。住人と会話できれば近くで変わったことがないかを聞き、次の家屋へ。そうやって日が暮れるころには路地を探索しつくした。
 残りは地図に名前のない空白地域だ。
 ひとつは利用しているのかわからない柵で仕切られた空き地だった。鉄柱などの資材に紛れて事務所らしきプレハブがあったが、かなり小さく、ガラス窓から中を覗いてみると空っぽだった。
 もうひとつは五、六階はある廃墟となったラブホテルで、外壁は焼け爛れたように黒ずんでいて気味が悪かった。窓が少なく、その特性上、一定の機密性は確保しているだろう。有力に思えたが、日が落ちてから入るのは危険すぎる。そう思って踵を返したときだった。
 上階にかすかな光が見えた気がした。侵入防止に張られたチェーンを跨いで近づき、廃墟を見上げた。夜に溶けてよく見えないが窓があるようで、隙間から漏れているのは確かに細い明かりだった。
 視線を下げるとエントランスの自動ドアが破壊されており、代わりに段ボールの壁で幾重にも塞がれていた。その壁のひとつが、外から引きはがされたように入口を作っている。
 曽根に知らせると、すぐに向かうと言った。
「様子を見てきます。ただのホームレスかもしれません。監視を続けてください」
「危険ですから私が行くまで待ってください。こっちは代わりを呼びますから」
「急いでください」
 通話を切り、数メートル先も見えないエントランスの奥に目を凝らした。確証はないのに、すぐにでも踏み込んでいきたい気持ちと、犯人と鉢合わせするかもしれない恐怖がないまぜになって落ち着かなかった。無事でいてほしい。無残に切り裂かれた遺体を思い出してはそのイメージを振り払い、もう一度廃墟を見上げた。明かりの高さからいって三階か四階あたりだ。曽根はすぐに合流できないだろう。監視を離れれば、犯人を取り逃がす恐れもある。
 行くべきだ。だが足は動かなかった。悲劇を再演するつもりかとかつての自分が急き立てた。行け。かつて救えなかった彼女が、いまそこにいるのだ。いまなら間に合う。
 迷いながら入り口を塞ぐ段ボールをはがして道を作り、室内を覗いた。ぽっかりと口を開けた内部は、闇が濃すぎて見通せない。
 かすかに声が聞こえた気がした。
 嫌な汗がにじんだ。心臓を掴むように抑えて、自分に言い聞かせた。無事だ。きっとまだ生きてる。
 真琴は闇の中を睨んだ。
「このバカが、何のために復帰したのよ」
 そして大きく息を吸うと、段ボールを押しのけて室内に踏み込んだ。
 スマートフォンのライトで照らすと、光の中を埃が舞っていた。歩くたびに砂利を踏みしめるような音がした。天井から剥がれ落ちた石膏ボードが散乱していて、絨毯が白く染まっている。真っ白になったイミテーショングリーンの鉢植えが床に転がっていた。
 部屋を選択する案内板に光を投げると、客室は五階までのようだ。
 ホテルなら受付に部屋の鍵があるはずだ。奥に一歩踏み出すと、何かが動いている気配がして立ち止まった。耳を澄ましたが、遠く聞こえる車の走行音や虫の音と混ざってはっきりしなかった。
 気のせいか? そう思ったが、吐く息が震えた。
 目隠しのある受付の窓口から内側に頭を入れると、空気がこもっていて黴臭かった。スマートフォンの明かりを投げて壁際にあったキーボックスを確認した。三0二の鍵だけがない。頭を引っ込めようとして壁に立てかけられたデッキブラシに気づき、手を伸ばした。武器としては心もとないがないよりマシだ。苦心してブラシの柄を掴み、やったと思って引き寄せると、プラスチックのパーティションにぶつかって破裂するような音がした。思わず身をすくめた。反響があたりに吸い込まれていく刹那、また声が聞こえた。
 今度ははっきりと。
 あわてて体勢を直すとブラシを振りかぶって周囲に目を凝らした。心臓が激しく打ち始めた。飛び出してきた犯人を殴るイメージを繰り返したが、アドレナリンのせいで手の震えがとまらない。深く息を吸いたいが、声が漏れそうだった。
 駄目だ。動けない。
 曽根さん早く──
 心の中で呼びかけながら、次に声がしたら場所を特定するつもりで集中した。
 闇の中から力強く踏みしめるような足音がした。反響していて遠いのか近いのかもわからない。また声が聞こえ、うめき声だとわかった。ここから出なくちゃ。そう思ったが金縛りにあったように動けない。足音が大きくなった。悲鳴とも呻きともつかない声がした。
 すぐ近くだ。
 前方の角を曲がって人影が現れた。身動きできず、ただ身を固くした。人影は足を止めたと思うと、ゆっくり振り向いた。
 真琴はわめいて立ち上がり、デッキブラシを振りまわしたが届かなかった。姿勢を崩したところに人影が何かを叫びながら突っ込んできて、そのまま腰にしがみついた。押し倒され、パニックで悲鳴を上げた。相手に組み付いて引きはがそうと力を込めた途端、取り落としたスマートフォンのライトが相手を照らした。
 ぼろぼろの服を着た半裸の女性だった。
 真琴は我に返った。腰から引きはがすと彼女はそのまま丸まって嗚咽した。コートをかけて抱え込んだが、今度はわめきながら暴れ始め、助けてと叫びだした。落ち着かせようとしたが聞く耳を持たない。なだめながら引きずるようにして廃墟を出て、外灯の下まで進むと、叫び声を聞きつけたのか向かいから曽根が走ってくるのが見えた。
