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ある女医さん

まだ私が人工透析室の主任看護師をしていたころ、1人の女医さんと知り合った。私が30歳くらい。彼女は43歳くらいだったと思う。私は劇団の主演女優、座長でバンバンやってたし、結婚したてだったし、人生に、未来に、なんの不安もなかった。

彼女は、麻薬取締官から一念発起して女医になったというすごい人だった。42歳で新人ドクターというわけだ。なぜドクターになったのですか?と聞くと、辺地に行きたいのよ、と言って、その言葉通り、えりもに行った。ご家族もおありだったので、単身えりもは、非常に悩んだようだ。その上娘さんは確か障害をお持ちだったと思う。その子をご主人に任せての単身赴任はかなりの迷いがあったことは理解に易い。

ある日、うちの劇団の芝居を見に来てくれて、帰りに、

秋山さん!私えりもに行くわ!あなたのお芝居観て決めました!

と言われ、彼女はえりもに発った。
そしてメールというツールを利用してよく彼女と連絡を取りあった。その後も、遠くえりもからも芝居を観に来てくれた。娘さんたちも一緒だった。
私も40代に入るころ、家族のことで悩みが増していった。高知の寝たきりの父の転院先を3ヶ月毎に探さなければならないとか、父が入院したら、知恵遅れの弟が一人暮らしになるため、どうにかしないといけないとか。
私の頭は毎日毎日悩みでいっぱいだった。
そんな時、私は彼女にこの状況を説明して相談に乗ってもらった。
目から鱗が落ちる思いだった。

あなた、蒸発しちゃいなさい。

と言われたのだ。

父も弟も全て捨てて、全然別の土地に行って生きなおしなさい。と。

あれから私は蒸発もせず、父も見送り、弟もグダグダと引っ張りながら生きているし、上手に自分の悩みと向き合う方法も得たが、

あんな衝撃的なことを言われたことをいつまでも忘れない。

人は選択肢はもうないと思って、ズルズルと泥の中で這いずるしかないと思ってしまうが、まだまだ選択肢が残っているのだという事実。

おりにふれ、先生のことを思い出す。
今はご家族と淡路で個人病院をしておられると。
いつか、行こう。とか言わず、後悔しないために早く逢いに行かないと。
年内には行く。

手元に彼女の書いた本がある。

サイン入りで贈っていただいた。

これ抱いて逢いに行こう。

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