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散歩と雑学と読書ノート


千歳川

精神医学史の中のクレペリン(2)


前回の記事は昨年の12月25日のものである。つづきを書き進めたいと思う。

前回も述べたとおり、中井久夫はフロイトとクレペリンを精神医学における偉大なパラダイム・メーカーと呼んでいる。フロイト(1856ー1939)とクレペリン(1856ー1926)は同じ年の生まれだが、フロイトの神経症中心のパラダイムとクレペリンの精神病中心のパラダイムという二つのパラダイムがはじめから必ずしもうまくかみ合うことなく進行してきたことは精神医学にとって不幸な出来事であった。

渡辺哲夫が2023年8月に「<精神病の発明>クレペリンの光と闇」(講談社選書メチエ)という著書を出版した。そのなかで渡辺はフロイトとは全く違ってクレペリンは忘れられた存在になっていると述べている。今回私は精神科医ならば特に忘れてはいけない存在である、クレペリンについて少し掘り下げてみたいと思ってこの記事を書き始めた。ここでの記述が渡辺の著書に多くをおっていることを明記しておきたい。

                                                     
                                                   

                                              *


3.「コンペンディウム」から「精神医学教科書」へ

(1)「コンペンディウム」について

クレペリンが「精神医学教科書」の第一版にあたる、「コンペンディウム」を出版したのは1883年、27歳の時である。第二版と第三版は30歳から35歳までドルバート大学に教授として在籍していたときに出版している。

「コンペンディウム」(精神医学概要、1883年)の目次(渡辺訳)
 (1)抑うつ状態:単純性メランコリー、妄想を伴うメランコリー
 (2)朦朧状態 :病的睡眠、癲癇及びヒステリー性朦朧状態、昏迷、
      恍惚、急性痴呆
 (3)興奮状態 :活動性メランコリー、マニー、譫妄性興奮
 (4)周期性精神病:周期性マニー、周期性メランコリー、周期性精神病
 (5)原発性妄想病
 (6)麻痺性痴呆
 (7)精神性衰弱状態:発達畸形、道徳性精神病、神経衰弱状態、
      老年性痴呆、二次性衰弱招待

「コンペンディウム」が後年の版と著しく異なるのは、精神病症状の分類記載に終始していて、その症状の基礎となる疾病本態、つまり疾患単位としての性格や病的過程(プロツェス)に関心を向けているとは言えないことである。

ここで、使用されている「痴呆」(認知症)の概念について簡単にみておきたい。朦朧状態のなかの「急性痴呆」は、狭義の知的低下がみられないもの(情意鈍麻)や一過性で回復してしまう痴呆(昏迷、意識障害)も含まれている。また痴呆と精神薄弱との差異が明確でなく、時に同意義とされていた。精神医学教科書の第二版と第三版では「急性疲労状態」とされた。また第六版以降でこの「急性痴呆」は抹消されて、「痴呆」は早発性「痴呆」と器質疾患性「痴呆」に分けられた。「急性痴呆」の概念は、後に緊張型・破瓜型の分裂病性(ブロイラーの概念)経過の多様性を見るのに有用であったことが明らかになっていくと渡辺は述べている。つまりクレペリンの急性痴呆という概念は早発性痴呆(精神分裂病)の緊張病や破瓜病の一時期の性質にも対応していたのである。またクレペリンが重視していたこの病の末期の痴呆状態(荒廃状態)も、痴呆という表現が使われていても器質性の痴呆(老年性認知症など)の状態とは異なる性格のものである。

私は個人的にいわゆる回復可能な認知症や意識障害で出現する一時的な認知障害に関心があるので、クレペリンの「急性痴呆」という概念の推移に興味を感じる。現在でも「急性あるいは亜急性認知症」と言われる概念があるがクレペリンの概念のように抹消されないことを願っておきたい。私の認識不足かもしれないが、その概念がやや曖昧に思われ気になっている。

麻痺性痴呆とあるのは梅毒が原因で痴呆を示すもの(進行麻痺)を指している。
また老年痴呆が精神性衰弱状態に含まれていて、神経衰弱状態と同列になっていることが目を引き時代を感じさせる。

「コンペンディウム」を含めてクレペリンの「精神医学教科書」の記述の特徴は、「人格」なき精神病像の記述ということである。いわば、「人格」からはぎとられた断片的症状集合を記述する方法で成り立っていると渡辺は批判的に述べている。

