禅戒

禅を仕事に取り入れる 【禅戒】何をやるかではなく、何をやらないか

いつまでに何をやらなければならないのか。
優先順位をつける。

何をするのかを書いた「To doリスト」があります。

リストを作っておくと、頭の中を整理しやすいですよね。

しかし、やることを整理するだけでは、
やることが増えるばかりになります。
それは、人によっては「やること」より「やめること」が
苦手だったりするからです。

最近は、何をやらないのか。
何をやめるのかということを定期的に考えるようにしています。
「Not to doリスト」を作るのです。

そして、「しないことリスト」は
年末に整理するだけでは意味がありません。
アップデートし続けることが大事です。

今日はやりたいこと、やるべきことだとしても、明日には分かりません。
ときめきは永遠には続かないのです。

ということで最近、いくつかのことを止めました。

1.長年続けてきたクライアントさんの契約。
(直感的にもう役割が終わったと感じたら、こちらからも終了を提案するようにしています。)

2.ジムの契約。
月に2〜3回程度しか行けない。
もっと行きたいとずっと思っていたが、
なかなか行くモチベーションが湧かないので、
思い切って解約しました。

3.メールの即答。
これまではすべてのメールに対して即座に返事を出していましたが、
大事なメールに対してはすぐに返事することをやめました。


止めてみると、楽になります。
そして心にも時間的にもスペースが出来ます。
このスペースが心地よいのです。

止めてみると、他のアイディアが湧いてきます。

例えば、ジムの契約をやめてみると、気持ちが軽くなりました。
結果として、夜のウォーキングを再開。

メールについても、ビジネスパーソンとして、
いかに早く返事を返すかを大事にしていました。
逆にいえば、すぐに返事がない人に対しては、
常識がない人だとジャッジしていました。

しかし、時にいい言葉が浮かばないことがあります。
大事なメールには、大事に返したいのです。

すぐに返すのではなく、しばらく寝かしておくということもありかなと。
そのことによって、表面的ではないメッセージを送ることも
選択肢として持てるようになりました。

普段何気なく続けていることにも、
無理が生じていたり、違和感を感じていることがあるかもしれません。
この違和感を見過ごさないようにしたいものです。

「好事も無きには如かず」という禅語があります。

これは、「どんなよいことでも、それに心をとらわれて煩悩のもとになるなら、むしろないほうがいい」という意味だそうです。

禅は執着を捨て去る事を教えます。
すべてを捨て去って坐禅に取り組む。
だから、「悟りを得たい」と修行に励むのも執着であり、
むしろ捨てさるものなのです。

実は、よいと思うことほど危なかったりします。
良いが正しいになり、正義になると行き過ぎでしょう。
「よいこと」というのも、ほどほど、いい塩梅でいられるか。

今私自身メンタルトレーニング、
ゼロの対話などさまざまな活動をさせていただいていますが、
以下のようなやらないことを大事にするようにしています。

「やらないこと」
①社会を変える
②影響力を持つ
③成功する
④達成する

どう思われたでしょうか。
人によっては、「???」という方もおられるでしょうし、
否定的な意見を持つ人もおられるかもしれませんね。

これらはすべて、若いときから懸命に追い求めていたものです。
いかにリーダーシップを発揮するかに躍起になっていました。
それが当たり前だし、社会で活動する意味だと信じていました。

それが禅の修行をさせていただくようになり、
いつの間にか、しないことリストに入っていました。
まさに真逆のありかたですよね。

「ただ、いるだけでいい」

これって、わたしにとっての原点なのですが、
「やること」を意識していると、すぐに忘れてしまいますね。

しないことを整理することで、忘れていたことを思い出させてくれます。

もちろん今でも、影響を与えたいという気持ちはどこかにありますし、
「結果達成モード」「成功モード」に入ることもよくあります。

ただ、今は影響を与えるというモードの方が不自然に感じるのです。

自分が影響を与えようという状態で発生する関係性と、
影響力を手放した状態で発生する関係性は違います。

たとえば、相互に影響を与えるエネルギーが生まれます。

「与える人、与えられる人」という一方向ではなく、
「どちらも与えて、与えられる」という双方向な関係性。
この方が、自然ではないでしょうか。


私は、そんな人といっしょにいたいです。


「世界平和」を成し遂げるという人と話すのも、苦しいですね。

理念は素晴らしいと思うのですが、
意志というエネルギーが強すぎるというか、
正義という刃を突きつけてられているように感じます。

そしてその「正義」の正しさを主張されるほど、
味方なのか敵なのかを迫られているように感じるのです。

そうなると降参するか、
こちらも別の「正義」という旗を掲げたくなります。
そういう時間は、疲れ切ってしまいますね。

現代社会では、いかに成功するかを競います。
いかに自分が社会に役立つか、規模や価値を競います。

ちなみに私自身、「結果を出す」ことが嫌いな訳ではありません。
メンタルトレーナーとしては、結果から逃げることは出来ません。

でも、結果を出すために、
達成することだけを見ていると見えなくなるものがあります。
だから、行き詰まったときは、結果をとことん捨ててみることで、
新たに見えてくるものがあります。

結果を捨てるためには、これまた鍛錬が必要です。

するのも鍛錬、しないのも鍛錬。

仏教には「禅戒」と呼ばれる「戒め」があります。
つまり、「〜をしない」ということです。
「〜をしなさい」ではなく、「〜をしない」と表現しているのが興味深い。

殺さない、
盗まない、
誤ったことをいわない、
酒に溺れない、
他人の過ちを説かない、
自らを褒め他人を謗らない、
教えも財産も他人に渡すことを惜しまない、
怒らないなどが代表的な戒めです。

ただ、戒めるというのは否定ではありません。

逆にいうと、
人は何かを盗むし、
誤ったことも言うし、
怒るし、
酒にも溺れる。
自分を褒めて他人をけなすし、
自分の財産にこだわって守ろうとする。

人はそんなものだと言うことです。
「ついやっちまう」のが人間なのです。

私は、この自分のすべての心を認め、受け入れているのが好きです。



だから、何をやるかなどにかまけているほど暇ではない。
何をやらないかに懸命になるだけでも大変だという感じでしょうか。



そして、「しない」ということをやっていると不思議ですね。
自然に何かが浮かび上がってくるのです。

ある選手とのセッションでは、
結果を達成することにこだわりすぎて苦しみになっていました。
結果を求めないということを鍛錬する中で、
そこには、「なりふり構わない」という粘りが
浮かび上がってきました。

執着を手放すと、執念が浮かび上がってきた感じでしょうか。

また、ある経営者とのセッションでは、
影響力を与えることを手放すと、
「委ねる」ことが浮かび上がってきました。

影響力を手放すという壮絶な葛藤の中で、
表面的な感謝ではなく、
生かされているという「ありがたさ」を感じられるようになったそうです。

結局、「する」というのは、
「しない」ことをしていれば、
自然に現れてくるのかもしれません。



「しない」ことで「する」ことが見えてくる。



しばらくは、「しない鍛錬」に励みたいと思います。


月に4回メルマガ「禅メンタル通信」を発行しています。
無料で禅やメンタルトレーニングに関するノウハウやヒントを
学べると好評です。
↓詳細は下のリンクをクリックしてください。
https://www.akanocoach.com/5/

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?