【ミステリ】切り裂きジャックの帰還 6 / 全8話

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 古賀亮太に任意で事情を聴いていると知ったのは翌朝のことだった。真琴は曽根に呼び出されて生活安全課の個室に入った。曽根は対面に座ると強張った表情で口を開き、古賀亮太が重要参考人になった経緯を話した。
「でも、多摩川の事件は古賀亮太には無理ですよね?」
 曽根は申し訳なさそうに頭を掻いた。
「私のときは通信の秘密と言うやつで、全面的に開示してもらうことはできませんでした。出張中だったのは間違いありませんが、本部が直接関係者や会社の情報を洗い直しているようです。今度は正式に提出を依頼してますから、手続きに時間がかかる分、詳しくわかるでしょう」
「辻褄があいませんよ。古賀美月は白の軽バンに乗って現れた男に警戒心を抱いたと話してました。夫だったらすぐに気づくはずですよね。変装していたとしても、妻が殺されたとなれば一番最初に疑われるはず」
「もうひとりいる、という線は?」
「あの手口ですよ? 可能性がゼロとはいいませんが──考えてみてください。殺人鬼に協力する人間がいると思いますか?」
「そうとは知らずに、妻の誘拐だけ手伝ったとか?」
「その共犯者にどんな得がありますかね? それに古賀美月のときだけがアプリではなくてネットの掲示板経由なんです。それも引っかかります」
 曽根は口をへの字に曲げて考え込んだ。
 真琴が続けた。
「古賀亮太がシリアルキラーだとして、妻を殺したくなったというのも、何かちぐはぐな気がします。むしろ妻との生活は隠れ蓑になるはずで、うまく維持しつつ犯行を行おうとするんじゃないでしょうか? 家族が被害者になるケースはありますが、犯人に近いがゆえに最初か最後になることが多い。シリアルキラーには理知的なパターンと衝動的なパターンがあるんですが、ジャックについてはどちらかといえば前者です。でなければ、こんなに長く尻尾を出さずにいられるわけがない」
 古賀亮太が犯人だとしても事件全体に不明瞭な点は多い。頭の中で幾度か反芻しても納得のいく動機や背景は思い浮かばなかった。
「もし古賀亮太が犯人なら、二年前のアリバイも調べる必要がありますね。ジャック事件は手付かずでしょうし」
 曽根は難しい顔をした。
「やるには人手がいりますが、この状況ではね。本部の睨みが聞いてますから。動けたとしてもわたしたちだけじゃ限界がありますよ」
「関係者のスマートフォンはまだ見つかってないんですか?」
「古賀美月のスマートフォンは見つかっていません。木崎佳乃もないんですが、彼女の場合はパソコンのメールに通知を転送していて、履歴をとれてます。古賀亮太のは本部が押さえてますね」
「じゃあ、古賀亮太と木崎佳乃のやり取りがあれば、ニックネームを照らし合わせて──」
 曽根は頷いた。
「ええ、やり取りした時刻から確認が取れるはずです。ただ、これも個人情報が絡んでいますし、取得するには上の許可が必要になります」
 警察は個人や法人の情報を取得するために任意で情報提供を求める捜査関係事項照会を行うこともできるが、企業が個人情報を提出する場合、訴訟を避けるために令状などの正当な手続きを要求することが多い。つまり捜査に警察組織と司法のチェックが入るということで、令状なしでは曽根個人で取れる情報はほとんどないという。古賀亮太の会社情報を満足に取得できなかった一因だろう。
「古賀美月についてはどうですか? 掲示板の書き込みから追えませんか?」
 曽根は手帳を開き、文字を読み上げた。
「それなんですが、彼女のスマートフォンがないもので書き込みが特定できないそうです。古賀美月はサービス名と書き込んだ掲示板しか覚えておらず、記憶を頼りに調べたんですが、時間も経っていますし──これも事業者に確認を取っているようですが、期待薄といったところです」
 掲示板なら公開情報だろうし、投稿が閲覧できなくなっているとしても大抵はサービス側にログが残る。多くは論理削除しているだけだからだ。事業者に照会すればなんとかなるかもしれない。
 曽根が手帳を閉じて続けた。
「数年間もかけて妻以外の女性を次々と手にかけるなんてこと、あるもんですかね?」