高野長英はそのてんを「クレペリンと早発性痴呆論」(「分裂病の精神病理
13」)の中で次のように記載している。

沢山の患者の症状を患者の個人の性格、生活史、症状出現の状況から切り離し取り出し、つまり、症状を患者の全体像から独立した対象として言語化し、それを内容に従って分類し記述する……この方法は、第一版(全体で三八四頁)から第九版(全体で二四二五頁)に至るまで一例の症例も記述されていないほど徹底している。

(このことに関しては、今日個人のプライバシーを尊重しようという正当な理由で、症例記載が極めて難しくなっていることを考えると、クレペリンの方法にも現在は学ぶべきものがあるかもしれない。もちろん、人格や個人の性格や生活史と関連させて患者の病状を把握する必要性があることは当然のことであるが)

(2)クレペリンが活動していた当時の精神医学の状況
   (グリージンガー、カールバウム、ヘッカー、ウェルニッケ)

クレペリンが精神医学の体系を構築していくにあたって影響を受けた当時の重要な人物や精神医学上の考え方についてここで少し触れておきたいと思う。

 グリージンガー(1817ー1868)


グリージンガー


グリージンガーはチュービンゲン、チューリッヒ、ベルリン各大学で教授を歴任した。1845年28歳の時に「精神病の病理と治療」の初版を書き上げ、1861年に改訂増補した。それは精神科の教科書として当時大きな影響力を持つ書物であった。日本では明治元年に亡くなったグリージンガーの影響をあまり受けなかった。私はそのことを少し残念な気がしている。

グリージンガーというと「精神病は脳の疾患である」と提唱したということで知られているが、彼の著書のなかでは、「精神病が関係する身体器官が脳にほかならないと言える」のは「生理学および病理学の諸事実によって示されるならば」という留保がついている。つまり脳の疾患であるという何らかのエビデンスを求めていることを見逃してはならない。それはクレペリンにも影響を与えた認識で、さらに現在にも通ずるものであると言ってよいだろう。

グリージンガーは脳の作用を当時明らかになり始めた脊髄反射の概念に対応させて精神反射作用ととらえていた。その反射作用の乱れが、表象、意志、意識などに影響を与えて精神障害を引き起こすというのがグリージンガーの学説であった。

当時最も精神医学の進歩していた国はフランスであり、グリージンガーも一時フランスで医学を学んだ。当時フランスでは単一精神病論が主流の考えでグリージンガーもそれを受け入れていた。

単一精神病論では、精神病の種々の状態像を一つの疾患過程がたどる経過中の段階であるとみなす。この疾患が定型的経過をとると、鬱病、躁病、昏迷、錯乱の順に経過し、病的な過程が止まらなければ最終的には痴呆にいたる転機をとるものとみている。

しかし精神病の経過のなかには上記のような経過をとらないものがあることが次第に明確になってきてグリージンガーを当惑させていく。

一つはフランスでモノマニーと呼ばれていた妄想性疾患で、妄想以外の症状がみられず、鬱病から始まって痴呆にいたる経過がみられないもの(のちのパラノイア問題にも結びつくもの)である。別の例として、カールバウムと弟子のヘッカーによって発見された緊張病や破瓜病というまとまりをもった疾患があげられる。それは鬱病や躁病を経ないで痴呆状態を早期から認めるもので、後にクレペリンの早発性痴呆の下位分類にとりあげられたものである。
ただし緊張病や破瓜病を発見したカールバウムは基本的にはグリージンガーが主張する単一精神病論を捨ててはいなかった。

クレペリンもやはりグリージンガーの影響下で研究を進めていった。内村裕之は「精神医学の基本問題」のなかで、クレペリンの一生涯の仕事は、グリージンガーの思想の影響下に行われたと言ってよいであろう、と述べている。

カールバウム(1828ー1899)、ヘッカー(1843ー1909)


カールバウム


カールバウムとヘッカーは深い信頼で結ばれた師弟であった。二人はケーニヒスベルク大学で知り合った。大学ではロマン主義精神医学の大家ローゼンクランツ教授と自然科学的精神医学を進めようとする、38歳の私講師であったカールバウムの間で確執が生じて1867年にカールバウムは大学を辞職して、私立ゲルリッツ精神病院の院長に転職した。ヘッカー(24歳)も迷わずカールバウムの後を追った。こうした確執は当時よく見られたことで、グリージンガーもロマン派精神医学からの激しい攻撃と闘っていた。

