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私のMP(メンタル・ポイント)を回復させてくれる存在

 普段からほとんど文章を書くことのない私のような人間にとって、一万字を超える文章を書くと、途端に文章が荒れてくるのでやはり定期的に長文を書く必要があるな、と痛感するこの頃です。とはいえ、前回のnoteでは気合を入れすぎて約二万五千字もの長文エントリーを書いてしまい、とても疲れてしまったので今回は簡潔な内容にしたいと思います。元々、前回も一万字越え程度でまとめる予定だったのですが、文章を書いているうちに、書きたいことがどんどん増えていき、予定より文章が長くなってしまうという文章を書くのが下手な人間あるあるをまさにやってしまったわけです・・・。今回はそうならないようにできる限り簡潔にまとめます。
 前回エントリーではわたしたちが生きていく中でMP(メンタルポイント)が必要であることを指摘しましたが、今回は私のMPを回復してくれるものについての具体例を少し語ってみたいと思います。

 昨年の七月の終わりの頃に、結婚予定の友人と千葉で会うことになり、千葉県にある佐原に訪問しました。正直、この時は数年ぶりに会う友人と話をすることが目的であり、場所自体はどこでもよかったのですが、この佐原という場所がとても印象に残る場所でした。
 歴史に詳しい方なら佐原と聞いてすぐにピンとくると思うのですが、佐原と言えば小学校の歴史の教科書にもでてくる日本史における超ビッグネームの一人、伊能忠敬の記念館がある場所になります。その時の私は記念館の存在を全く知らず佐原に訪問したのですが、小学校の頃の歴史の資料集か何かで見た「四十歳を過ぎてから日本地図作成のために十年以上も全国各地を測量の為に歩いた結果、日本地図を作製した人物」という強烈な記憶は残っていたため迷うことなく記念館を訪問しました。


伊能忠敬像


 記念館は有料で写真撮影も禁止の場所がほとんどだったのですが、伊能忠敬の生い立ちはわりとさらっとした説明と資料で、その多くが日本地図作成と、測量器具の展示にあてられていました。彼の測量に関してかいつまんで説明すると

 忠敬は息子に家督を譲り、隠居生活を開始しはじめた後、五十歳から天文学の勉強に力を入れ始め、自らよりも二十歳近くも年下である高橋至時に弟子入りして日本地図作成のための測量を始める。しかも、この時の測量メンバーはわずか十数名であり(途中でメンバーの入れ替えもあったがこれだけの人数であれだけの精度の日本地図を完成させた)、途中で高橋至時が亡くなり(息子の高橋景保が後を継ぐ)、他にも何人かのメンバーが亡くなったり、現地住民とのトラブルもありながら、十四年の歳月をもって、測量を完了させる。そしてその測量完了を待つようにして、忠敬はすぐに亡くなる(73歳没)。

 詳細はWikipediaを見ていただきたいのですが(測量記録についてかなり詳しく書かれています)、これだけの説明からも伝わる彼の圧倒的な行動力には度肝を抜かれます。彼の功績は、現代で言えば、私たちが定年した後に始めた趣味から日本史に残るレベルの業績をなすようなものです。彼のこうした偉業を記念館で鑑賞して真っ先に思い出したのは、十八世紀最大の哲学者であるイマヌエル・カント先生(カントも四十歳くらいまではただの家庭教師だったにも関わらず、四十六歳で初めて大学の教授に正式に任命され、五十七歳で有名な三批判書のひとつである『純粋理性批判』を出版するという遅咲きの哲学界の大スター。)です。

