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『ハリー・ポッターと賢者の石』 原作の内容を忠実に再現。物語の力が映画を救っている。

評価 ☆☆



あらすじ
グワーツ魔法魔術学校のダンブルドア校長は孤児となった赤ん坊のハリー・ポッターを、ロンドンの郊外に住むマグルと呼ばれる魔法界と人間界の混血のダーズリー夫妻に託した。ハリーの額には稲妻型の傷があった。



『ハリー・ポッターと賢者の石』は2001年に公開された作品。監督はクリス・コロンバス。出演はダニエル・ラドクリフなど。この映画から空前のハリー・ポッターシリーズが展開されることになる。



以下は雑誌に書いた時の記事。



「優れた映画は予言である」。これは黒澤明監督の言葉だ。フィクションの根底には必ず現実世界の本質を見ることができるし、優れた映画は人々の願望を表現し、未来への方向を示すことが多い。スクリーンの中で、いま「学校」がどのように表現されているかを見つめることは、未来の「学校」像を発見する手がかりになるかもしれない。



21世紀以降、ハリウッドでは熱血教師によるヒューマン学園映画が非常に少なくなった。ただスクリーンから「学校」が消えてしまったわけではない。新しいかたちでの「学校」が描かれるようになったといえるだろう。その代表が『ハリー・ポッターと賢者の石』だ。昨年大ヒットしたこの映画の概略はいまさら説明するまでもないだろう。映画にはホグワーツ魔法学校という魔法使い養成学校が登場する。ホグワーツは山奥深くの、高い山々に囲まれた湖にある島に建っている。巨大な城のような古めかしい建物の全寮制の学校だが、生徒を孤立させるために閉鎖性の高い学校ではない。



ふくろうを通じて郵便物は毎日のように来るし、クリスマスなどには親元に帰ることができる。子供たちの安全が少ない大人たちで守るための措置、知識を習得するために必要以上の刺激が周囲にないように配慮されているように思える。さらに魔法という危険を伴う力を扱うために、危険が及ぶ範囲が少ないように周囲からあえて離れた場所に位置しているのかもしれない。



魔法学校ではさまざまな場所で事件が起こる。興味深いのは、ホグワーツだけではなく、どんな学校にもありそうな場所で、観客の想像力を刺激する事件が起こっている点だ。まず女子トイレ。映画の中ではトロールという化け物が暴れ、退治する場所として登場する。女子トイレでは、ハリーの親友ロンにいじめられた秀才ハーマイオニーが皆に隠れて泣いていた。そこにトロールがやってきて、ハリーとロンは彼女を救うために戦うことになる。日本の“トイレの花子さん”と同様、怪物の登場するのはトイレである点は興味深い。



トイレは何を意味するのか? そこは子供たちの感情が発露できる場所なのかもしれない。気丈な女の子ハーマイオニーさえも泣ける、自分をさらけ出せるスペース。親や先生の権力も及ばないトイレは、子供たちの想像力を非常に刺激し、怪物たちの出現の場のようだ。



次に図書室。魔法学校の図書館には閲覧禁止の本、封印されている本がある。ハリーは興味本位からこの本を開けてしまう。すると本の中から顔が苦しそうな浮かび上がる。このシーンは知識や情報が、ある基準を達しないものに公開してはならないことを暗喩している。知識とは火と同様に扱い方によっては非常に危険なものである。有益で魅力的である反面、危険である。それをコントロールしながら子供に提供するのが教師の役割かもしれない。



教師たちの描き方も興味深い。彼らは個性的だが、映画『いまを生きる』のロビン・ウィリアムスのように情熱的でもないし、『陽の当たる教室』のリチャード・ドレイファスのように生徒と先生が癒し癒される関係でもない。魔法の知識は非常に豊富だが、それ以外に関しては無頓着でさえある。彼らは先生でありながら、もうひとつ魔法使いの権威としての役割を担っている。それは賢者の石など非常に強力な魔力を持つものを外敵から守るという使命だ。




ホグワーツ魔法学校は学校であると同時に地域社会の魔法によるトラブルを予防、保護している機関でもある。かつて日本でも学校は知識の集積の場であると同時に地域社会を支え、教師たちは尊敬の対象となっていた。それに似ている。教師は学問を究める存在であり、学問を通じて子供たちの教育を行い、地域社会へ貢献する。この教師のスタイルは従来の熱血ぶり、心のふれあいを前面に出したハリウッド映画の教師像ではない。もっと教師としての根源的な要素が出ている。



さらにホグワーツ魔法学校は非常に高い信頼性をコミュニティから得て、自らも率先して伝統を守っている。その姿は、まるでグッチ、プラダといったファッションブランドを想起させる。学校のブランド化といっても日本で考えるような進学至上主義的な意味ではなく、教育とコミュニティへの貢献(あるいは学術的研究)によって長年培われてきた信頼性と捉えて欲しい。



子供たちがトラッドな制服であることにも注意したい。ネクタイを締め、コンサバティブな格好をし、礼儀正しい。子供たちはホグワーツ魔法学校の生徒というプライドを制服で表現し、同時に自らの規律ある行動によってホグワーツをハイクオリティなブランドにしている。その積み重ねが信頼となり、伝統となる。だから映画には生徒の親たちの話が数多く登場するのだ。学校のブランド化はこの映画に限定した話ではない。最近のハリウッド映画を注意深く見ると子供たちの多くが制服を着ていることに気づくはずだ。



他にも生徒間の上下関係、規律違反とペナルティなど映画『ハリー・ポッターと賢者の石』には学校の未来を予感させる示唆が含まれている。



以上である。



映画としての面白さよりも原作の面白さが映画を救っているという印象。だが、原作の持つ雰囲気をここまで忠実に映像化できるというのもなかなかすごい。ヒットシリーズになることは間違いないだろう。



追記



ここまで大ヒットシリーズになるとは思わなかったですね。社会現象といっても過言ではない。しかし、シリーズが終わってすべてを俯瞰してみるとこの作品はイギリス的な要素が詰まっている。特に後半シリーズは暗すぎないか? 観るのに痛々しいだけだったような気がする。



初出 「西参道シネマブログ」 2005-08-08



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