 曽根が考え込んだのを見て、真琴は苦笑した。
「それが分かれば事件解決です。理解するのは無理だって、曽根さんがいったんですよ?」
「そうですね。でもやっぱり、考えてしまうので」
「犯罪心理の面から見ても犯行自体が謎だらけです。古賀亮太が異常な性犯罪者だとしても、被害者を生きたまま解体するほど妄執に取り込まれた犯人が、その世界の記念品を簡単に廃棄できると思えません」
「記念品?」
 切り取った部位のことだと言い直して、真琴は続けた。
「髪の毛や乳房は女性性の象徴です。それを傷つけ、時間をかけて切り取っているのに、その後は興味を失ってゴミ同然に投棄している。まるで切ること、苦痛を与えることにしか興味を持っていないみたいに」
「実際、そうなんじゃないですか?」
「だとしたら手間をかけすぎですし、象徴的な部位にこだわる必要がないですよ」
「それで趣向の似ている窃盗や暴行事件を調べたかったんですね」
 真琴は頷いた。
「いずれにしても、共犯者の線がはっきりしなければ古賀亮太が犯人だと主張するには無理がある。聞き取りで何か出てくればいいんですが」
「黒伏がいる。仮に真犯人だったとしてもそこで追及は終わりです。ジャック事件の真相はうやむやになる」
 蟹江から本部の情報を取ったのだろう。こちらの懸念や要望を伝えられないかと提案してみたが、曽根は首を振った。
「すいませんが、いまは打つ手がない」
 曽根は悔しそうに頭を下げた。
 ジャックが古賀亮太であってもなくても、私たちの捜査はここで終わり、曽根の表情はそう告げていた。
 捜査を続けようとすれば、情報を得るために蟹江を巻き込むしかないだろう。いやそれだけでは済まない。下手をすればまとめて懲戒処分だ。そうなればますます打つ手がなくなる。
「捜査本部は二年前と同じことを繰り返すつもりですか」と真琴が言った。
「せめて物証が出て、犯人を追い込んでいる実感だけでも欲しいな」
 曽根の言葉は部外者のような口ぶりに聞こえた。
 真琴は気持ちを切らさないよう気を張っていたが、不安になって思わず口走った。
「古賀亮太がジャックじゃないとしたら、もう次の獲物を探してますよ」
 次の一手を見いだせないまま個室を出ると、正面に蟹江が立っていた。叱られた子供のように沈んだ表情でいる。声をかけようとすると、その背後から別な男が現れた。黒伏だ。にっこり笑って、真琴の逃げ道を塞ぐように近づいてきた。
「ここで何をしているんですか? 警告しましたよね。曽根くんが探している女性は見つかりましたし、もう仕事は終わったでしょう」
 能面のように細い目と張り付いたような笑みが薄気味悪く、有無を言わさぬ迫力があった。気圧されて何も言えずにいると、黒伏が続けた。
「捜査は本部が引き継いでいます。それに、曽根くんは停職中のはずです」
 真琴が驚いて曽根を振り返ると、苦い顔で目を伏せたところだった。
「二人とも服務規程違反ぐらいはご存じでしょう? 神代さん、あなたは訓告です。いいコネをもってますね。大学に戻ってください。曽根くんは命令に従うつもりがないようなので、然るべき対処が必要そうですね」
 真琴は黒伏に向き直った。
「退職強要は違法ですよ」
 黒伏は笑みを浮かべたまま、うんうんと頷いた。
「彼が停職命令を守らなかったというだけで、強要なんてしていませんよ。それに違法かどうかを決めるのは裁判所ですから、気に入らないならどうぞ、裁判をなさってください」
「ジャック事件、もちろん知っていますよね? まったく手口が同じなんです。本部はどう見ていますか?」
 ジャック事件という言葉に、成り行きを見守っていた警官がざわついた。黒伏は初めて、眼の中に怒りを滲ませた。
「我々は公正にやっている。一介の分析官に捜査方針を決める権利はない」
「捜査本部がジャック事件に触れないのはなぜですか?」
 黒伏は真琴を無視して曽根に手のひらを差し出した。曽根は警察手帳に自分の名刺を乗せて手渡した。
「ご苦労様」
 立ち去ろうと歩き出した黒伏に、真琴は食い下がった。
「ジャックを捕まえないと、被害にあった女性が安心して生活できません」
「聞いたんでしょう? 重要参考人を聴取してますよ」