1871年にヘッカーはカールバウムの指導の下で「破瓜病」の論文を公表した。カールバウムは破瓜病の提唱者であり、その症候群を始めて記載したのも彼である。さらにカールバウムは1874年に、着想してから8年をかけて「緊張病(カタトニー)」を出版した。

クレペリンはドルバート時代にずっと緊張病問題に取り組んでいた。なかでも命令自動が特定の疾患に特異的かどうかを確認しようとしていた。クレペリンは1889年の「精神医学教科書第3版」に、「カタトニー(緊張病)」を妄想性精神病の下位亜型として導入している。また「破瓜病」を狭義(重篤)早発性痴呆として採用したのは1893年の第4版のなかである。破瓜病は徐々にクレペリンの体系の中核部分として結晶していくことになる。クレペリンの疾患単位学説の完成をみるのは1899年の第6版の刊行の時と言われている。

「緊張病」と「破瓜病」の発見を含めたカールバウムの業績は、グリージンガーの単一精神病の影響の強い当時はあまり評価されなかったが、20世紀にはいって再発見され、クレペリンの疾患単位説の先駆者として高く評価されている。

カールバウムは精神疾患の分類に当たって、病気の経過と転機とを重視した、また多彩に変遷する状態像を恒常的な疾患のありかたからは明瞭に区別して観察すべきとして、恒常的なあり方に「病型」という概念を打ち出した。それはヘッカーが用いた「疾患形態」とほぼ同じ概念で、後のクレペリンの「疾患単位」の先駆をなすものである。さらにカールバウムは身体疾患に伴う精神障害をそれ以外のものから区別する分類を行ったことも現代の精神医学に通じるものである。

ところで、精神病の原因を内因性・外因性としたのはパウル・ユリウス・メービウス(1839ー1907)である。私は精神疾患を外因性(症状性精神病および器質性精神病)、内因性(精神分裂病、躁うつ病)、心因性(神経症)という分類で教えられた世代に属する。

前回の記事の中でも触れたが、クレペリンは1883年、「コンペンディウム」を出版した後、経済的に自立して結婚したいと考え、学会で知り合ったカールバウムに頼んでゲルリッツにある彼の個人病院に就職を希望した。そしてカールバウムも快諾した。しかしヴントの反対にあったクレペリンは急遽ゲルリッツ行きを断念した。

渡辺は著書でそのことに触れて次のように書いている。

さて、いまさら言っても仕方ないことだが、カールバウム、ヘッカー、クレペリンという三人の揃い踏みがゲルリッツで見られなかったことは残念である。恐らくはヴントの一言が効いたていたのだろうが、優しい善意が歴史の軌道を変えてしまうこともあるわけだ。
もしもクレペリンがゲルリッツに行っていたなら、早発性痴呆概念における下位病型たる妄想性痴呆とパラノイアとの相互関連の問題、躁鬱性精神病概念の拡大あるいは縮小(限定)という深い宿題、癲癇性精神病とヒステリー性精神病と緊張病が三つ巴をなす相互的な関連性は如何という問題、単一精神病学説と疾患単位学説との関連をめぐる多くの仮説と試論の思索、いわゆる非定型精神病群(特に後年になってカール・クライストや満田久敏が考えたもの)の取り扱い方、症候群学説の役割如何など、多くの難問が現在とは別様の立て方になっていたことであろう。

ここで詳しく振れる余裕はないが、私は渡辺の残念な思いがよく理解できるし、彼があげた難問を現在も重要な難問として十分に理解できる。しかし三人のすぐれた学者がその難問を現在とは異なる形でどのように問おうとするだろうと考えたときに残念ながら私にはその様子がよく見えてこない。

ウェルニッケ(1848ー1905)


ウェルニッケ


ウェルニッケ
はクレペリンよりも8歳年長であるが、ほぼ同時代のライバル同士であった。ウェルニッケはグリージンガーの精神反射作用学説を最も忠実に継承し精神反射弓の概念を用いて、脳局在論を展開した。
ウェルニッケは26歳の時に感覚失語(ウェルニッケ失語)を発見し、さらにアルコール依存症で見られるウェルニッケ仮性脳炎を見出したことでよく知られている。

