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ガマール・アブデル=ナセル大統領ギャラリー

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これを翻訳しているときに沢山検索したわけだが。その時にひろっていた写真です。ナセル大統領はカダフィとアラファトと一緒に写っている写真が多い。カダフィなる人物が正義だとはハッキリしている、調べが浅いのでアラファトは確定ではないが・・。

ナセル大統領調べでついでに気づいたが、カダフィとアラファトは本当に仲良さげだね。(^_^;)


自由将校団とナセル

前の列:ナセル、ナギブ将軍、アメール、サダート(ナセルの後のエジプト大統領)

ナセル大統領 辞任反対デモ

「私たちはあなたの兵士です、ガマル!」


カダフィとナセル(カダフィとナセルが仲が良のでナセルに興味を持った)

カダフィからしたら尊敬する兄貴なんじゃないの?
女の子、カダフィのファンなんだね!(^_^;)
真ん中にカダフィ



ナセルは、ナセルが座っていた木製の舞台の下で寝ていたホームレスのエジプト人男性と対話する。 彼は椅子を壊し、ナセルに仕事を懇願しようと近づき、ナセルはすぐに仕事を与えてくれた。 その後、ナセル氏はその男性と長い会話を行った。

彼は椅子を壊し・・・ちょっと意味わからない。(^_^;)

英語のwikiの説明では、

ナセルが座っていたステージの下で寝ているところを発見され、ホームレスのエジプト人男性に仕事を斡旋するナセル(1959年)


リンク

ガマル・アブデル・ナセルの葬儀で泣いているムアマール・エル・カダフィ。感極まって2度気絶したって話があるが・・(^_^;)


ナセルとアラファト

1968年3月、ナセルはカラメの戦いでイスラエル軍を撃退したヤセル・アラファトのファタハ運動に武器と資金を提供した。また、アラファトにイスラエルとの和平と、ヨルダン川西岸とガザ地区からなるパレスチナ国家の樹立を考えるよう助言した。したがって、ナセルはそれ以来、「パレスチナ問題」の主導権を事実上アラファトに譲ったと考えられている。

◉オスロ合意について

イスラエル・ラビン首相とアラファトのオスロ合意の前に。イスラエル・メナヘム・べギン首相の案。その前にナセルの案あるんじゃないの?少し情報があるので、のち出します。

カダフィ、アラファト、ナセル、フセイン
パレスチナ人とフセイン政権との間のヨルダン内戦に終止符を打つため、アラブ諸国の首脳がカイロのナイル・ヒルトンで会合した。
左からリビアの指導者ムアンマル・カダフィ、PLOのアラファト議長、エジプトのガマル・アブデル・ナセル大統領、ヨルダンのフセイン国王。1970.|所在地:エジプト、カイロ、ナイル・ヒルトン。

同じく、カイロでの首脳会議におけるアラブ指導者。カダフィとアラファトは仲が良い。

ヤセル・アラファト、 ズルフィカール・アリ・ブット、 カダフィ大佐、 ファイサル王、ラホールのモスク内にいるイスラム世界の他の指導者たち - 日付:1974 年 2 月 23 日


ついでにカダフィとアラファト

1992年 - アラファトが飛行機事故で負傷した後、ムアンマル・カダフィがヤセル・アラファトの病院に訪問

リンク

ヤセル・アラファトは、スーダンからチュニスへの移動中に飛行機事故から生還した後、リビアの町マスラタの病院でリビアの指導者ムアンマル・カダフィと一緒にいる。

オスロ合意調べで気づいたが、アラファトは敵味方関係なく誰にでも人なっつこいんだけど・・・カダフィとは本当に仲良いよな。ここに2人のアルバムがある。


ナセル大統領の葬儀

リンク

1970年10月1日、カイロで行われたナセルの葬列を見届けるため、何百万人もの人々がカイロの通りに詰めかけた。


動画

自分たちの味方アラブの英雄たちと敵対するイスラム原理主義

イスラム教で頭を破壊されたパレスチナ人や他のイスラム教徒の原理主義者の頭からは、ナセルを大応援していたという記憶は消されてしまった。アラブ人の団結を潰すには偽物の正義アッラー、イスラム教徒を暴走化させれば良いことは、支配者であるイギリス(MI9)・アメリカ(CIA)・フリーメーソンは気づいていて工作していた・・しかし、凶暴化しすぎて敵のユダヤもコントロール出来ているかワシには分からない・・・( ̄◇ ̄;)

おわり


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