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曹流寺プチ摂心(2023/11/3~11/5)の感想



プチ摂心に参加する背景

  
 今回、およそ1年ぶりに曹流寺さんのプチ摂心に参禅しました。このプチ摂心に参禅することも迷っていたのですが(今思えば、これは本当に愚かで傲慢なことであり、反省するばかりなのですが・・・)、仏教のアレ編集部(@honnebose)遊心さんのnoteを読んだことで頭を叩かれた気分となり、慌てて申し込みしました。今回、摂心前日にも読み直したのですが、いい文章というのは読むたびに新たな発見の種がありますし、染みこんでくるものです。これが今回の摂心にいい影響を与えたに違いない、という謎の霊感があります。

 スケジュールは下のとおり(天地一杯のひろさん@i_am_bompより画像を拝借させていただきました)で、実質摂心と呼べる日は中日の1日だけだったのですが(だからこそ参禅を躊躇っていた)、個人的にとても満足できる体験でした。正直、参禅前には3日(実質1日)でここまで満足できる摂心になるとは思っていなかったので、大変驚いています。というわけで、何が今回の私の坐禅をこれほど満足させる要因となったのか、個人的な感想にはなりますが、簡単にまとめてみました。読者の方に少しでも参考になる何かがあれば幸いです。


※天地一杯のひろさん@i_am_bomp より借用


前置き


 予め断っておくと、このnoteで私の坐禅の中身を語ることはしません。というのも、私自身があまり坐禅のシェアリング(感想を共有すること)が得意な人間ではないからです。これに関して先月、曹流寺さんの初心者坐禅会に参加した際も、感想を振られた際に全く言葉が出てきませんでした。そこで慌てて当たり障りのない感想を言ったところ、遊民和尚にあっさり見破られ「手堅いこと言うね~」と言われてしまいました。理由はよくわかりませんが、坐禅後は頭が余り働かない時が多く、単純に内容を思い出せないこともしばしば・・・笑。ちなみに少し補足すると、初心者坐禅会において、どのような感想を言っても、遊民和尚がその感想を否定することはありません。その気配りの凄さはこちらに書いた通りです。私の場合は、何度か坐禅会に通っており、ありがたいことに遊民和尚が友人(?)のようにフランクに接してくださるので、このようなやり取りが生じただけでしょう。

  
 また、摂心中の坐禅の変化については、2023年G.Wに曹流寺さんの摂心に参加されていた、のなめさんのnoteが大変すばらしくまとめられております。11月中頃に2024年の年初めの摂心の告知がされるみたいなので、参禅を検討されている方は、のなめさんのnoteを読むことを強くお勧めします

※曹洞宗の伝統からすれば、「坐禅の中身のシェアリングなど言語道断!」と言われるかもしれませんが、初めて坐禅する人にとっては不安も多いと思います(私もそうだった)し、摂心経験者の素晴らしい坐禅記録は坐禅前の不安を軽減するのにとても有益なものだと思います。これは私の個人的な意見ですが、坐禅に対する恐怖心は坐禅の質にかなり影響を与える気がします。瞑想の文脈で言えば、その恐怖自体を観照することはあると思いますが、やはり始めはできる限り不安のない状態で坐禅をした方がいいでしょう。また、恐怖心が余りに強すぎる(例:身体の不安)と、そもそも坐禅にならない気もします。もちろん、これは素人の私の個人的な意見に過ぎないのですが。


 

1.プチ摂心の良かった点(私にとって)