「蟹江さん、古賀亮太が犯人だという証拠があるんですか?」
 蟹江は表情も変えず無言だった。
 黒伏が蟹江を見て「ご苦労様。先に行ってください」と言った。蟹江は一礼すると、振り向きもせず立ち去った。
 黒伏は真琴に振り返って笑顔を作り直した。
「それを調べているんですよ。部外者には関係のない話です」
「また繰り返すつもりですか?」
 黒伏は無視して立ち去った。
 周囲の視線が真琴に注がれているのを感じて、助けを求めるように曽根を振り返った。姿が見えない。見回すと、生活安全課のデスクの上を片付けていた。
 曽根に詰め寄った。
「いつまでなんですか?」
「なにがです?」
「停職ですよ」
「追って指示があるそうです」
 周囲から同情の視線が集まっていた。真琴は構わず話を続けた。
「私が勝手に行動したせいですか?」
「誰のせいでもありません。自分が選んだんですから」
「諦めたわけじゃないですよね?」
 曽根は鞄に私物を詰めて椅子をデスクに押し込んだ。
「諦めたくはないが、実際、これで打つ手がなくなった」
 曽根は警察署を出て、車の後部座席を開くと鞄を投げ込んだ。真琴はドアを押さえた。
「古賀亮太が真犯人だとしても、本部に任せていたらジャック事件が葬られます」
「何とかしたいのはやまやまですが、証拠は全て押さえられてますし、蟹江を通して情報を取るのも危うい。少し考えさせてください」
「いま現在も無実の人間が収監されているんですよ?」
「わかってます」
「富岡萌も、このままじゃ浮かばれません」
「わかってますよ。わたしにも考えがあるんです」
 切り捨てるような口調に、何も言えなくなった。曽根はほっと息をつくと、語気を和らげて続けた。
「まだやることがありますから。少し待ってもらえれば駅まで送ります」
 曽根は警察署のなかに消えた。
 真琴は助手席に座って放心した。
 これで終われない。でも、どうしたらいいのだろう。
 古賀美月の姿がちらついた。ベッドで身をすくめ、肩を震わせている。
 答えはもう出ていた。
 何としてもジャックを捕まえる。絶対に。
 富岡萌の殺害も償わせる。
 でも、どうやって?
 何か手はないかと堂々巡りをしながら曽根が戻るのを待っていると、着信を知らせるバイブレーションに気づいた。見知らぬ番号だ。躊躇しながら電話に出ると、相手は女性だった。
「神代さんですね? 富岡萌の母です」
 驚いて声が出なかった。なんとか挨拶を返すと、どこかで話したいという。
 警察署の前にいることを伝えたが、母親は固辞した。
「警察ではなく、あなたに話があるんです」
 母親はマンション近くにある公園を指定した。三十分後に落ち合うことを約束して電話を切った。

 広い芝生を抜けると噴水が見えてきた。休憩ともなれば会社員が集いそうな気持ちの良い場所だが、昼にはまだ早く、ときおり犬の散歩をする老夫婦が通り過ぎるだけだった。
 真琴と曽根は噴水を臨むベンチに落ち着き、約束の時間を待った。緊張からか何も考えられず、秋の日差しが水面に乱反射して輝くのをただ見ていた。
 噴水越しにロングダウンを着た中年女性が視界に入った。慌てて立ち上がると、女性は足早に近づいてきて会釈をした。
「神代さんですね? 富岡萌の母です」
 居住まいを正して頭を下げた。
「先日は突然お伺いして申し訳ありませんでした」
「それは、もういいんです」
 曽根を紹介して、刑事だが一緒に捜査していると伝えた。母親は何か言いたそうだったが口に出さなかった。その姿を見ていると、罪の意識が鮮明に蘇って、何を言われても仕方がないと思った。彼女にはその資格がある。
 きっかけが掴めず無言で向かい合っていると、母親の中に、物静かだが粟立つような感情の波が感じられた。
「娘を殺された母親が急に現れたら、混乱するでしょうね」
 怒りなのか皮肉なのかわからなかった。あなたたちの捜査がうまくいかずに、娘は殺されたのだといわれた気がした。どう答えれば相手の意に沿うのかという馬鹿げた考えばかりがぐるぐると浮かんで、言葉が出なかった。
 曽根が口を開いた。
「それで、今日は?」
「谷口さんを覚えていますか? おふたりが喫茶店で話をした親子です」
 富岡萌は不良じゃないと答えた女生徒を思い出した。
