山泊りょう

・作家、映像作家 ・枚方ィングプロデューサー ・22世紀クリエイター 著書『22世紀…

山泊りょう

・作家、映像作家 ・枚方ィングプロデューサー ・22世紀クリエイター 著書『22世紀紀行 世界は反転する』『奪還父さんブライアン①②』

マガジン

  • つまり、そういうことだ。   「これ」は何なのか?の決着

    幼い頃から抱きつづけていた謎 「何のために生きているのか」 「何のために世界(宇宙)は存在しているのか」 「正しい生き方とは何か」 これらが感覚的に決着した。 一生、とけないと思っていた謎が解けた。 答えは知識的に理解するものではなく、 感覚的に掴むもの。 そこの感覚に「居る」ための案内を遺す 生きているということのチュートリアル。

  • 〈22世紀紀行〉世界は反転する

    22世紀がはじまったことに、あなたはお気付きだろうか。 22世紀とは、2101年以降のことではない。これから確実に来る、「今とは違う価値観の世界」のことだ。 22世紀型ライフスタイルで今日を生きる作家が「22世紀の世界」を見聞して得た知見を記録する反転の断片集。

  • 自分を好きじゃない君へ

    それぞれの自分を好きじゃない理由を深掘りする

  • 〈令和風土記〉 地球のシバき方

    「好きに生きる」とは何か。好きに生きていると嘯きながら、自分を押し殺している人間は登場しない、ほんまに好きなように生きている人間の実態だけを無修正でお届けする22世紀民俗学の最重要資料となる文体。後世に遺したいリアルな令和の実態を綴る。 話数を重ねるごとに価格が上がるので、早めの購入がお得。第一話は全編無料。

  • 〈実録〉奪還父さんブライアン ―片親疎外・子供拉致と戦う話

    帰宅すると家の中がやけにがらんとしている。妻と子供たちの姿が見当たらない。家財道具が無くなっている。 警察に捜索願を出しに行くと「ご家族は無事ですが、あなたには行方を伝えられません」と言われる。家族に手をあげたことなど無いのに、DV夫に仕立て上げられていた。数日後、弁護士から手紙が届く。妻から離婚とカネの請求だ。応じなければ子供とは会わさないという。訳が分からず、絶望感に打ちひしがれる。 このような手段で連れ去られる子供が日本国内に年間16万人。 そのような実子誘拐と戦う父親の実話。

最近の記事

忘れられないことを、思い出せなくなる前に

父がやってくるのは、いつも突然だ。 私は、物別れした恩人と実に十六年ぶりの再会をし、彼の変わりよう(ずいぶん陽気になった)に驚いたばかりだった。 なにせ以前の彼は猜疑と嫉妬、自己顕示欲が強く、人と出会っては物別れを繰り返していたので、再会することに躊躇いもあった。 彼は私より七つほど年嵩だったはずだが、十六年前と同じか、もう少し若いように見えた。 そこは何かの建物の脇にある、非常階段だ。 檻のような鉄柵に囲まれた階段に腰掛けながら、恩人を囲んで数人で暫くあてどもない

    • 人生も長くはない。 そろそろ無謀なチャレンジしよう。 一緒にやりたい人、募集。 来るものは選び、去る者は追わないスタイル。 https://youtu.be/TiSgZpdTctI

      • つまり、そういうことだ㉔

        このように「限定されている」ということは、実にありがたいことである。 何のアイデアも出ないとき、白紙に一本、縦の線を引く。 左側に思いついたことを書いていく。 何も思い浮かばなければ、何も思い浮かばないと書く。 すると「なぜ思い浮かばないのか」という疑問が思い浮かぶので、それを書く。 そうすると、疲れているからかもしれないとか、気がかりなことがあるとか、いろいろ出てくる。 それらもすべて書く。 書いているうちに、思いつきたかったアイデアがパッと浮かぶ。 それを

        • つまり、そういうことだ㉓

          では自由とは、なんだ。 自由とは、拘束されていないことではない。 楽ができることでもない。 時間やお金が余っていることでもない。 だから仕組みをつくることでもない。 ましてや他人を動かしたり操ることなどではない。 ワガママを通すことかと言われれば、部分的には合っている。 ワガママしたほうが良いときにワガママできるなら、それは自由かもしれない。 ワガママしたくないときに、ワガママになってしまうなら、それは不自由以外の何物でもない。 自由とは、自分に必要な縛りを選ぶことであり、自

