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有機物と無機物、静と動

中学の美術教師が写生会で枯れた桜の木を描いていたわたしのところにアドバイスにきた。有機的なものに無機物を表すと風景になるのだよ。だから、桜の木を横切るような電線とその脇の電柱も一緒に描くといい。

高校の時の数学教師が夏休みにスピーチコンテストの練習をしているわたしの様子を聴くともなく聴いていたのかアドバイスをしてきた。静の後に動があることでストーリーになるのだよ。

今、目の前にある自然の風景を写真に撮ろうとする。木々と山並みをフレームに収めようとすると、どこか退屈だ。少し手前の橋をフレームに入れてみる。もう少し視線を退いて、自分が敷いたヨガマットと部屋の床と窓もフレームに入れてみる。なるほど、そこにはストーリーのある風景がある。

アスファルトを視界いっぱいに眺めていることも、野原を視界いっぱいに眺めていることも好きだ。一見して無機物のみ有機物のみの風景も、アスファルトには一様ではない凸凹があり、そこに工事した人々の作業姿が映し出され、一見して大人しく緑がただ広がる野原も目を凝らせばアリが蠢き小さな羽虫が飛んでいる。写真や絵画は一瞬のスナップショット。そのフレームを他人が覗き込む時、時間をかけて想像を追加することも、目を凝らして細部まで観察することも、限定的にしか許さない。タイムラインを流れていく写真ではなおさら。

自分のための写真と誰かと共有するための写真の違いは、自分だけのストーリーにしたいのかストーリーを共有したいのかという目的の違いなのかもしれない。そう理解したらすっきりした。

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