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『ゲーム』 宗教とはいったい何かを見せてくれる。アンドリュー・ケヴィン・ウォーカー三部作。

評価 ☆☆



あらすじ
サンフランシスコにある屋敷でひとり暮らしをしているニコライ。父親から引き継いだ大手投資銀行の社長として多忙な日々を送っていた。離婚し、幼い娘とも離れて暮らしている。そんな彼が48歳の誕生日になった頃、弟のコニーから連絡が入る。



デヴィッド・フィンチャー監督は1990年代から2000年代にかけて傑作と呼ばれる作品を数多く作り上げた。『エイリアン3』『セブン』『ゲーム』『ファイト・クラブ』など。最近も『ソーシャル・ネットワーク』『ドラゴン・タトゥーの女』といったヒットを飛ばしているし、熱狂的なファンも多い。



初期の彼の作品には「宗教」をモチーフにしたものが多かった。特に『セブン』はその特徴を前面に出している。『パニックルーム』以降、このテーマが消えてしまった。どうして? と情報を集めていたら『セブン』『ゲーム』『ファイト・クラブ』は、アンドリュー・ケヴィン・ウォーカーという人物が脚本を手がけていることがわかった。いわば、この三作は、アンドリュー・ケヴィン・ウォーカー三部作でもあるのだ。



彼は『ファイト・クラブ』や『ゲーム』ではノンクレジットとされているし、彼の書いた脚本は上層部から常にリライトを求められていたらしい。話が暗すぎる、というのがその理由だとか。上層部の考えも理解できるが、この暗さは深淵なるテーマとフィンチャーの初期のテイストに深く繋がっている。彼こそが僕の探していたキーパーソンだった。



この1997年公開の『ゲーム』も、全体的に暗いルックは『セブン』と変わらない。ただし、こっちのほうが画面が鈍い。幼い頃の父親の自殺というトラウマ、兄弟の確執を基軸に二転、三転するストーリーは興味深い。ラストは釈然としないけれど、気に入っている。出演しているマイケル・ダグラスも、ショーン・ペンの演技も素晴らしい。



この映画は「宗教性と虚構」を題材としている。人が何かの折に物語性を希求する時、ある宗教はプログラミングされた物語を提供する。すると人生は瞬く間に虚構化していく。まるでゲームの中に入り込むみたいに。世界は変容し、ゲームか、リアルかの区別がつかなくなる。



『ゲーム』はイスラム教と反イスラム教との宗教対立の無意味さをも想起させる。提供された物語により、人は人を殺すこともできる。その枠内にいる人間にはそれがゲームだとは気づけない。しかし、結局は互いの物語(宗教性)の虚構性を堅持しようとしているだけだし、そのことは第三者であれば、単なるゲームに過ぎないというわけだ。原理主義者たちが虚構の柱にすがっているのは、自分たちの自己が脆い裏返しであることを自覚しているからでもある。まるで『ゲーム』の登場人物たちのように。



映画『ゲーム』はもっと評価されていい作品である。



いったい誰が映画の魅力を出しているのか? を探すも、映画の面白さである。映画はすべて監督のものという視線で分析する批評は本当に正しいのか。そう考えるのはとても楽なんだけどね。



初出 「西参道シネマブログ」 2014-09-21



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