        忘れられないことを、思い出せなくなる前に

        マガジン

        • つまり、そういうことだ。   「これ」は何なのか?の決着
          24本
        • 〈22世紀紀行〉世界は反転する
          25本
        • 自分を好きじゃない君へ
          5本
          ¥300
        • 〈令和風土記〉 地球のシバき方
          1本
          ¥300
        • 〈実録〉奪還父さんブライアン ―片親疎外・子供拉致と戦う話
          55本
        • 俺映画祭
          5本

        記事

          つまり、そういうことだ 22.5

          これは私が日常的に実践して感じていることだ。 瞑想は、意図的に意識を覚醒から眠りの中間の状態に向かわせ、認識に存在からのメッセージを受信させる行為。 それに対し祈りは、ふだん眠っている潜在的な意識(存在)を意図的に覚醒させ、状況、環境を巻き込んで自分の生命を目的に近づくように運行させる行為だ。 瞑想はやがて祈りとして覚醒し、祈りは集中するほどに瞑想へと近づく。 この二つを明確に立て分けることは出来ない。 同じ山を別のルートから登るようなものだ。 一つの行為の違う側

          つまり、そういうことだ 22.5

          つまり、そういうことだ㉒

          ここまで書いてきたことは、ほぼ一言(〓ひとこと)に集約される。 「おまえは、存在の玩具(〓おもちゃ)である」ということだ。 そして本来の「おまえ」とは、玩具ではなく、存在なのだということを伝えるために語ってきた。 しかし認識は玩具の身に収まっている。存在は、認識を通さなければ遊戯を楽しめない。 だからどうしても玩具の立場からしか物事を見ることができない。玩具は遊ばれているときのみに存在し、遊ばれていないときは放置されている。 放置状態のときは、パターン化された反応を繰り返し、

          つまり、そういうことだ㉒

          つまり、そういうことだ 21.5

          少し前の世代までは、自分のキャラクターに飽きるなどということは許されなかった。 最後まで「分相応」に役割を果たすことが美徳とされていたからだ。 キャラを変えるためには、環境をゼロからリセットしなければならなかった。高校デビュー、大学デビュー、社会人デビュー、ネットデビュー等、過去の自分を知らない人たちの中でしかキャラ変が難しかった。要するに「前からそういう奴」でなければ調子こけなかったのである。 しかし今日(〓こんにち)ではコミュニケーションテクノロジー(伝える言語)の

          つまり、そういうことだ 21.5

          つまり、そういうことだ㉑

          存在は「認識の外」に、その大部分がある。 認識は、存在の一部を表現している「デバイス」に過ぎない。 認識とは、おまえのことだ。存在とは、もっとおまえのことだ。 おまえは、認識というデバイスの画面に映る動画やポップアップ通知を自分そのものだと信じているが、それはおまえじゃない。 デバイスを見つめている存在こそがおまえなのだが、画面の情報に没入しすぎて、認識を自分そのものだと思い込んでいる。 それこそが、存在の遊戯の醍醐味なのだが。 おまえは、本当は何にでもなられる。 「なりた

          つまり、そういうことだ㉑

          世界はルールを変えた

          先ほど世界は、ルールを変えた。 今朝のことだ。 なくなったんだよ、カード類が一式ごっそり全部。 まあ失せものには慣れっこだ。昨晩、カード類一式をテーブルの上に出して見ていたのは憶えているが、そこから何処に仕舞ったのか分からない。 そのへんにあるだろう、と探しはじめたが見つからない。財布の中身もカバンの中身をすべて出した。 上着のポケットを探っていて「おっと、昨日着ていた服はこいつじゃない」と気づく。 昨日着ていたオーバーコートとズボンを引っ張り出してきてポッケをすべて裏返し

          世界はルールを変えた

          つまり、そういうことだ⑳

          こんなことは、宗教や哲学の世界、ちょっと気の利いた自己啓発セミナーでは、ずっと前から教えてくれている。 問題はこんな大切なことを、ちゃんと根っこから分かるように現代の言葉で「一般化」させて教えてくれる人は、ほとんどいないこと。そこまでは面倒を看てもらえない。 教える側に面倒を看る実力、教わる側に分かる実力(そもそも興味を持つ感性)が無いのだ。 「実力」とは、残酷なほど現実的な言葉だ。 実の力。実際の影響力。そして実際的に受けとめて活かす力。 実力とは、相互の関係に宿るものだ