「萌の事件を再捜査していると聞いたんですが、本当ですか?」
 真琴は許可を得ようと曽根を見た。曽根が頷くのを待って「本当です」と答えた。
「ニュースを見ました。監禁されていた女性たちが保護されましたよね?」
 真琴が頷いた。
「それで、あなたはどう思ってるんですか?」
 頭が真っ白だった。どう言っていいのかわからず、うまく言葉が出なかった。
「被害にあった女性は、犯人は男だったと話しています」
「答えになってないわ」
 母親はぴしゃりといった。
 額に汗が滲み、表情が強張った。
 真琴は腹を括って言い直した。
「萌さんを殺害した犯人は、別にいると思っています。二人を拉致したのも、多摩川で上がった遺体も、手口が二年前と同じなんです」
 母親は言葉を反芻するように何度もうなづいて、ハンカチで目元を抑えた。「ごめんなさい」と言って唇を震わせ、それでも背筋を伸ばしてまっすぐ立っていた。
 真琴が口ごもると、母親は自分を落ち着かせるように長い息を吐いて、潤んだ目を向けた。
「やっぱり、そうなのね」
 母親は確認するように言うと、これまでの経緯を語った。
 ニュースを聞いてネットを検索すると、地上波よりも詳細な内容が把握できた。地上波では報道されなかった遺体の無残さが特に目を引き、状況から言って、娘の事件と無関係と考えるほうが難しかったという。模倣犯なのではないか? 犯人に仲間がいるのではないか? あるいは真犯人が別にいるのではないか? 警察に問い合わせたが、事件は解決済みであるというのが返答だった。
 滔々と語る母親の言葉を、いつのまにか拾い集めるように聞いていた。
 母親は真琴の表情を見て、何事かを了解したようだった。
「まだ、続いているのね?」
 真琴は頷いた。
 母親は手元のカバンからノートを取り出して手渡した。
「当時の報道や警察とのやり取りを記録した日記です。それからこれを」
 ロングダウンのポケットからスマートフォンを取り出した。
「萌の携帯です。警察から帰ってきたまま触っていません」
「残していたんですね」
「萌を殺した男がまだ野放しなら、その男を逮捕するために使って下さい」
 名刺と交換に、ノートとスマートフォンを受け取った。
「必ずお返しします」
 母親は立ち去りかけて、おもむろに振り返り、戻ってきて真琴の腕を掴んだ。あっけにとられて声も出なかった。母親の顔は毅然としていたが、懇願するように言った。
「あなたを信じるわ。これを終わらせて」
 真琴が頷いたのを確認すると、母親は頭を下げて帰った。

 母親の姿が見えなくなるまで見送り、ベンチにへたり込んだ。緊張して力が入っていたのか、どっと疲れが襲った。深呼吸して、ふと握っている富岡萌のスマートフォンに視線を落とすと、曽根が頭を掻いて隣に座った。
「事件に戻ったからには、最後までやれってことのようですね」
「曽根さんも逃げた口なんですか?」
「ジャック事件がきっかけです。報道にもウンザリしましたし。警察のやり口も──」
「それで生安課に?」
 曽根は頷いた。
 本当にそうだろうか? そんなことなら電話口の蟹江の反応とそぐわない。
 凄惨な事件と報道に対する気持ちは理解できるが、異動したり辞めようとまで思う理由としては、取ってつけたようで違和感があった。警察組織との価値観の違いでストレスが積み重なっていたとしても、三十年以上も勤めたあとでは腑に落ちない。
 曽根は難しい顔をして言った。
「一度は逃げたはずが、いまは続きをやってるようなものです。遺体の状態や手口が報道されなかったのも、警察側の意向が記者クラブを通じて報道機関に伝わった結果でしょう。奴らも警察の広報と変わりない」
「以前、折り合いをつけてやってきたって言ってましたけど」
 曽根は頷いた。
「まだ娘が学生ですから、辞めるまでいかなかったのが意気地のないところなんですが。こんなことは長く続けられないと思いまして」
「逃げ足はわたしのほうが早かったですね」
 曽根は笑った。
「お互い、逃げきれなかったということです」
「これで木崎佳乃と古賀亮太のアプリ履歴が手に入れば、富岡萌のものと比較できますね。二年前の事件と繋がる。ジャックのアカウントも特定できるかも」
 曽根は考え込んでいた。