 女性は暴れて手に負えなかった。腕力を使い果たし、抑え込むようにその場に倒れ込むと、初めて間近で彼女の顔を見た。
 髪がざんばらに切られているものの、古賀美月に間違いなかった。
「曽根さん! 彼女を!」
 まだ誰かが残されているかもしれない。
 廃墟に戻ろうとすると、古賀美月が足にしがみついてきた。曽根が落ち着かせようとしたが、言葉にならない叫びをあげるばかりで無駄だった。
 古賀美月をふたりがかりで引きはがすと、曽根に託して廃墟に踵を返した。曽根の制止する声がしたが戻るつもりはなかった。
 被害者がいるかもしれない。
 生きているかもしれない。
 曽根を見たことで恐怖は霧散していた。スマートフォンを回収し、その勢いで明かりが灯っていた三階まで階段を駆け上がった。
 息を整えながら廊下を照らした。
「警察です! 誰かいますか!」
 瓦礫を避けながら廊下を進むと、奥から光が漏れていることに気づいた。警戒しながら近づいたところで背後が騒がしくなり、懐中電灯を手にした曽根が階段を駆け上がってきた。後ろに二人の制服警官も見えた。
「無茶しないでください!」
 真琴は明かりの漏れるドアを指した。
 曽根が全員に聞こえる声で「部屋に入るな」と伝え、ドアの前に陣取るとハンカチを使って押し開けた。同時に押し返すような生臭さが廊下に漏れた。曽根が咳き込みながら口元を抑えた。
 室内は照明の加減か全体的にくすんでいて、光源は見えなかった。
「誰も入るな」
 有無を言わさぬ口調だった。曽根と目が合った。その視線に圧倒されて、真琴は小さく頷いた。
 曽根が入っていき、真琴は後を追うようにドアの前に立った。部屋の床には黒い物体が点々と飛び散っている。奥のテーブルに懐中電灯が乗っていて、明かりの届く周囲は絨毯といわず壁といわず、一面がどす黒く覆われていた。それが血だとわかったとき吐き気が込み上げた。ハンカチで口元を抑え、喉の疼きが落ち着くまで待った。
 曽根が部屋の奥に消え、見えなくなった。刺激臭はどんどん強くなり、廊下にいても圧倒されるようだった。
「ひとり来い! ひとりはそこから照らせ!」
 真琴は慌てて道を開けた。警官が部屋に飛び込んでいき、咳き込んでいるのが分かった。真琴と残された警官で部屋の中に明かりを投げていると、しばらくして二人が人影を支えてドアまで引きずってきた。
「そこを開けろ!」
 一瞬マネキンのように見えたが、それが呻くのを聞いて息をのんだ。生身の人間だと信じられなかった。廊下に仰向けで寝かされた人影を警官が照らすと、全員が声を失った。
 片足の太腿が食いさしの手羽のようにえぐられていた。乳房が露になっていて女性だとわかったが、髪は毟られたようにまばらにしか残っていない。頭部だけでは男か女かもわからなかった。
「やったばかりだ」
 曽根が呟いて、廊下の前後に灯りを投げた。女性を照らしていた警官が廊下の端によろけて吐いた。あまりのことに身動きができずにいると、曽根が叫んだ。
「救急はどうした!」
 その声はうわずっていた。吐いた警官が口元を拭い、弾かれたように返事をすると階段を駆け下りていった。
 戸口に近づこうとすると、もうひとりの制服警官が制止した。
「見ないほうがいいですよ」
 室内にスマートフォンのライトを向けた。懐中電灯が倒れて転がり、床に散っているものが血と汚物らしいとわかった。その中にさっきは判別できなかった黒い物体が点々と目についた。手前に落ちているキクラゲのような物体を照らして、よくよく目を凝らした。
 それは縮れた耳だった。
 膝から力が抜け、廊下の壁まで後ずさった。その拍子に持っていたスマートフォンがすぐそばの壁を照らし出し、シミのように見えていた赤黒いしぶきを浮き上がらせた。
 まるで屠殺場だ。
 横たわる女性の口から、か細い声が漏れた。助けを求める声だった。真琴は涙を浮かべながら拳を床に叩きつけた。
 曽根は部屋を振り返って眉をしかめた。
「なんのために、ここまでやるんだ? 人間の仕業とは思えん」
 真琴は放心したまま口走った。
「人間だから、やるんです」
 救急が階段を駆け上がってきて女性に応急処置を施すとタンカに乗せた。一部始終を見ていた真琴は、隊員のやり取りで女性の状態が芳しくないことがわかった。
 遅かったのだ。
 涙が止まらなくなった。何かを呻いて頭を抱えたのは覚えているが、そのまま身体の力が抜けていった。

1:https://note.com/zamza994/n/nef2c2bd0746b
2:https://note.com/zamza994/n/n46a4a426f5cd
3:https://note.com/zamza994/n/n629a9ba47e0c
4:この記事
5:https://note.com/zamza994/n/n51ef7c2d95cc
6:https://note.com/zamza994/n/n7442a1ba8d6b
7:https://note.com/zamza994/n/n2bacc53787bd
8:https://note.com/zamza994/n/n826a7100c002

#創作大賞2023

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