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『ハリー・ポッターと不死鳥の騎士団』 官僚たちが一番嫌がること。それは軽蔑である。

評価 ☆☆



あらすじ
新学期前のこと。青年となったハリー・ポッターはダドリーとトンネルを歩いていた。その時、ディメンターに突然襲われる。ダドリーの魂が抜かれようとした時、ハリーは仕方なく守護霊を出す魔法を使い、ディメンターたちを撃退した。しかし、人間の前で魔法を使ったために魔法省から「ホグワーツ退学処分」を突き付けられた。



『ハリー・ポッター』シリーズをどう観ていくか? 映画としてどのように評価をするか? 非常に難しい問題だ。というのも、この映画シリーズは常に原作と連動しているからだ。映画と小説がパッケージ商品となっていて、小説が書かれるとすぐに映画化される。もちろん、このことは小説の売り上げにもフィードバックしている。



このシリーズは両方一度に楽しめるようになっている。だからこそビッグビジネスとなったのだろう。往年の角川春樹のようである(古いたとえなので、わからないひとは検索してください)。両方を分けて語ることがなかなか難しいのだ。



いずれにしても、映画は小説に比べて格段に時間的制約がなされる芸術である。優れた小説であっても映画を観ると「なんだつまらない」と感じる理由のひとつは時間的制限によるところが大きい。もちろん、原作よりも面白い場合もある。



2007年公開の『ハリー・ポッターと不死鳥の騎士団』は映画として意外と面白かった。映画としてはこのシリーズの第5弾にあたる。監督はデヴィット・イェーツ。出演はダニエル・ラドクリフ、エマ・ワトソンなど。さまざまな問題点はあるにしても、観た後で「しまった! 時間の無駄だった」と思うことはない。図式的でわかりやすく構成されている。テーマというか扱っている題材が少しだけ陳腐な感じはするけれど、それはご愛嬌。物語を進める力を感じた。



画像のルックも悪くない。このシリーズが少年期から青年期へと移行する際のターニングポイント的な作品になっている。多分、この映画が成功しなければこのあとのシリーズはなかっただろう。青年期へと変化するハリーの心理描写が丁寧に描かれている。



それにしても、この映画に描かれている官僚はどうだ。事なかれ主義はまさに日本の官僚にそっくりである(多分、どこの国も同じなのだろう)。いまそこにある危機を見ようともせず、一方で「ない」ことを前提に市民を無力化させようとする。まるで東京電力の原発問題そっくりである。法律を盾に自分たちの思い通りにできる人事異動を行って組織を牛耳るが、決して自分たちが責任を取ろうという態度を見せない。結局は自分たちだけが可愛いく、弱い相手に対して権力を見せつける。こういう姿勢は本当にうんざりである。



映画からそれちゃうけど、こういう相手は無視するのが一番。日本では「官僚が最高だった時代」は終わっている。世界一頭のいい官僚という形容詞が通じたのは70年代までだ。もし官僚たちが特に財務省の官僚たちが本当に頭の良いひとたちならば、これだけの巨額な債務を日本が抱えることなどなかったはず。アメリカに匹敵するようなセメント量で日本国土を覆い尽くすなんてこともなかったし、意味もないダム建設や原子力発電所の推進なども行われなかった。



そんな官僚に苦しめられている国民が、彼らに対して対抗できる手段は「軽蔑する」ことである。それが、彼らにとってどれだけ屈辱なのかは『ハリー・ポッター 不死鳥の騎士団』でよくわかる。官僚たちはプライドが高い。そのプライドを傷つけるためには、とことん軽蔑すること。抗議しても仕方ない。接触をできるだけ避け、軽蔑する。近づかない方がいい。



どうしても付き合うのならば、法律を勉強し、賢くなる必要がある。ある意味、官僚制度はコンピュータに似ている。道具は自分で判断ができない。正しい解を求めるには、それなりにこちらも勉強する必要もある。相手が嫌な答えであっても、手順を踏まえた解には抵抗できない。



なんか話が『ハリー・ポッターと不死鳥の騎士団』から脱線しちゃいました。つまり、この映画は、なんというか、そういう作品なのだ。



初出 「西参道シネマブログ」 2011-08-10



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