「蟹江さんに協力頼むのは、もう無理でしょうね」
「ほかに当てがあるので、可能性は五分五分ぐらいなんですが、少し時間をください」
「恨んでないんですか? クビにされかけたのに」
「あいつも家族がいます。そう簡単じゃありません」
 真琴は富岡萌のスマートフォンを見つめて言った。
「誰でもいい。意地でも協力してもらわないと」
 曽根はしばらくすると自身のスマートフォンを出して誰かと話し始めた。相手に敬意を払っているところを見ると、目上の人間のようだ。手帳を出して膝の上に置くと、メモを取り始めた。
 真琴は曽根を横目に、受け取ったノートを開いた。
 富岡萌が失踪し、警察に通報した時から、夫婦の考え、言動、警察とのやりとりが罫線に沿ってびっしりと書かれており、鬼気迫るものを感じた。ところどころ思い出しながら書いたのか、単語だけが並んでいる箇所もある。滲んで読みづらい箇所もある。それでも文字を追うごとに胸が詰まった。
 あなたを信じるわ。
 腕にはまだ掴まれた感触が残っていて、自分にのしかかる負債を思い起こさせた。これまで解決できなかった事件の被害者に対しての負債であり、富岡萌に対しての負債を。それはセラピストが時間をかけて引き剥がしていった重荷だったはずで、真琴はそれらを再び背負い込んだ。背負ってもいいとおもった。
 もしかしたら、自分自身をもう少し認めてやってもいいのかもしれない。
 だがその前に、この事件に決着をつける。
 分析官としての人生をかけて。

 11

 曽根は捜査本部に連絡し、黒伏を呼び出した。
 電話口ではあしらうような口調だった。だが富岡萌のスマートフォンがあると伝えると、短い沈黙のあと「時間を作りましょう」と言った。
 賭けだった。失敗すれば今度こそクビだろう。真琴にもそう伝えていた。だが、いつか対峙せざるを得ない。ジャック事件について危険を払って調査してくれた協力者たちに報いるためには、この方法しか思いつかなかった。いくら避けようと、ジャックを逮捕するためには警察組織の協力が必要になる。
 真琴と別れて警察署に戻った。クビを言い渡された個室に入ると、すでに黒伏が座っていた。立ったままの曽根に、間髪入れずに切り出した。
「スマートフォンを見せてください」
「神代分析官が持っています」
「本当なんでしょうね? 履歴は残っているんですか?」
「確かです」
「モノがないのに信じられると思いますか?」
「アプリ履歴は多摩川の事件と二年前の事件を結ぶ切り札です。簡単には渡せません」
「では話になりませんね」
 黒伏が腰を上げようとした矢先、曽根が口を開いた。
「取引をしませんか」
 黒伏は座り直し、しばし考えているようだった。
「メリットがあるんでしょうね?」
「誤認捜査を隠蔽した理由は、わかっているつもりです」
 黒伏の眼が鋭くなり、警戒するような表情になった。曽根は意を決したように近づき、向かいの椅子に座って続けた。
「DNA型データベースの法制化を阻止するためですね?」
 黒伏は表情を変えなかった。
 曽根は反応を見ながら続けた。
「誤認逮捕に繋がったのはDNA型の特定で捜査対象を早々に絞りこんでしまったことです。DNAありきでまともな捜査をしないようでは、データベースを適切に運用できていない前例になる。しかも捜査の落ち度を認めずに隠蔽した」
 黒伏は笑った。
「確証があるんですか?」
「決定的な物証がない。どうしても掴めなかった」
「でしょうね。妄想もそこまで来ると感心しますよ」
「だがそうとしか考えられない。被告人の無罪が確定したら採取したDNA型データを抹消しろって判決が出た矢先です。わたしたちが富岡萌の履歴からジャックを特定すれば、誤認逮捕は確実になる。疑惑がデータベースやその運用にも波及すれば、日弁連も黙ってないでしょう」
 黒伏はあざけるように続けた。
「捜査本部が抑えているスマートフォンなしでジャックを特定できますかね? 富岡萌の履歴だけでできるなら、あなた達がもうやってるんじゃないですか? 追い込まれているのはどっちだと思います?」
「わたしたちでしょうね。どうにもならないなら、その時はありったけの調査資料と一緒に富岡萌のスマートフォンと誤認逮捕の疑惑をマスコミに流すだけです」
