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”運脚”奈良時代のインボイスに苦しんだ庶民と頭を痛めた政治家(徴税費と納税協力費)

1 徴税費(徴税コスト)

 財政学で学ぶ用語に”徴税費”というものがあります。コトバンクでは「租税を徴収するための経費をいう」と記載されています。国税庁HPでは「人件費、旅費、物件費等税務の執行に要する一切の費用」となっています。そして、その金額は平成30年度において100円当1.22円となっています。(国税庁HP
 と、ここまで書いてきましたが、ある疑問を持たれた方もいらっしゃるのではないでしょうか。

「納める側が払う費用はどうなっているんだ???」

 実のところ、財政学では、広義の徴税費(operating costs)を、徴集するための費用(administrative costs)、納付するための費用(compliance costs)に分けて捉えます。日本語訳は、それぞれ、「徴税費」と「納税協力費」となっています。
 税務現場では、広義の徴税費=狭義の徴税費と捉えていることは国税庁HPから明らかですし、自分の実体験もその通りでした。そもそも、”納税協力費”に触れている学部レベルの財政学の教科書はあるんでしょうか?私はこの言葉を今回初めて知りました。
 インボイスを処理するための費用は間違いなく”納税協力費”の一例ですが、広義の徴税費=狭義の徴税費という徴集側の感覚は、インボイスに対する大きな反対運動を平然と無視できた要因の一つだと私は考えています。
 現代の日本政府は”納税協力費”を存在しないものとして取り扱っていますが、歴代の統治者は必ずしもそうではありませんでした。これを悪用して増税する者(徳川吉宗)もいれば、そのコストの大きさに悩み、その軽減策に取り組んだ者もいました。今回は、後者の政治家のお話です。
[追記]こちらの本のP76に納税協力費についての記載がありました。学生時代にさぼっていて、公務員試験は問題集丸暗記でなんとか合格したのが、こういうところでばれてしまいます。

2 ”運脚”奈良時代の凶悪インボイス

 律令制における租税は大雑把に言って「租庸調」ですが、地方財源である祖を除き、庸調は都へ納入されました。この庸調を都へ運ぶことを”運脚”と言います。この運脚に要する経費は納税者の負担とされ、その重い負担が律令制崩壊の一因となりました。律令制化における”納税協力費”で、おそらく最大のものだと思われます。

(1)運脚の厳しい実態
 運脚にあたる人々の厳しい状況を史書に見てみます。
「京に入ってくる人夫は衣服が破れており、顔色が悪い者が多い」(続日本紀)、「調を運搬する人夫が帰路で動けなくなり、飢えて行倒れる者が多い」(日本後記)
 国府の役人による引率がない帰路が特に厳しく、死者が発生したのも帰路に集中していたとされています。又、帰路の費用がなく、都で浮浪者と化した人夫も多かったとされています。

(2)和同開珎の発行と元明天皇の詔
 実際に流通した日本最古の貨幣とされる和同開珎ですが、この発行には”運脚対策”としての側面もあります。それをよく表しているのが、和銅5年(712)に出された元明天皇の詔です。
諸国役夫及運脚者。還郷之日。粮食乏少。無由得達。宜割郡稲別貯便地隨役夫到任令交易。又令行旅人必齎錢爲資。因息重擔之勞。亦知用錢之便。
(現代語訳)
「庸調を都に運んだ人夫が郷里へ戻る時に、食糧が無くなっても調達することは簡単ではない。そこで各郡の官稲から稲を持ち出して便利な場所に貯えておき、人夫が到着したら、自由に買えるようにさせよ。また旅行する人は、必ず銭(和同開珎)で購入し、重い荷物のために苦労することが無いようにし、銭が便利なことを知らしめよ。」
 しかし、これは実施が伴わなかったようで、さっそく、翌年に改正した詔が出されています。
「諸国は、河や山によって隔てられている。調庸の運搬に当たる人々は、長らく行旅の負担に苦しんできた。行旅のための物資と食料を充分に用意しようとすれば、調・庸の規定納入数が欠けることになり、荷物を減らせば、道中で飢えることになるのでは、と恐れる。そこで各自一袋の銭を持って、食事をするための費用に充てれば、行旅の労を省き、往復の便が増すことになる。国司や郡司は、富める家々から募り、米を街道で売買させよ。」

(3)藤原仲麻呂の対策
 儒学に深く傾倒した仁政家として藤原仲麻呂は、民衆の負担軽減に心を砕きました。
・常平倉の設置
 天平宝字3年(759)5月に設置されたもので、唐の太宗による同名の政策に倣ったものとされています。前漢の武帝の平準法と同じ発想で、米価が低い時に買い入れ、高い時に売り払うことで、米価の平準化を図り、その利益を運脚にあたる人夫の救済に充てました。
・庸調の諸国一郡免除
 諸国から毎年一郡を選んで調庸を免じたもので、運脚自体が少なくなるようにしました。
・防人の徴発地を東国から西国へ変更
 これまで防人は東国(東海以東)から徴発していたのを西国からへと変更しました。防人に赴く経費も自弁でしたから、これも広義の”運脚軽減”になりました。

 このように運脚コストの軽減に取り組んだ奈良時代の政治家達ですが、根本的な解決ができないまま、律令制は負名体制へ移行することになります。

3 現代の運脚の試算

 1で見たように国税庁は納税協力費にはまったく関心がないので、公的な統計はありませんが、大阪産業大学教授(当時)の横山直子先生が試算を行っています。その結果は平成20年において、次の通りです。
・申告所得税 1,625億円(100円当30.8円)
・源泉所得税 9,920億円(100円当11.6円)
・消費税   7,116億円(100円当 9.8円)
 具体的な計算方法は論文(直リンクなのでクリックするとDLが始まります)を見ていただくとして、狭義の徴税費100円当1.9円(平成21年度)と比べると、目を疑う大きな数字になっています。軽減税率とインボイス導入前でこの数字ですから、令和5年現在では消費税を中心として更に上昇しているはずです。

4 納税協力費の様々な捉え方

 ここまでは、”納税協力費”を「納税者が税額の計算、申告事務、税金の送金等に要する費用」という直接的な面でとらえてきました。学問的には、これは”納税協力費”の捉え方の一つであり、「課税による経済的厚生の損失等の直接的な費用負担以外に課税がもたらした費用」という捉え方もあります。この面からとらえた代表的なものが「間接税の死荷重」です。
・広義の納税協力費=直接費用+経済的厚生の損失

 ちょっと散漫な文章になってしまいましたが、莫大な納税協力費が実質的な税金としてあることを認識してもらえれば幸いです。