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つまり、そういうことだ㉑

存在は「認識の外」に、その大部分がある。
認識は、存在の一部を表現している「デバイス」に過ぎない。
認識とは、おまえのことだ。存在とは、もっとおまえのことだ。
おまえは、認識というデバイスの画面に映る動画やポップアップ通知を自分そのものだと信じているが、それはおまえじゃない。
デバイスを見つめている存在こそがおまえなのだが、画面の情報に没入しすぎて、認識を自分そのものだと思い込んでいる。
それこそが、存在の遊戯の醍醐味なのだが。

おまえは、本当は何にでもなられる。
「なりたい自分になる」というコピーがある。
本当は、いまおまえがやっている、その自分こそが、それなのだ。
だから「なりたい自分を、やっている」というのが本当のところだ。
「あんな風になりたいな」と思う自分。その認識こそ、存在が選んだゲームの主人公なのだ。

認識はコスプレだ。
存在がやってみたいキャラクターを纏って同好の士と戯れる、コスチューム・プレイなのだ。
「人生がつまらない」という人は、「コスプレに飽きた」と言っているに過ぎない。
もっと言えば「纏うキャラクターに飽きた」ということだ。
だったらどうするのか。NPCとして「飽きた」という感情を味わいつづけ、同じようなボヤキを繰り返しながら人生を閉じていくのも、ひとつの「楽しみ方」だ。
認識レベルのおまえは楽しく感じないかもしれないが、存在レベルのおまえはクスクス笑っている。遊戯だからな。
同時に「キャラ変」してみるという楽しみ方もある。
キャラクター、つまり人格を変更するのだ。人格は自分で選べる。

「異世界転生モノ」の漫画や小説は年々、増え続けている。
何かのきっかけで、平穏な日常からファンタジーの世界へ転送される。
人生の舞台が、見飽きた住宅街やオフィスから、スリルとロマンスに彩られた冒険活劇に変わる。
なんの取り柄もなく、うだつが上がらなかった人間が、そこでは救世主として活躍する。
こういった設定に夢中になる人が増えている。
纏っているキャラクターに飽きる人が多いのだろう。
実はキャラクター変更は自由にできる。
自分が「そういう人物」として振る舞えば良いだけだ。

邪魔するのは、認識である。
「そんなキャラじゃねーだろ」
「痛い。気持ち悪い。勘違いするな」
「それ、カッコいいと思ってるの?」
誰かが言う前に、認識がキャラ変を阻止しようとする。
「だって、絶対に言われるもん」と考えるかもしれない。
それが何だというのだろう。誰かにこのようなことを言われてキャラ変を断念するのも、自分で想って諦めるのも、同じことである。
なぜなら、それは単なる「きっかけ」だから。きっかけが自分だろうが、他人だろうが、諦めたのは、決断を下したのは、ほかならぬ自分自身なのである。

(つづく)

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