白い紙

禅語「両忘」 白黒どっちでもいいじゃないか 白い紙と一滴の墨汁

私は、物事を真面目に捉えすぎることがあります。
自分や他の人の、少しの汚れも許せないというか、
何事にもすごく潔癖になるのです。

なんて自分は自己中心的で、心の狭い人間なのだろう。
いろいろ頑張ってきて少しは成長したと思ったのに無駄だった。
自己否定のモードですね。
こういう時は、汚れた自分にがっかりします。

そして、その矛先は自分だけではなく、他の人にも向かいます。

あの人は、なんて汚い人なんだ。
ここまで心を尽くして付き合ってきたのに、裏切られた。
がっかりだ。

汚い部分に触れると、目を背けたくなります。
人と付き合うのが嫌になります。

恥ずかしい話ですが、時々こうやってバランスを崩すことがあります。

自分への評価が低い割には、ある部分でものすごくプライドが高い。
人が怖い割には、無防備に飛び込んでいく。
少し認められると有頂天になって、信じすぎてしまったりもします。
人と関わると、極端になってしまいます。

私は、子どもの頃から、自分の心は黒いと思っていました。
そんな自分が嫌いで、汚い自分を隠そうとしていた時期もありました。

他者からどう思われているか、どう評価されているか
ということに敏感でした。

おかげさまで今は、かなり等身大の自分で生きられる
ようになってきましたが、まだまだ心の癖は残っています。

最近、坐禅中に気づいたことがあります。

それは、何かの違和感にこだわっている自分。

周りの音の違和感、身体の違和感、呼吸の違和感、姿勢の違和感。

気になるものは、消してしまいたいと感じます。


違和感を汚れのように感じる自分。


つい汚れにばかり目が行きがちになりますが、
この日の坐禅は少し違う「気づき」が現われました。


汚れは、まるで白い紙に一滴の墨汁が垂れたような感じなのではないか。


では、白い紙の自分とは?


実は私の心は結構、白いのではないか。
ピュアなのではないか。
だからこそ、少しの汚れにも気づくのではないかと。

キレイでいようとする自分は、
もともとキレイであることに気づいていない。
だから、白い自分でいようと固執して、極端に走ったり、
無理をしてしまったりする。

ところが、無理をしなくても、結構いい奴なのかもしれない。
無理をするから、逆に本当の自分が見えなくなるのではないか。

今までは黒い汚ればかりに目が行っていましたが、
白い紙に気づいたことで、違和感に対して、
少し寛容になれた自分がいました。

もともとピュアだから、汚れが分かるし、
汚れているくらいが丁度いい。
むしろ、一点の曇りもない心を目指す方が、
偏っているし、無理が出る。

人から「赤野さんは、いつも楽しそう。」とよく言われてきました。
自分は苦しんでいるのに、なぜ人からは、そう見えるのか。
そのギャップがよく分かりませんでした。


人は、自分が思っている像とは、実は逆なのかもしれません。


汚れていると思っている人ほど、実はもともとピュア。
ピュアだと思っている人ほど、案外、腹黒い。
弱いと思っている人ほど、実はしぶとい。
強いと思っている人ほど、案外脆い。

それは、白い紙と墨汁の点のような関係ともいえます。
自分にとって、自分の紙は当たり前すぎるので、
そこに付いた色で自分を判断しがちです。

墨汁がついていると、墨汁が気になってしまって、
もともと紙が白いことを忘れてしまう。
そして、墨汁がついた自分を汚れていると否定してしまう。

以前、左半分が顔面麻痺になったときのことです。
最初、右が動かなくなったと思ったのですが、
動かないのは左だったのです。
人は、逆の感覚を持つように出来ているのかもしれません。

独立して以来、頑張ることだけが心の支えだったのですが、
顔面麻痺になって、健康でいることのありがたさを
知りました。健康という白い紙はあまりにも普通すぎて、
気づいていなかったのです。

それ以来、身体も心も健康であることを、まず大事に
するようになりました。


「両忘」(りょうぼう)という禅語があります。

「あの人は間違っている」とつい言いたくなります。

その言葉の裏には「私が正しい」という思いがあります。
私が正しいと思うときほど、何かを否定したり、攻撃します。

「正しい」「間違い」の他にも、
「好き嫌い」や「善悪」といった二者択一の考え方で
物事を見てしまいがちです。

これは、白と黒という色で区別している状態。
決めつけるほど、人の苦しみは増していきます。



どうすれば、区別やジャッジから生まれる苦しみを少しでも減らせるのか。
これは私の人生のテーマと言えます。



答えは無数にあると思います。
以下は私の個人的な体験からの気づきです。
何かの参考になれば幸いです。

「両忘」は、
白か黒かといった判断へのこだわりを忘れることを意味する禅語です。

どうせ人間は白も黒ももっている。だから、白でも黒でもいいじゃないか。


ただ、これを頭で解決しようとするとどこか無理があります。
思考で納得しようとするほど、別の区別が生まれるのです。

そのために、坐禅を通して、空気、身体を感じる。

坐っていると、最初は違和感ばかりを感じます。
師匠によると、それでいいのだそうです。

まずは、違和感を感じている自分に気づくこと。
それを排除しようとしている自分に気づくこと。
区別している自分に気づくことがスタート。

そうしていると、少しずつ黒い点へのこだわりが薄まっていきます。
黒い点という個の部分と、
身体という全体が馴染んでくる感じかもしれません。

そうやってただ身体の流れを感じていると、
どこかで白と黒という区別が消える瞬間がくることがあります。

これは、身体ととともにいる時間です。
思考の時間ではないので、人によっては退屈かもしれません。
ただ、この退屈な時間は区別から離れるプロセスとして
大事かなと個人的には感じています。

人の思考は、判断する力を持っています。
これは、社会においては大事な能力。
判断し区別することを当然と考える方もいると思います。

苦しいと感じるかどうかは人によって違うでしょう。
状況によっても、その時々によって変わるかもしれません。

これも白黒つけられるテーマではなく、あくまで個人の感じ方次第。

今、この記事の締めを考えています。
結論を出したい自分と出せない自分がいます。


今回は、なんとなく終わりたいと思います。


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赤野公昭

国際禅メンタルトレーニング協会代表  プロゴルファー、経営者等とのコーチングは10,000時間超。禅と欧米の最新メンタルトレーニング理論を融合した「禅×コーチングメソッド」を開発。米国にも「和の心」を伝えるべく挑戦中。「週刊ゴルフダイジェスト」に「禅の境地へ 滴り積もりて」連載中

禅 × ビジネス

このマガジン「禅×ビジネス」では、20年になる禅の修行の経験を踏まえて、禅とビジネスに関する学びについて、つづっていきます。10,000時間以上のメンタルトレーニングやコーチングの経験から、「禅」と欧米の最新メンタルトレーニング理論を融合させた「禅×コーチングメソッド」を開...
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