ウェルニッケは疾患の原因にはあまり重きを置かず、侵される脳の部位や精神的現象像を重視して精神医学の体系を作りあげた。一方でクレペリンは脳局在論にはあまり関心を示さず原因と経過を重視して疾患単位学説を形成した。
クレペリンの疾患単位という概念は、それを認めず脳の局在論にもとずく精神状態論を中心にするウェルニッケや彼の弟子たちに厳しく批判されることになる。

(3)精神医学教科書の深化

クレペリンは1891年4月、ハイデルベルク大学からの思いがけない招聘に応じて、ドルバート大学を辞した。ドルバートでの5年間は仕事は充実していたが、寒さと暗さとスラヴ語系の言語に悩まされていた。
35歳でハイデルベルク大学に着任したクレペリンが最初に行った人事がフランツ・ニッスル(神経細胞の染色法を開発した)の招聘であった。ついでニッスルの友人であるアルツハイマー(老年性認知症の発見)を招聘した。彼らの協力もあってハイデルベルク大学はヨーロッパ精神医学の一大中心地となっていく。

ハイデルベルクの美しく温暖な風土のなかで、クレペリンは精神活動の最も充実した時期をすごした。精神医学教科書も第4版から第6版が出版され、さらに第7班が事実上完成され、研究生活も順調であった。

精神医学教科書の第4版(702頁)は、1893年に出版。目次の一部を記しておくと、3.躁病、4.鬱病、5.急性幻覚妄想症(ワーンジン)6.周期性精神障害、7.妄想病(パラノイア)、8.精神的変質過程(早発性痴呆、緊張病、妄想性痴呆)

この第4版で初めて「早発性痴呆」という表記が使われている。先に触れたようにこの概念はおもにヘッカーが記載した「重篤で早期に終末状態を示す」狭義の破瓜病を指していた。ところで、「早発性痴呆」という表現はすでにフランス人のモレル(1809ー1873)によって使用されていた。しかしその概念は変質論を前提にした状態論で疾患単位という発想はなくクレペリンに影響を与えたとはみられていない。

第5版(825頁)は1896年に出版。早発性痴呆は3.代謝病のなかで粘液水腫やクレチン病と同列に記載され、痴呆化過程ー早発性痴呆、緊張病、妄想性痴呆、麻痺性痴呆。とされている。

クレペリンの体系の完成形と見られているのが、第6版(969頁)で1899年に出版された。この版で早発性痴呆(統合失調症)と躁鬱病という内因性二大精神病の分類が確立された。さらにパラノイアが独立して分類された。早発性痴呆はその下位分類に破瓜病型、緊張病型、妄想性痴呆型がおかれた。またそれまで躁病、鬱病、循環性精神病のように分かれて記述されていた躁鬱病がこの6版において統一された。

それはいささか強引になされたもので、理論的、人工的な色彩も見られる分類で、後に批判を招くことになった。また実臨床でほころびも見られ現在に至っている。このてんに関しては後ほどまた問題にしたいと思う。

その第6版の目次をここで書きとめておきたい
1 感染性精神病
2 疲弊消耗性精神病
3 中毒症
4 甲状腺性精神病
5 早発性痴呆
6 麻痺性痴呆
7 脳疾患性精神病
8 退行性精神病
9 躁鬱性精神病
10 パラノイア
11 全般性神経症(癲癇・ヒステリー)
12 精神病質性状態(変質性精神病)
13 精神的発育制止

第6版で独立して記載された、パラノイアについて少しふれておきたい。

クレペリンの晩年の弟子である、クルト・コッレはクレペリンの症例を後から調査したところ、パラノイアという彼のいう厳密な概念、すなわち「思考・意欲・行為の明晰さや秩序が完全に保たれているように見えるのに、持続的かつ確固不動の妄想体系が、内的原因から生じて潜行的に発展するもの」に該当するのは約3万名の患者のうち19名であることが分かったとしている。いずれにせよ3万名という数字に私は驚嘆するし、それだけでクレペリンに対してはもちろん調査したコッレにも尊敬の念を感じる。


クレペリンは早発性痴呆の分類に当たって、パラノイアの位置づけにずっと悩んでいた。特に早発痴呆の下位分類にあてた妄想性痴呆とパラノイアの関係をどうとらえるかという問題は、パラノイアの妄想が病的な過程なのか人格の異常な発展ととらえることが可能なのかという問題とともにいわゆるパラノイア問題として現在も決着がついていない。この問題は当時フロイトやヤスパースも論じている。