 そんなわけで、今回のプチ摂心を振り返ってみると、(私にとって)何がよかったのかと言えば、まず思い浮かぶのは食事作法です。私が今まで参加した曹流寺さんの摂心では、食事作法における決まりはなく、食事場所も本堂(坐禅をする場所)ではなく茶の間となっておりました。しかし今回は、坐禅後すぐに本堂での食時に加え、器の受け取り方、箸の置き方、食事の仕方まで細かく決められており、これがとてもよかったです(曹洞宗でも特に安泰寺さんに近い食事作法だったようですが、正確には少し異なるみたいでした)。
 これはマハーシで行われるラベリングに似た効果があるように感じました。マハーシのラベリングだと、食事中に「食べている、食べている」と唱えなます。これは、意識が食事以外に向かないようにするためです。今回の細かい作法にも、これと同じような意図が込められているように感じました(違っていたらごめんなさい)。
 このように今回の摂心では、食事作法を徹底したおかげで、私の意識が食事中に食べていること以外に飛ぶことはありませんでした。いつも食事中は思考がさまようことが多かった私(例:食事のおいしさにふける)にとってこれは衝撃的なことです。僧堂では、こうした作法について日常レベルで突き詰められている(例:ドアの開け方から手の洗い方まで細かく決まっている)ので、そこまで徹底した生活の中で修行をすればその効果は測り知れないな、というのが率直な感想です。このような僧堂の生活について、その長所・短所をあけすけに語られているライブ放送(とても長いですが)も、出家を考えておられる方(ほとんどいないとは思いますが)には大いに参考になると思います。



 
 このような作法だけでなく、今回はネルケ老師(@MuhoNoelke)が摂心前に「摂心すべてで1炷だと思って坐るように」と話をされていたとおり、食事以外にも各炷で意識が途切れることなく繋がるような工夫が施されていたと思います。これについて例を挙げれば、抽解(次の坐禅までの準備時間)が10分→5分、5炷連続坐ってからの食事、トイレ休憩は経行15分の間にする(できるだけ5炷の間はトイレに行かないようにする)などがあります。こうした様々な工夫ゆえに今回の摂心は、「すべての時間において摂心中である」という意識が途切れにくいものになったと思います。この影響か、私は今回の摂心の途中から自分が今何炷坐っているのかわからなくなり、とにかくひたすら坐っているという感覚が摂心最後まで維持され、とても新鮮でした。曹洞宗さんで坐禅する度に感じるのですが、本堂で坐る張り詰めた緊張感は、私がタイでリトリートした森林僧院や瞑想センターでの集団瞑想では感じたことないもので、人による好みはあるとは思いますが、慣れればこちらの方がより坐禅に集中することができるような気がします。
 そんなわけで、今回のプチ摂心で「坐禅は坐るまで(準備)が大事である」という遊心さんのnoteの意味が、以前よりは少しわかるようになった気がします。遊心さんからは、「わかったような気になった時が一番危険です」と言われてしまいそうですが(笑)。



2.プチ摂心の懸念点(?)

 

 ここまで今回の摂心のよかった点について述べましたが(個人的には大満足で何も不満はありませんでした)、敢えて無責任な部外者からのコメントを言えば、今回のような安泰寺スタイルの摂心は、本当の初心者(1年前の自分)にはかなり厳しい気もします。今回初めて摂心に参加された方も仰っておりましたが、数炷坐っただけで「これは最後まで持ちそうになかった」という感想もちらほらありました。これは単純に身体が痛い(坐ることに慣れていない)という問題もあると思いますが、それに加えて、上で述べた張り詰めた緊張感も影響していると思います。
 さらに坐禅に慣れている方たちは、「旗から見れば楽に坐っているように見えるもの」であり、これが初心者の緊張感をより増幅している気がします。もちろん、この緊張感がいい方向に働けば、ベテランの坐禅者のように「集中力(禅定)を高めて坐る」ことを促進させると思いますが、全員が全員それができるかといえば、正直かなり難しいのでは(?)という気もします。
 もちろん、こうした懸念は主催側である遊民和尚も(私などよりも)十分に承知しており、だからこそ摂心前に、遊民和尚からも「きつければ途中で抜けて/休憩 してもいい」との話がありましたが、実際摂心がはじまると「誰も途中退出していないし、そんな雰囲気はかけらもない・・・」と感じた人もおられたのではないでしょうか。とはいえ、摂心をやりきった先には、必ず何かしらその効用を感じることができるのも確実だと思われるので、ネルケ老師が摂心後に何度も「遊民和尚のそのサービス精神は・・・」と仰ったのもよくわかるものです。
 実際、私の記憶が正しければ、今回途中で抜けて休憩している方(元々退出予定のあった人を除く)はおらず、全員で21炷(徹夜坐禅を含めば26炷)を坐り切ったことを考えれば、上で私が述べたこと等は単なる杞憂なのかもしれません。その気になれば、初心者が1日15炷坐り続けることは可能です。ただし、それなりの覚悟がいることは事前に認識しておくべきでしょう。さらに公平を期すために付け加えると、センスのある人ならば、初摂心で徹夜坐禅(1日20炷)までやりきることは可能みたいです(実際、今回もそんな方がおられました)。しかしこれは本当に珍しいケースで、何よりも坐禅をする準備が整っていれば(身体の準備を含む)こそ、できることな気がします。
 

