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【日記】飲み残したコーヒーの揺らめき【2024/2/25】


コーヒーをきっかけに、めんどくさい自分になってみようと思う。

自分はコーヒーを飲む時、マグカップで飲む事が多いのだけれど、コーヒーの残量が残り0.5割くらいになった辺りで飲み残す事がそこそこある。

別にコーヒーの味に飽きたわけではないんだけれど、このコーヒーをもうあまり飲む気がしないなあ、なんて思ってしまうような、しょぼめの呪いにかけられたような、そんな気分になる。

理由は全く定かではない。ただ何となく、そんな気持ちになる。


コーヒーは大好きなんです、ホントなんです。


コーヒーなら何でも残す可能性がある……という訳でもない。

例えばカフェオレだとまず全部飲む。どちらもおいしく飲んでいるはずなのに、ブラックはたまに残す。そこに何の違いがあるのだろうか。

そこにある違いとは多分、複雑さと勿体無い精神の掛け算の積なのだと思う。
(この辺りから思考のめんどくささが見え隠れし始める。悪い気はしない。)


カフェオレさんとコーヒーさんの、両者の違いをぼんやりとかんがえる。


コーヒー、言ってしまえば豆の煮出し汁。とてもとても手間のかかった、個性のある煮出し汁。カフェオレはそこに牛乳が加わる。牛乳。コロイド。ただの水では無く脂成分も含まれる。混ざり合う。マクスウェルの悪魔も分離できないほどに、均一なブラウンに。

すると途端に複雑で、底の見えない物のような気がしてしまう。とても偉大な気のせいだと思う。

コーヒーというだけでは単純なのだけれど、牛乳というコロイド、ある程度複雑な液体が加わる事で、カフェオレも複雑性という不思議な価値、コクを帯びた液体になる。そんな物を残すのは勿体ない、という気持ちになる。

いや、ブラックコーヒーも本当は残すのが勿体ないはずなのだけれど。
豆や焙煎の度合いで十分な複雑性を帯びているはずなのだけれど。
自分の感性の未熟さ故な気がする。怒られてしまいそうな話ではある。


色んなこだわりの詰め合わせ、なコーヒー


当然だが、別にコーヒーが嫌いだから残しているという訳ではない。

一応ゲイシャコーヒーだって飲んだことはあるし、コーヒーの風味のうち、何が酸味で何が苦みで、いつぐらいにそれらが訪れるのか、苦さはどうか、という事をそれなりに意識して飲むくらいは好きだ。(尚、それが正鵠を得たものであるとは限らないものとしている。)


そう、そりゃ好きだから飲んでいる。それにいつも残すわけではない。だけどなんだか残してしまう、そんな気分の日がたまにある。マグカップの底に半透明のブラックが居座ってしまう日が。

そして居座ったブラックをゆらゆらと揺らしながら、マグカップの底の色合いまで揺らめいているのを楽しむような日が、あってしまう。飲み物で遊ぶな、と怒られてしまうのだろうか。

もう少しだけ、その残してしまった黒いきらめきや、苦みと酸味のマリアージュに感動すること、後、流体力学が生み出すマグカップの中の予測不可能さのシミュレーション……も、許してはくれないだろうか。


……少しだけ、という割には多すぎてしまうのか。

(終)



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