フロイトはシュレーバーを論じた論文の中で次のようにパラノイアとクレペリンに触れている。

パラノイアと早発性痴呆のあいだの近接した関係を考えると、これまで述べてきたパラノイア理解がどのようにして早発性痴呆理解に連動していくのか、との問いを回避するわけには行かない。従来パラノイアと言われてきた多様な疾患を緊張病およびその他の諸疾患形態とともに一つの新たな臨床単位へと融合させたクレペリンの研究を、私は妥当な仕事だと思っている。ただし、早発性痴呆という名前を選んだのはひどく拙劣な所業であったといわねばならない。


さて、1903年に47歳のクレペリンはミュンヘン大学の教授として12年間在籍したハイデルベルク大学を離れることになる。ミュンヘン大学は以前恩師のグッテンが教授を務めていた大学である。

精神医学教科書の第7版(1476頁)はハイデルベルク大学で書き終えていて1904年に出版された。第8版(2071頁)は1915年に完成。内容はいずれも第6版とほぼ同じである。

ただ第7版ではそれまでヒステリーと同列の全般性神経症のなかに分類されていた癲癇が癲癇性精神病として独立して分類されている。一時期この癲癇性精神病を早発性痴呆(統合失調症)と躁鬱病性精神病にくわえて三大内因性精神病と呼ばれていた。私が精神科医になりたての頃もまだ三大精神病の概念は生きていた。しかしクレペリンの第9版ではすでに癲癇性精神病はただ癲癇とのみ記されている。現在は二大精神病のみが残っているが渡辺はそのために何かを失った可能性があるのではないか?と述べている。

現在ICDの分類では、癲癇は神経内科の疾患とされている。癲癇を診察する精神科医が次第にいなくなってきている。しかし癲癇性精神病と言われていた病状は精神医学にとってはなお重要なものであるのに残念な気がする。脳波を解読する医師も減っている。私は癲癇の患者が診察を受けずらい環境になっていくのではないかと危惧している。


精神医学教科書第8版
西丸四方を中心に翻訳



第8版では早発性痴呆は10以上の下位分類がなされるなどクレペリンの迷いが現れている。それは第6版でこころみた強引な躁鬱病性精神病の分離独立の反動、あるいは人工的に切り離されてしまった躁鬱病性精神病の復讐なのだ。と渡辺は述べている。

クレペリンの教科書は第9版まで出されているが最後の版はクレペリンの死後出版されている。クレペリンは1926年10月7日に急性肺炎と急性心不全で死亡した。享年70歳。第9版は1927年に出版されている。

(4)クレペリンの迷いとクレペリンの体系への批判

クレペリンの精神病に疾患単位をみいだそうとする努力は早発性痴呆と躁鬱病性精神病という分類によって完成した。現在の精神科医もその成果の延長上で仕事をしている。しかしクレペリンの努力は本当に成功したのだろうか。

第8版でクレペリンは早発性痴呆の記述に341頁を費やしている第7版では108頁、第6版で78頁であったから異常な増加である。渡辺はそこでは砂を嚙むような記載が延々と続く、どこに臨床的な必然性や実益があるのかわからない。迷路に迷い込んで困惑すると、クレペリンでも、不安になり過度に多弁饒舌になってしまうのか?と、クレペリン自身が自らの分類に不安を感じ迷路に迷い込んでいる姿を記している。

第8版が書かれた当時はすでにオイゲン・ブロイラー(1857-1939)による「精神分裂病」の命名がなされていた。クレペリンはその命名を第8版ではあえて採用しなかったが、ブロイラーはハイデルベルク大学でクレペリンと面談して意気投合している。しかし、ブロイラーも著書を「早発性痴呆あるいは精神分裂病群」(1911年)としていて、群という表現にみられるように、自分の命名した精神分裂病が一つの疾患単位をなしているのかどうかに確とした自信を持ってはいなかったことを想起しておく必要があると私は思う。

余談ながら、ブロイラーはスイスのチューリッヒにあるブルクヘルツリ病院(グリージンガーが設計した病院)でユングと精神分裂病の研究を進めていた。その研究にたいしてクレペリンはブルクヘルツリの神秘主義者たちと揶揄している。クレペリンはもともとフロイトやユングなどが展開する精神分析には批判的で、第8版の「ヒステリー」の項目の中で「私にはフロイト学説の科学的根拠も治療的根拠も納得できるようにおもえないので、……」と記している。