 
 なんだか真面目で面白味のない感想になっている気がするので、ここで摂心後に遊心さんが話された熱い一言を引用しておきます(正確な文言ではありませんが、だいたい以下のような趣旨の発言だったはずです)。

曹流寺でのこれまでの摂心と、その経験者が参加してくれなければ、今回の摂心はここまでいいものにはなっていなかったと思います。

 ひとりで坐るのもとても大事だと思いますが、誰かと坐ることもまた得難い経験です。最近は特にこの重要性を感じるばかりです。


3.初心者はまず1日坐禅会の参加が無難


 長々と感想を述べてきましたが、やはり在家で坐禅をしたいと考えている人は、まずは優しめの坐禅会に参加することが、個人的にはお勧めです。いきなり摂心に参加しても、最後までやりきることができれば、その効用を十分に感じることができるとは思います。ただし、最後までやりきれなかった場合、今後の坐禅に悪影響を与える可能性(坐禅が嫌になる)は高いでしょう。ひょっとしたら、二度と坐禅をしなくなるかもしれません。禅的にはそうした人は坐禅に向いていないのだ(縁がなかった)、という話かもしれませんが、私の個人的な意見で言えば、適切な環境で粘り強く継続していけば、多くの人にとって坐禅(瞑想を含む)の効用を感じることができると思います。
 こうした私の懸念などは、遊民和尚は百も承知のこと(これまで何人もの坐禅経験者を見ている)で、だからこそ初心者向け坐禅会、経験者向け坐禅会、摂心、という3つの異なる坐禅会を実施しているのだと思います(現在、12月の坐禅会も参加募集中のようです)。なので、参禅者としてはこの機会を上手いこと自分の都合に合わせて利用しましょう。
 大事なことなので何度も言いますが、坐禅との出会いの場(どのような環境で坐禅をするのか)というものは、その人の今後の坐禅に対する態度に大きな影響がある気がします。今思えば、私(一人では3分も坐れなかった)が今のところ継続して坐禅ができているのも、初めての坐禅が曹流寺さんであったことが一番大きな要因かもしれません。もちろん、曹流寺さんでの坐禅が全員に適しているわけではないでしょうが、私の経験した中で言えば、文句なしにお勧めできる場所です。その理由を一言で言えば、初心者が入りやすい雰囲気と坐禅中の緊張感、このバランスがとてもいいと感じるからです。

  また、私のように坐禅のシェアリングが苦手な方もいると思いますので、そういった方は曹流寺さんの経験者向け坐禅会(1炷40分の4セット。坐禅説明なし)に参加するか、関東の方であれば仏アレさんの坐禅会(1炷45分の4セット)に参加するのもお勧めです(※1)。仏アレさんの坐禅会は、坐禅後に茶話会がありますが、私が参加した会では「今日した坐禅があれでこれで・・・」という話は一回もした記憶がないので、シェアリングが苦手な人でも安心して参加できると思います。

※1 仏アレさんの坐禅会に参加を希望される方は、仏教のアレ編集部の公式ライン(http://lin.ee/ssH5HFv)に坐禅会参加希望の旨を連絡すれば、坐禅会の案内が送られるようです


4.総括


 今回、ネルケ老師の摂心ということで、安泰寺スタイルで行った摂心はとても貴重な機会でした。私にとって、今までした坐禅の中で一番緊張感のあるものだったことは間違いありません。今回、特段言及することはしませんでしたが、それはネルケ老師が本尊の前で坐ってくださったことによる効果が大きいと思います。最後に、このような素晴らしい摂心を開催していただいたネルケ老師、仏教のアレ編集部のお二人、遊民和尚の主催者様に深く御礼申し上げるとともに、今回一緒に坐ってくださった皆様にも深く感謝いたします。やはり人と坐ることが与える効果は、はかり知れないですね(o^―^o)ニコ

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