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貨幣価値を否定する手段としての芸術

渋谷文化村 ル・シネマで上映中のオーストリア映画「エゴン・シーレ 死と乙女」を観た。20世紀初頭、クリムトに認められた天才画家エゴン・シーレの人生を描いた作品だ。エゴンは、映画の中で、エゴイスティックなまでに描くことに執着する。目に映った日常の風景から、鏡に映る自分の姿から、モデルのふとした仕草から、描くべきものを捕食対象のように瞬時にとらまえ、切り取り、デッサンに落とし込んでいく。その執拗さ加減はとにかく異常。彼をそこまで描くことに駆り立てているのはなんなのか。映画館を後にしても、そればかりが気になった。

監督が最初のシーンに選んだのは、エゴンの少年時代、梅毒に犯され正気を失った父親が貨幣や有価証券を燃やして絶命する出来事だった。そして、ストーリーの中盤でその出来事を肯定するエゴンの言葉「父親のしたことは正しかった、なぜならば、芸術はお金によって価値を置き換えることができないから」につづく。監督は、エゴンの芸術活動に向かう動機が、この出来事に一端があると説明しようとしているのか。

もしそうなのだとしたら、と想像してみる。

芸術活動の多くは、自己のアイデンティティを確立することを目的としているように思う。もしかしたら、それは、芸術家の周りにいる評論家たちがそのように解釈したがっているのかもしれないが...。エゴンの場合、自己のアイデンティティを父親の奇行に求め、それは、貨幣価値の否定という具体的な態度に落とし込まれ、描くという行為は、いつの間にか、貨幣価値を否定する態度とリンクした。だからこそ、彼は描き続けなくてはならなかった。父親を自分を認めるために。

しかしながら、彼はその方程式を不整合してしまう矛盾を犯す。そして、本編のサブタイトルにある作品「死と乙女」が生まれる。

エゴンの作品が、彼の美のミューズであり生涯のパートナーであるヴァリとの出会いにより、完成形へと向かいつつあった頃に、第一次世界大戦が勃発、徴兵されることになる。徴兵後も芸術活動を続けるためには、転々と派遣される部隊駐屯地の近くの宿にモデルにいて貰う必要があり、しかしながら、そういった関係性が許されるのは妻のみ。エゴンは、派遣先までついてこれる経済力がある娘を妻にし、ヴァリを棄てる決断をする。ヴァリとの別れの日、自分に縋りつくヴァリを描き、その作品は、「男と乙女」と名付けられた。しかし、その作品名は、ヴァリの死を知った後、「死と乙女」に書き換えられる。男=エゴンを「死」と書き換えたことは、エゴンが、芸術活動の継続のために貨幣価値を頼りにし、それと引き換えに、自己のアイデンティティを喪失したことを悟ったことを象徴しているのではないか。

もしそうなのだとしたら、なんという苦しいテーマを自分に課したことか。と、ここまでエゴンの人生に勝手に思いを寄せたところで、映画を観終わった時よりも、より一層切ない気持ちになった。

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