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忘れられないことを、思い出せなくなる前に

父がやってくるのは、いつも突然だ。


私は、物別れした恩人と実に十六年ぶりの再会をし、彼の変わりよう(ずいぶん陽気になった)に驚いたばかりだった。

なにせ以前の彼は猜疑と嫉妬、自己顕示欲が強く、人と出会っては物別れを繰り返していたので、再会することに躊躇いもあった。

彼は私より七つほど年嵩だったはずだが、十六年前と同じか、もう少し若いように見えた。


そこは何かの建物の脇にある、非常階段だ。

檻のような鉄柵に囲まれた階段に腰掛けながら、恩人を囲んで数人で暫くあてどもない思い出話をした。


あの古びたキャリーバッグをどこでもらったとか、あの頃はいろいろな家を転々と泊まり歩いていただとか、あんたに一番親しい後輩がもっともあんたを悪く言っていたとか、そんなことだ。


「清水さんの家は広すぎて、いまだに発見されていない部屋がある」という話をしたとき、いや、あるいは思い浮かべただけかもしれない。

暖色の部屋、テレビの光、そこを通って別の空間に出た。


一階のロビーに父がいた。

父がやってくるのは、いつも突然だ

会ってから、これまで幾度か(たぶん二度ほど)父が私に会いに来たことを思い出した。


何を話すでもなく、ロビーの二つの出入口を行ったり来たりした。

あれは(少し造りが違っていたが)たぶん父が入院していた、そして息を引き取った、実家の眼の前にある病院だ。


父に「どうやって、こっちに来ているのか」尋ねた。

父は何も言わずにスマートフォンを取り出した。

医者らしき人物に電話をし、その人の何かを介在して現世に来ている父の姿が思い浮かび、私は理解した。

「やってみせてや」

少し困ったような顔をしながら父は、病院玄関の脇にあるテレビにスマートフォンの画面を投影した。

電話帳には知らない人の名前が並んでいる。


それを見たときに、思いついた。

「なんで、おかんに会いに行けへんねん」

ずっと聴きたかった(言いたかった)ことだったような気がした。

困惑する父を実家の前に連れて行った。

インターフォンを押さず、数軒となりの家の前まで歩いていく父。

「何してんねん」

彼は所在なげに、うつむき気味で突っ立っている。
合わせる顔がないという佇まいだ。


私は実家の前に戻った。

すぐ隣の家が、すごく小さい。善良な夫婦が住んでいる家屋、白塗りの壁から蛍光灯の明かりが漏れていた。

こんなに小さかったっけ。ああ、ご夫婦二人だけで、お子さんもいないからコンパクトなサイズなのか。
二人だけなら必要なのはあの大きさなのかもな、と考えつつ通り過ぎた。


門扉。実家のインターフォンを押すと、おかんが階段の上にある玄関から顔を出した。

その姿は40代頃。小学生の私が一緒にいる。

「おかん、ちょっと来て」

「なにや」

「ええから来てって」

おかんは子供の私と一緒に階段を降り、門扉まで来た。

子供の私がおかんを心配しているのが分かった。


階段の上、開きっぱなしの玄関に目をやると、若い頃の父が心配そうにこちらを見ていたが、私と目を合わせると、ふいと応接間に姿を消した。


おかんが階段を降りてくる間に、父がいなくなったんじゃないかと心配になり、父の方を振り返った。

父は、そこにいた。ただ暗い影が、いや闇が父に降りている。顔がよく見えない。


おかんに、あの人のところへ行くように示唆した。
おかんには、それが誰なのか分からない。

用心深いおかんは訝しがり、ゆっくり歩いて行った。

やがて目の前まで行くと、その人物が父であることに気付いた。

「ひろちゃん」

そう言いながら、父に抱きつく母。

「何故」とか「本当に」とか、そんな疑問は吹き飛び、ただただ抱きしめていた。
母が父を「ひろちゃん」と呼ぶのを聴いたのは初めてだ。


私はおかんが右手に持っていたセカンドバッグを預かり、小学生の私を抱き上げた。

「二人にしてやれ」

べそをかく子供の私にそう言ったところで、目が覚めた。


まだ眠気は残っていたが、あの場所へは戻れそうになかった。

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