          つまり、そういうことだ⑳

          つまり、そういうことだ⑲

          精神的な、というよりも存在的な価値観の土台をつくる「教育」が無いことに、わりと子供の頃から愕然としていた。 存在について、分かるように教えてくれる人は(少なくとも自分のまわりには)いなかった。 散々考え、調べ、実験を繰り返しては思索した挙げ句、「これはもう死ぬまで分からない」と諦めていた。 それがこの年齢(四五歳)になって、ようやく感覚としてつかめてきた。 体験を通じて少しずつかき集めたヒントが、おまえとの対話によって言葉になってきたんだ。 ようやく少しずつ、自分が知りたかっ

          つまり、そういうことだ⑲

          つまり、そういうことだ⑱

          人生における「最初の気付き」を私は憶えている。 これは「最初の記憶」より後である。 記憶というものを意識しはじめて、どれくらいが経過した頃かは分からない。 ある日、ショックを受けた。 自分が存在していることに気付いた瞬間だ。 「あっ、しまった」と思った。 どうしよう、自分がどこから来たのか分からない。気付いたら、生まれていた。ちゃんと憶えておこうと思っていたはずなのに。 気付いたときには、両親と一緒に食卓を囲んでいたのだ。 「僕、いつからここにおったん?」 母は笑顔で答える。

          つまり、そういうことだ⑱

          つまり、そういうことだ⑰

          すべては、視えている。聴こえている。触れているし、体内に取り込んですらいる。 逆に言えば、すべてが視られ、聴かれ、触れられ、そして溶け出し混ぜ合わさっているということだ。いま、この瞬間も。 認識できないだけで、光は反射し、空気は振動している。おまえは生成と崩壊を同時に行っている。物事は影響しあい、あまねく生命はピンボールのようにぶつかり、跳ね返しあっている。 その営みは、あまりに微細であるがゆえ、あるいはあまりに莫大であるがゆえに、そして疾すぎるゆえ、永(〓なが)すぎる

          つまり、そういうことだ⑰

          つまり、そういうことだ⑯

          このリンゴを使って、また別の角度から、おまえと存在について考えてみよう。 リンゴを上から下に落とす。 上から下に落ちたリンゴが、おまえには見える。 では、光がいっさい届かない真っ暗闇でリンゴを落としたらどうなるか。 上から下に落ちる音をおまえは聴く。 では、さらに音がいっさい響かない、空気が振動しない真空状態で落とせばどうなるか。 上から下に落ちたわずかな振動をおまえは感じる。 では、上からへの下への距離を長く、長く、気の遠くなるほど長くしたらどうなるか。 リ

          つまり、そういうことだ⑯

          つまり、そういうことだ⑮

          存在の遊戯において、ラスボスはおまえ自身だ。 おまえが大切に、大切に磨き、鍛え、守ってきた「おまえ」。 そのおまえを「ちゃんと使えるか」が、存在の遊戯のクライマックスだ。 自分自身の「全使用」。「フル搾り出し」。「マックス捧げ切り」。 これが存在の遊戯における、クライマックスシーンである。 これこそが、大歓喜だ。 おまえがどんな生き方をしても、最終的に「おまえの軌跡」は、天網恢々疎にして洩らさず、この世界に影響を与えつづける。 しかし、その影響がどのようなものかは、おまえが

          つまり、そういうことだ⑮

          つまり、そういうことだ⑭

          では「もっとも、おまえを味わい尽くせる生き方」とは何だろう。 先述した、大歓喜というやつだ。 大歓喜とは「おまえ以外の人の歓喜を喚び起こすこと」と言った。 何故か。 存在が、「おまえ一人」という感覚器官から味わえる歓喜は、たかがしれているからだ。 おまえは、おまえの枠を超えて、おまえよりも大きなものを体感するときに、もっとも歓喜するようにつくられている。 言い換えれば、おまえは自分個人の都合より大きな目的のために、自分の都合を捨てて、自分を使用するとき、もっとも歓喜するように

          つまり、そういうことだ⑭