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つまり、そういうことだ⑯

このリンゴを使って、また別の角度から、おまえと存在について考えてみよう。


リンゴを上から下に落とす。

上から下に落ちたリンゴが、おまえには見える。

では、光がいっさい届かない真っ暗闇でリンゴを落としたらどうなるか。

上から下に落ちる音をおまえは聴く。

では、さらに音がいっさい響かない、空気が振動しない真空状態で落とせばどうなるか。

上から下に落ちたわずかな振動をおまえは感じる。

では、上からへの下への距離を長く、長く、気の遠くなるほど長くしたらどうなるか。

リンゴはまだ落ちない。

おまえはリンゴが落ちていくことを認知できない。

落下するリンゴは、果てしない自由落下の中、自分が落下していることも忘れてしまう。


存在とは、この落下するリンゴを観測している視点であり、落下するリンゴが移動するスペースであり、落下するリンゴそのものだ。

おまえの精神や考えとは、落下しているリンゴのようなものだ。

おまえの生存とは、このリンゴの表面を這い回って一喜一憂している青虫みたいなものだ。
おまえは、今生存しているが、生存は、おまえ自身ではない。

おまえの人生とは、落下するリンゴが上から下に落ちる時間に当たりをつけて、リンゴが落ちるまでのうたかたに耽る夢想でしかない。

宇宙全体が壮大な落下物ではない(あるいは、ある)と証明することは、(現時点では)誰にも出来ないのだ。


実を言えば、私はこんなことばかりを夢想している幼児だった。

幼い頃から、母の三面鏡台の合せ鏡の奥、無限に続く鏡の中の鏡の中の奥底を突き止めようしとしていた。

世界のフラクタル構造に思いを馳せ、自分が棲んでいる世界が莫大なシステム、例えばとてつもなく大きな生き物の細胞と細胞の間を蠢く細菌のようなものの一部だと信じて疑わなかった。

また自分の細胞や、サッシに溜まったホコリ、何気なく呼吸する空気中にも、ミクロの宇宙があり、その中でも悲喜こもごものドラマが展開されていると、何故か確信していた。


それは、今も変わらない。

(つづく)

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