 この時も友人と話して盛り上がったのですが、伊能忠敬のようなどう考えても常人では成し遂げられないような熱意と行動力を持った人たちの存在は私のような人間にとって本当に生きていく上での栄養になるし、活力を与えてくれます。本エントリーのタイトルにある「MPを回復させてくれる存在」が意味するのはまさにことです。ちなみに友人は教員をしているのですが、歴史の授業で彼のヤバさを伝えなければならない、と話していたことが印象的でした(笑)。
 また、江戸という時代において、自らよりも二十歳近く年下の高橋至時を師匠として、暦学を学ぶ伊能忠敬の学問に対する誠実な態度には本当に尊敬の念を懐くばかりです。現代のわれわれですら、二十歳も年下の人物を師匠とするの心理的なハードルが高いものです。江戸時代であれば尚更でしょう。しかも、忠敬は高橋至時の弟子になるためにかなりの奮闘をしたのだとか。そうした努力の末に無事に至時の弟子となった忠敬は、測量の技術を磨くための自己研鑽を怠ることなく、余りにも熱心に毎日測量する姿から仲間からは「推歩先生」(推歩とは暦学のこと)というあだ名で呼ばれていたようです。おそらく、こうした彼の知に対する純粋な情熱(もちろん、当時の測量技術の制度が悪く、彼の稼業にも影響を与えていたという背景もあるとは思います)こそが私のような一般人がびっくりするような業績を残すことになるのでしょう。こうした忠敬の学問に対する姿勢は現代においても大事な姿勢である(教わる側の立場がかなり強く現代においては特にそうかもしれません。)と改めて思い出させてくれます。

 最近の世情では、年相応のことをすること(その例が独身女性/男性は結婚しないと狂う、十代にもてなかった人はその後の恋愛で間違いを犯す...etc)を強く求められがちですが、そうした生き方をしていても彼のような偉大な功績を残すことはおそらく難しいでしょう。忠敬の場合で言えば、現代の価値観(タイパ、コスパ)から考えると、FIREして貯蓄を増やしながら暮らすのがベターとなるでしょうか。しかしながら、彼はそうした価値観とは真っ向から反対するように、日本地図作成のために命懸けの全国測量の長旅に出るわけです。私のような厨二病患者としては彼のような生き方には憧れますし、心が躍ります。

 当たり前の話ですが、私としても、何か世界に対して必ずしも特別な功績を残すべきだとは思いません。そして、正直な話、自分にそれだけの熱量や才能があるとも思いません。ただ、忠敬のような異常ともいえるような強い熱量があることによって私たちは人生に彩りを与えることができます。「ただやるべきことをこなす(しなければいけないからやる)」だけのマインドは私たちの生活を簡単にマシーン(機械)のようなものに変えてしまいます。私はこのような生活には全く魅力を感じませんし、これは多くの方にも同意いただけるのではないでしょうか。しかしながら、悲しいことに知らないうちに私(たち)は「あれをやらなければいけない。これをやらなければいけない。」という(無)意識に支配され、自らがやりたいことがなんであるのか見えなくなってしまいます。最近、切にこのことを痛感させられるのですが、忠敬のような一般人の基準からかなり外れた行動をする異常者(あえて、こう表現させてもらいます。もちろん誉め言葉です。)の存在は、自縄自縛になりがちな私のような人間にとっては、砂漠の中のオアシスのようなものとなって、MP(メンタル・ポイント)を回復させてくれます。

 上述した理由により、最近はプライベートで関わる人たちについてはなるべく、こうした熱量を持った方と関わるようにしたい、という思いが強くなってきました。そして、そのためには当然、自分自身もそうした強い想いをもって生きていく必要があるわけです。
 現代においても「環境の重要性」はよくいわれるところですが、忠敬の老年期における暦学・測量に対する情熱も、向かいに住んでいた楫取魚彦(かとりなひこ)の隠居後の国学者、歌人としての活躍、祖先である伊能景利の隠居後の熱心な仕事ぶりに忠敬自身の心に響いたからではないか、という説もあるようです。やはり私(たち)は周囲の環境に(大なり小なり)影響を受けるものであるよな、と改めて思うとともに、先ほども述べたように私も少しでも周りの友人にいい影響を与えられるように自己研鑽に励んでいかなければ、と襟を正す次第です。また、これに関わって「人間の意志とはなんて脆いものなのだろう」ということも最近痛感することなのですが、これについて語ると長くなりますので、ここらで筆を置かせてもらいます。


 伊能忠敬記念館は彼の人生と当時の暦学について知ることができ、MPを回復できるとてもいい場所です。私のnoteを読んで少しでも興味を持った方は是非足を運んでみてください。


佐原の帰りに立ち寄った成田山新勝寺の境内へと繋がる階段。
パワースポットなど、神秘的な場所の空気を感じ取るセンスが皆無の私ですが、
この階段には不思議とそうしたスピリチュアルな「アレ」を感じることができました。


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