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カミと思想 - 24/04/21

・日課

絵描くのが楽しい

ポマニのクロッキーに囚われてたけど、よくよく考えればフリー素材をクロキーした方が上達に繋がりそうだと思って、そっちにシフトした。
ポマニにはポマニの良さはありつつも、素体に服を着せるのが苦手なのでそっちの練習をしたいと考えている。

いざやってみると、フリー素材を見て描くのが楽しかった。
ポマニだと筋肉の塊を見て虚無な気持ちになってくるけども、フリー素材だと人間を描いているからそういう気持ちにはならない。
しばらくポマニは開かないかもしれない。

絵描くのって楽しいな~という気持ちだけで線引いてたので、特に上達とか気を付けた部分とかはない。ないけども、これが一番正しくはあるかもしれない。
上達だなんだ言って面白くないのはキツい。キツいと続かない。続かないと上手くはなれない。そういうもん…だと思う。知らんけど。

水彩ブラシって描きづらいな~って思ってたけど、”水で薄める”みたいなブラシがあったのを知らなかった。それ込みでなんか案外行けそうな気がしてくる。
しばらく触らなかったガンxソードのヴァンの絵は水彩で塗ってみようかな。

筋トレはスクワット20*3。ムキムキにちか。

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・髪

散髪しにいった。1000円カット…なんて昔はよく言ったけども、最近だと値上がりしててシャンプー込みで2000円前後くらいだ。今でも1000円でカットしてる所って、存在しているのかな。

髪を切られるのが昔から苦手で、散髪の予定をいつも後回しにしてしまう。
髪には命が宿る…なんて女性の話とか、スピリチュアルの話なんかだとよく言うけども、僕は男だしスピリチュアルだとかは信じてない。
単純に理容室・美容室の空気が苦手だからだ。

ハサミを耳元でチョキチョキされたり、話したくもないのに話しかけられたりする。こんな空間の何が楽しいんだ?髪の毛が伸びる機能って人間にイチバン必要なくないか?


子供の頃から、散髪に行く前にはいつも星新一のショートショートを思い出す。
とある話で未来にタイムスリップするくだりがある。
その話の未来人はみんな、スキンヘッドにしていて、服が真っ白だった。

「自分を着飾ってよく見せるなんて考え方、ダサいよね」みたいなマインドが社会通念となっていることで、現代からタイムスリップした「髪の毛をたくさん生やして、服で着飾って個性を出している主人公」は異物でしかなく、主人公は未来人に笑われる…。みたいな描写があった。

このパートは話の本筋ではないのだけれど、強く記憶に残っている。
子供心に「なんてかっこいい考え方なんだ!なんてステキな世界なんだ!」と思ったからだ。
前々から書いていたスキンヘッドへの憧れは、これが起源かもしれない。
(スキンヘッドになれるときは究極の己でなければならないと決めている為、今回は無難な髪形にした。)

これもあって子供の頃は最新のトレンドが~とか…何週間に1回は美容室に行くんだ~とかを、まったく理解できなかった。理解できないからって別にバカにしたい訳ではなかった。バカにしたい訳ではなかったが、いささかバカバカしいとは思っていた。
どうせ死んだら同じガイコツになるというのに、肉人形を一所懸命にきかざって鏡をみて喜ぶなんて、どうかしていると。


昔はそんな捻くれたガキだったけども、今ではそんなふうには考えない。
「髪型・服装にそのひとの個性が出るのであって、髪型・服装で個性を表現するのではない。そこをはき違えている人間は見ていて恥ずかしいなあ…」という考えにおさまった。

機能性を重視する人間はそれを着ればよいし、自分に似合う服をパーソナルのナントカが~とかで自然体の服を選ぶでもいいと思う。
ただ、「私が着る○○」ではなく「○○を着てる私」というか。
服に着られている。特異な服飾で「自身をどうにか特殊な存在に見せてやろう!」というふうに見えてしまう人間っていうのが本当にキツいと思う。

実際はそんな浅ましい考え方をしていないのかもしれないが、そう見えてしまう人は居て、そういう人をみるたびに僕は「魂のステージが低そう」とか勝手に解釈してしまう。
そうやって人を見下している自分の魂のステージも1段階下がるような気がしているので、やっぱり人類みんなが真っ白な服でスキンヘッドになれればいいなとは、今でも考える。
七夕とかにお願いしようかな。


先述した
(スキンヘッドになれるときは究極の己でなければならないと決めている為、今回は無難な髪形にした。)
↑これも、今書いた考えが根底にあるのかもしれない。

「スキンヘッドになりたい」=「かっこいい考え方をスキンヘッドで体現したい」というふうに解釈していて、その「体現したい、なりたい」の部分が心のなかで引っかかって、まだスキンヘッドするべきじゃないと考えている。

ここで書いた究極の己とはすなわち、その「体現したい・なりたい」が消えた自分。
つまり、星新一の未来人のような考え方が自分自身にしっかりと溶け込んだときの未来の自分を指すのかもしれない。

僕自身もこういうワナビーであることは確かなので、特異なナニカに強くあこがれたり、そのナニカになりたいという気持ちを酷く否定したい訳でもない。
でもそれを本質ではなく見た目から取り込もうとか、そういう考え方が気に入らないという事…なんだろうな~と思った。
みなさまもどうか見た目やカタチに惑わされず本質だけを見定めるようになさってください。(this is spiritual)

文章を書くのは、こうやって自分の考え方を分解して言語化できるようになるから、楽しいのかなあと思った次第。遅いので寝る。

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