クレペリンの体系に対する批判はいくつかなされているが、私はここでヤスパース(1883ー1969)とホッヘ(1865ー1943)とジルボーグ(1890ー1959)の批判に関して簡単に触れておきたいと思う。

ヤスパースはクレペリンのあとにハイデルベルク大学の教授になったニッスルのもとで精神科医として出発したが短期間で哲学に転出した。
1913年に29歳のヤスパースは「精神病理学総論」初版本を出版した。そこでヤスパースはクレペリンがカールバウムの疾患単位という理念を発達させ実らせたのだという認識を提示し、さらに次のように言う

疾患単位という理念は一つ一つの例では実現させることができない。……同じ原因と、同じ症状と、同じ経過や転帰と、同じ脳所見が規則正しく一致するということを知るには、……無限に遠い未来のことに属する。疾患単位の理念は実際はカントの意味の理念で、すなわち目的が無限のところにありその目的に到達することが不可能であるような課題という概念である。……この理念を知って活動せしめたのはクレペリンの不朽の功績である。しかし理念の代わりに理念が到達されたとみせかけること……疾患単位を出来上がったものとして早発性痴呆とか躁鬱病というように記述することから間違いがはじまるのである。

ヤスパースの批判は鋭いものがあるとみるべきだろうが、私は患者を前にしたときに理念だけではどうにもならないとやはり思ってしまう。完全なものではないとしても、具体的なカテゴリー分類がやはり必要だろうとクレペリンの肩を持ちたくなる。もっともヤスパースは彼の病像合成論の中で精神疾患の分類にも触れているのであるが、ここでの深入りは避けておきたい。

クレペリンはヤスパースの批判やウェルニッケの流れをくむクライストの癲癇性精神病をめぐる批判などに対して無反応であったが、アルフレッド・ホッヘからの症候群学説に立脚した批判にたいして反応を示した。

長年フライブルク大学教授を務めたホッヘは精神疾患に臨床単位を求めようとすることは「幽霊をつかもうとするようなものだ」と述べ、精神病圏や神経症圏には疾患単位など存在せず、千差万別の原因に由来する精神現象の群れが一定の症候群ないし状態像を形成しているだけに過ぎないとしてクレペリンの疾患単位学説を批判し続けた。

クレペリンは1920年(64歳の時)に「精神病の現象形態」という論文を提出してホッヘの批判に答えた。その目次を記しておこう。

「精神病の現象形態」(1920年)の分類
 (1)譫妄性(delirante)表原型
 (2)妄想性(paranoide)表現性
 (3)感情性(emotionelle)表現型
 (4)ヒステリー性(hysterische)現象
 (5)欲動性(triebhafte)表現型
 (6)分裂性(schizophrene)表現型
 (7)言語幻覚性(sprachhalluzinatorische)表現型
 (8)脳病性(encephalopathische)表現型
 (9)精神遅滞性(oligophrene)表現型
 (10)痙攣性(spasmodische)表現型

表現型と書かれているが症候群ないし症状群と同じ意味である。
内村裕之は「精神医学の基本問題」のなかでクレペリンのこの論文を高く評価して、これは彼が最終的に到達した境地であるだろう述べている。そのうえで、論文の冒頭を翻訳している。

「原因、症状、経過、予後、そして病理解剖を考慮して病型をさだめようとする、これまでの方法は、もはや使い果たされて満足できなくなったから、何か新しい道が拓かれなければならぬとする批判や論述の正当性を、一概に否定することはできない」

渡辺はさらにジルボーグが「医学的心理学史」(1941)で展開しているクレペリン批判に触れている。
ジルボーグは、クレペリンの体系がはじめから、ある種の人工的な特徴を示していたこと、体系化のために多くのものを犠牲にしたこと、人格に対する考慮を徹底的に排除したこと、治療への冷淡なニヒリズムがあることなどを挙げている。

私は以上のようなクレペリンの迷いや、いくつかの批判を念頭に置くと、クレペリンの精神病をめぐる体系を渡辺が発見ではなく発明と述べた意味が腑に落ちる気がする。

4. 人間クレペリンと日本人の精神科医との関りについて

渡辺は著書のなかでクレペリンの性格や趣味や家庭生活や対人関係のあり方などに関して比較的多くのページをさいている。今回も随分長い記事になってしまったので、そのてんを十分に紹介することができなくなってしまった。

