長文注意、想いの吐露。

今日は、僕が詩を書くことについて綴ってみようと思います。

僕は、20年くらい前に書いた一編の詩…と呼べるものなのかどうかの作品を始めに、詩の世界・言葉の世界にはまってゆきました。
その時に書いた内容は、だいたいこんな感じだったと思います。


流れる雲が早い
君の方向へ向かってゆく
あの雲に乗って
君の元へ行けたなら…

君に会うまでは
この綺麗な空さえも
曇って見えるだろうね…

会いたい。
少しだけでも、
君の側にいたいよ。


こんな感じの内容だったと思います。
詩といえば詩のような気もしますし、否といえば否なのでしょう。
ただ、その時に書いたその詩を未だ超えることができていないような気がしてならないのです。

数多の詩人が綴る言葉や想いは、美しく整い気持ちの微妙な表現が見事で、それはさすがの職人技だな…と思うことが、多々あります。
かたや僕は、簡単な言葉で綴られ紡がれた言葉の断片。美しく仕上がっているかといえばそうでもないし、ボキャブラリのない僕には難解で繊細な表現をする能力はないのです。それは単に努力が足りないからだろう…と、多くの人々は一蹴するでしょう。ただ、いくつかそこに言い訳をさせてください…。言い訳と自認していながら、どうか悪あがきをさせてください。

まず、僕は覚えるということがだんだん、苦手になりつつあるのです…
新しい言葉や表現を見つけて、取り入れようとしてみてもそれを覚えていられない。何なら、メモ機能に残しておいても、残しておいたことすらを忘れてしまう。いつか見返した時にもそれがどういう意図で残された言葉なのかを記憶から引き出せず、削除してしまうこともしばしば。さらに言えば、それまで記憶していた言葉や表現すらも記憶から抜け落ちてゆく。

幸いなことに、忘却の彼方に置き去りにされてゆく言葉は難解な言葉ばかりで、日常生活に必要な言葉や表現はとりあえず残っていて、いまのところ支障はないのです。が、それまで覚えていた微妙な心理描写や雅な言葉がだんだん使えなくなっている悔しさは、多分にあります。以前に『書けなくなる』と書いた日記のなかの、一つの理由はこれでもあるのです。


そして、次の言い訳をいたします。

僕は、書き始めて数年の間は『難解な言葉を使って独自の表現をしよう』と考えていた部分もありました。それは詩を書く時だけではなく、その時に携わっていた仕事や生活においてもその傾向があり、普段使いの言葉さえ難解で読解に知識やひねりがないと分からないような表現だったと、思い返せば自信過剰で独りよがりな表現だったと思います。そしてそれを『詩を書く人間だから』や『僕は言葉を数多使いこなす人間だから』という盾をもって押し通し、分かる人にだけ分かれば良いと、ついてこられない人間は置いてゆけと、そんな書き方を続けていました。

そしてある時、仕事にて言われたことがあったのです。僕はずっと接客業をしてきていたのですが、上司からのお叱りの言葉でした。

『君の表現は、専門用語があまりに多く伝わらない。お客様から、〔あの人に話をしてもらったけどいまいち分からないから、もう一度説明をしてほしい〕と言われたよ。専門用語を使えば確かにプロっぽく見えるだろうし、それを頼り甲斐と考える人もいるだろう。でもね、伝えようとして伝わらないのでは、何の意味もないんだよ。』

その言葉で、僕は自分が接客業として自分を確立していたように思っていたのが単なる自己満足と高慢ちきなプライドで、お客様を置き去りにしたまま話したいことだけ話していた接客だったことに気付かされ、また、日常においての僕の表現もまた同様で、僕が『話しても伝わらない』と嘆いていたのはそこに原因があったことに気付かされ、愕然としたのでした。

それからは、なるべく専門用語や難解表現を使わないようにして、分かりやすく伝わりやすく、それを心がけて言葉を選び、また身近な事柄に類似した事例を例え話に用いたり…
そうしているうちに、それまで僕を敬遠していたお客様は僕との距離を近くしてくれて、自然に話し自然に会話をすることができるようになり…僕を、頼ってくれる方もだんだん増えてゆきました。

