つまり、そういうことだ 22.5
これは私が日常的に実践して感じていることだ。
瞑想は、意図的に意識を覚醒から眠りの中間の状態に向かわせ、認識に存在からのメッセージを受信させる行為。
それに対し祈りは、ふだん眠っている潜在的な意識(存在)を意図的に覚醒させ、状況、環境を巻き込んで自分の生命を目的に近づくように運行させる行為だ。
瞑想はやがて祈りとして覚醒し、祈りは集中するほどに瞑想へと近づく。
この二つを明確に立て分けることは出来ない。
同じ山を別のルートから登るようなものだ。
一つの行為の違う側面を捉えて別の名前で呼んでいるだけだ。
支配する側のSが、される側のMに感情移入してムチを振るい、服従しているように見えるMがSを使役して痛みを与えさせるように、本質的にどちらがどちらなのかを分類することは出来ないのだ。
ともあれ、私たちは、自分の認識をそのように存在とリンクさせ、管理主導できるようにつくられている。
では、何のためにリンクさせるのか。
それは、「自由」になるためだ。
自由に自分の生命を使うために、私たちは祈ったり瞑想したりする。
(つづく)
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