クレペリンは弟子のコッレ等の証言もあって、冷酷で陰鬱な、他人を寄せつけない、精神医学以外にまったく関心をもたない、いつも怒気を帯びていて頑迷不機嫌な大教授というイメージを持たれている。コッレはクレペリンのことを「苦行者的狂熱者」と呼んでいる。
熱心な禁酒主義者であったことも社交的な活動にマイナスであった。そのことがミュンヘン大学教授になる際に問題とされたという。
クレペリンはヴントの指導でアルコールがあたえる心理的影響に関する研究を行なった。それは相当自信を持った研究であったようだ、そのことが禁酒に関連していただろうか。

弟子たちに対してクレペリンは彼が恩を受けた、ヴントやグッデン教授のようではなく、冷酷な仕打ちを受けたフレクヒッシ教授に近い態度で接したようだ。

日本の精神科医とクレペリンとの関りについて、内村が「わが歩みし精神医学の道」の中でいくつかのエピソードを紹介している。
日本人として初めてクレペリンに学んだのは呉秀三で、クレペリンの教科書第六版などを持ち帰り日本の精神医学の基礎を築いた。呉はクレペリンと良い関係を結べなかったということを内村に打ち明けている。
1914年~1918年まで第一次世界大戦があり、日本がドイツの敵国となったことが、愛国主義者のクレペリンを一層気難しくさせていたかもしれない。ドイツの敗戦後に訪れた斎藤茂吉は、握手を求めて差し出した手を二度も拒否された。彼の前にいたジャワ人とはにこやかに握手をしていたので斎藤はいたく傷ついたようだ。
内村はクレペリンが亡くなる二年ほど前にミュンヘンを訪れたがクレペリンと直接接触して不愉快な思いをすることを賢明にも避けていた。内村はクレペリンへの尊敬の念を隠さなかった。

以上述べたような評価だけに基づいてクレペリンという人物を考えておいてよいのか。必ずしももそうだとばかりは言えないと渡辺はいう。クレペリンは非常に複雑な矛盾した性格の持ち主であった可能性がある。

内村は持ち帰ったクレペリンの詩を訳して、詩の内容からクレペリンの気質にクレッチマーがいう「分裂気質」と「粘着気質(癲癇性気質)」の混合が直感されると述べている。渡辺は「癲癇性気質」を安永浩がいう「中心気質」(生命の祝祭性を帯びた、5歳から8歳くらいの天真爛漫な子供のような気質)と見てクレペリンの気質に関して興味ある解釈をしている。家族との関りや、趣味的な活動の際にはクレペリンは中心気質的な一面をのぞかせていたのではあるまいか。

クレペリンの旅好きは尋常ではなかった。クレペリンはハイデルベルク大学からミュンヘン大学へと転出した直後、1903年のクリスマスの日から四ヶ月間、兄カールと南洋旅行を行なった。そこでクレペリンは自らの生命と大自然の融合を感じた。同時にジャワのラターなどを通じて比較文化精神医学の課題に取り組んだ。彼は第一次大戦の前に日本旅行を計画していた。残念ながら実行されなかったが、日本の弟子たちの協力を得て彼の比較文化精神医学を完結させようと考えていたようである。


孫と一緒のクレペリン

5.おわりに

偉人のなかには、おつきあいは避けたいなと思わせる人物がいるものだ。クレペリンもそんな一人である。しかし私は渡辺の著書を読みながら、クレペリンがいささか謎めいた人物に思えてきて、もう少し彼のことをよく知りたいと思うようになった。

「クレペリンの回想録」の日本語訳を入手できず、原書だけが今私の手元にあって、宝の持ち腐れになっている。いまは辞書を頼りにドイツ語の勉強をかねて読み始めてみようかと思っている。

クレペリンの「精神医学の百年史」という著書は、治療に関してはニヒリストと言われるクレペリンとはまた異なる一面をのぞかせている。沢山の非人道的と思われ治療や処遇をめぐる図版をのせながら、それでも百年のあいだに徐々に改善が図られてきたとして、今後に期待を寄せている。ハイデルベルグ大学でもアルツハイマーなどの力を借りて患者の処遇改善に努力していて、不穏な患者の拘束も極めて短期間で減少させたという。これはまったく私の想像に過ぎないが呉秀三の患者処遇に関する人道的な認識にハイデルベルク大学での体験が影響しているのかもしれない。

私の乏しい語学力がネックになりそうだが、これからも精神医学史に関連した記事を書いてみたいと思っている。









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