難解表現だけが、頼られたりステータスではない。人との距離を近く、また心に寄り添えるようにするのもまた言葉の力で可能なのだと、それを知ってからは難解表現をする必要はなくなり、自然と日常からも消えてゆきました。

長文には至りますが、もう一つ…最後の言い訳をさせてください。

僕は、詩を書く時に『受けを目指して書いている訳ではない』のです。では何かといえば、『心情や心境の吐き出し』なのです。
鬱蒼とした心の中を、叫びたい言葉を、身の中に押し込めてばかりでは自分が崩壊してしまう。ガス抜きという訳ではないですが、例え誰かが見ていようといまいと、それはさして重要なことではなく、僕の心の安定を目的として言葉を綴る。もし誰かが僕の詩を見て、心の力や栄養となり、その人を支えることができていたなら、それは幸せなことには間違いないのですが、僕にはそのようなことはあまりに烏滸がましくて、それを目的にするなどということはできないのです。例えば不特定の誰か大多数に捧げるような内容の詩があったとして、それは『みんな頑張れ‼︎』な詩ではないのです。けっこう、それは弱気な自分に向けたもの。自分の心が壊れそうで、でも誰かに『助けて』なんて言えなくて、自分で自分を鼓舞している。あとで見返した時に、それを見返す少し未来の自分に向けて、エールを送っているのです。

話が逸れました、ごめんなさい。

詩は、いろんな形があり特定の形という縛りがあまりないもの。そう、僕は思っています。だから、僕はいろんな方に『詩を書いて、声にできない叫びを吐露してほしい』と考えています。ただ、最初の方でも少し話しましたが、詩を専門職としてして書いている方のその作品は素晴らしく、繊細で優美で、独特の雰囲気を持つ特別なもの。例えばもし僕が詩を書こうとそのような専門職の方々の作品を先に読んでいたなら、僕はきっと詩を書くことを諦めていたでしょう。その完成された見事な作品を目の当たりにして、敷居が高いと自信喪失していたことでしょう。

僕の作品は、誤字脱字もあれば誤表現もあり、難しい繊細な表現も優美な言葉もほとんどない。それは、誰かが僕の作品を見た時に、僕がそれを『詩だ』とのたまうことで、『あ、詩ってこんなもんでいいんだ』と、敷居を高く感じずに詩の世界に飛び込み、思いのままに心境を吐露し叫んでほしいから。
もちろん、だからといって詩を書くことに手抜きをしたり努力を怠っているわけではありませんので、それはお伝えしておきます。

僕は、美術品を産み出したくて詩を書いている訳ではありませんし、また、誰かが書いた詩に『そんなの詩じゃねぇ‼︎』ってことを言うこともありません。その人のその表現を否定することは、その人を否定すること。人はそれぞれ違って然り、理解ができるかできないかは、その人その人の育ってきた環境や状況の違いがあるから異なって当然だと思うのです。

自分の思いを自分なりに吐き出すのに、わざわざ重箱にきちきちに詰めて、風呂敷包みにして出す必要はありません。

ようはね、何でもありなんすよ。
カレーに最初にチョコレート入れた人は、それを他の人が見たら『は?何やってんの?』ってなるでしょう。でも、やってみたら美味しかった。それで良いじゃないですか。

結局のところ、自分の形にこだわって重箱を
拵えているのは、自分なんですけどね。いつしか、書いているうちにそうなってしまいました。こうあるべき、こうじゃなきゃ自分じゃない。それを意識外に放り投げられた時、僕は新しい世界に行けるのでしょうか。


なんだか、まとまりのない文になりました…申し訳ありません…。
えっとね、最後にいいたいのは一つだけ。

いつも、読んでくれたりスキしてくれたり…
そんな方々のリアクションを身に受けることができて、僕は非常に嬉しく幸いです…‼︎
そしてそれは、明日に繋ぐチカラになっています…いつも、本当にありがとうございます…‼︎

僕は、コミュ障な部分もあります…
なかなか、うまく話せない部分もあります…
いつもごめんね、そしてありがとう。

頑張って、書いて、生きて、繋ぎます‼︎

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