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つまり、そういうことだ⑤

おまえは名前や立場やステータスではない。
感情でもなく、プロセスですらない。
ましてや結果や、それに基づく信念などではない。

考えてみれば簡単なことだ。
名前や立場やステータスがなくなっても、おまえという存在は消えない。
おまえが脳死して植物人間になっても、パーキンソン病で身体が動かなくなって何の表現も出来なくなっても、肉体そのものが灰になって滅びても、おまえという存在は、そこに在りつづけている。
目に見えなくても、触れなくても、存在している。
信念なんてものを自覚する前から、おまえはそこにいた。

おまえが、おまえに気付く前から、おまえは存在はしていたんだ。
おまえの肉体や精神が形成される前から、おまえは存在していて、
おまえの功績や罪業が消滅しても、忘れられても、おまえは存在している。

おまえの立場も家族や仲間も財産もプライドも技術も歴史も哲学も脳も精神も、おまえそのものではない。
それらはおまえという存在の、ひとつの顕われに過ぎない。
おまえの身体にあるホクロのひとつみたいなもんだ。

おまえのホクロは、おまえじゃない。

じゃあ、お前とは何だ。
存在とは、何なんだ。
何のために存在しはじめ、何を為して完結するんだ。

始めも終わりもなく、何がなくても、それそのもので満ち足りている。
おまえの存在とは、そういうものだとしよう。
満ち足りているという状態に、ひとつ足りないものがある。
それは、足りないものが足りないということ。
不足が不足している。不満のないことが不満になる。
だからおまえは存在から仮の姿として、たくさんの不便を身につけ、満足を手放して、始まりと終わりの概念がある姿で、そこにいる。

おまえに足りないもの、おまえが出来ないこと、思い通りにならない、ほしくて仕方ないアレやコレ。
そんなふうに感じるそれらはすべて、存在としてのおまえに足りなかったものだ。
足りないものが足りなかったから、欲しがれる対象が欲しかったから、望みのとおりに、それが欠落した状態で、そこにいる。

足りていない状態で、はじめておまえは、本当に満ち足りた存在になっている。
彫刻のように、ドーナツのように、欠けた月のように。
足りていない姿にこそ、存在が臨場している。

(つづく)

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