「警察で働く同僚たちの面目をつぶす気ですか?」
「生憎、組織の面子なんて守る気はありません」
「物証がなければ捜査は動きませんよ」
「世論が動けばいい」
「言い切れますか?」
「あなたこそ、裁判に何の影響もないと言い切れますか?」
 そこまで言うと黒伏の笑みは消えた。
「どうやら、入れ知恵したものがいるようですね」
「内側にいるあなたなら、隠蔽を証明するような物証を出せるはずだ」
「そんなものが存在するならね」
 曽根はからからに乾いた唇を舐めた。
 黒伏はデスクの上で手を組み合わせると、祈るように額を乗せた。しばらくして顔を上げると、口の端に笑みを浮かべて言った。
「仮に物証を持っているとしましょう。でもそれは、いうなれば私の切り札です。あなたが持つ富岡萌のスマートフォンと同じようにね」
 曽根は黒伏の言葉を飲み込んで、取引の話を切り出した。
「捜査本部が押さえているアプリ履歴をすべて出してください」
「それで、私に何のメリットがあるんですか?」
「わたしが調べた誤認逮捕の調査資料を渡します。ジャックを逮捕できればその手柄も」
「なるほどねえ」
 黒伏は笑みを浮かべたまま顎を撫でた。
「あなたにとって負けのない賭けのはずです。この事件に蓋をしても組織の評価を得られる。逆に私たちの捜査に協力して本当のジャックを捕まえることができれば、真犯人を逮捕した捜査官として名を上げるだけでなく、あなたのさじ加減ひとつで二年前の組織的隠蔽まで、すべての真相を暴くことだってできるでしょう」
「わたしに組織を裏切れということですか?」
「あなたは上に信頼されていますか? 切り捨てられないと言い切れますか?」
「心外ですね。汚れ仕事を請け負うだけの馬鹿に見えますか? わたしを切れば死なば諸共です」
「上がそれを知らないと思いますか? 不審な動きはなかったと?」
 黒伏の表情が消えた。能面の様に動かない。
「DNA型データべースの一件は、あなただけじゃない。上の立場にも関わる大事のはずです」
 動揺するそぶりはなかったが、そのことがひとつの確信に繋がった。
 黒伏は蟹江の監視に気づいている。そして疑っているはずだ。なぜ自分が監視されているのか? 相手は誰か? 疑えば保身のために手を打つはずで、この取引は黒伏にとって切り捨てられた場合の保険になるはずだ。
 黒伏はデスクに両手を突き、ぬっと顔を突き出すと、耳打ちするように呟いた。
「一人残らずクビにしてやる」
 ぞっとして、身を固くした。
「隠蔽事件を調べるのに協力者が必要だったでしょう。ひとりやふたりじゃないはずだ」
「この音声もネタにできる」
 録音しているスマートフォンを見せた。黒伏はそれを目で追うだけで不気味なほど表情を変えず、視線を曽根に戻して静かに続けた。
「あなたに関わった全員の人生と引き換えにする覚悟があるなら、どうぞ」
 黒伏はそう言って、椅子の背もたれに身体を預けた。
 曽根は席を立った。
「私たちは犯人を挙げたい。終わらせたいんだ。もしその気があるなら、今夜中に連絡が欲しい。必要なものは用意しておく」
「分析官殿も同じ意見ですか?」
「関係ない。俺とあなたの取引だ」
 曽根は警察署を出ると車に戻った。ハンドルに突っ伏して深く息を吐き、落ち着きを取り戻してから、監視はもう十分だと蟹江に連絡を入れた。

1:https://note.com/zamza994/n/nef2c2bd0746b
2:https://note.com/zamza994/n/n46a4a426f5cd
3:https://note.com/zamza994/n/n629a9ba47e0c
4:https://note.com/zamza994/n/n6c8b9fdb17a0
5:https://note.com/zamza994/n/n51ef7c2d95cc
6:この記事
7:https://note.com/zamza994/n/n2bacc53787bd
8:https://note.com/zamza994/n/n826a7100c002

#創作大賞2023


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