静岡県下三州有志による国会開設建白書(意訳)

 口語訳と書きたいところですが、原文には、私では来歴がわからない故事成語?や古書からの引用があったので、ところどころ、省略せざるを得ませんでした。「意訳」というのがせいぜいの代物です。
なお、出典は「静岡県近代史研究業書2 静岡県の自由民権運動」です。

静岡県下三州有志による国会開設建白書(明治13年12月)

 静岡県下伊豆駿河遠江三州の有志一万五千七百三十五人の総代として、磯部物外が元老院議長に意見を提出する。

 国民は国家の大本であり、政府の事はすなわち国民の事である。政府の力はすなわち国民の力である。政府の財はすなわち国民の財である。
 政府は民心に従い、国家の憲法を定め、国民を国政に参加させるべきである。そして、国家の憲法を定めようとするならば、まず国会を開設する必要がある。
 これは人々が勝手にしている言説ではない。天下の正道であり、開明諸国で広く行われていることである。
 天皇陛下は維新の初めにおいて、万機公論に決すべしと誓文を発され、明治8年4月14日に暫時立憲政体を設けるべしと聖詔をくだされた。これは国会を開設する意思を示されたのに他ならない。
 今、国内の様子を見ると、政典の華、文物の美は江戸時代にはるかに勝り、ほとんど、欧米に劣らないように見える。しかしながら、冷静に状況を見れば、対外的には、条約上、対等の権利を得ることができず、国内的には、経済上の困難を抱えている。こうした状況の原因は旧幕府の失政にあるが、根本的な要因は我が国の国際上の地位が未だに向上せず、国力が充実していないことにある。
 我が国の地位を向上させ、国力を充実する方法は、憲法を定め、国会を開設する以外にない。今、国民は、その時機が到来したことを確信し、国中から国会開設を請願する者が数十万人にのぼっている。静岡県民も、町に住む者、田舎に住む者を問わず、国会開設を望んでいる。これは干天に慈雨を願うのと同じことである。
 以上が、今日、建言を行う理由である。
 西洋史を見るに、国会というものは民衆の請願に応えて開かれるか、民衆が暴力によって強制するかである。しかし、政府はこうした歴史を考慮せず、国民には立法について請願する権限はないとか、請願を受理しなければならないという法律はない、と言って、請願を退け、疎んじている。このまま民心を無視し続ければ、不測の事態を招きかねない。
 そもそも、立憲政体の国と非立憲政体の国では、どちらが強国か。これを例えれば、1本の太い杖なら子供でも折ることができるが、一本一本は細い杖でも10本を束ねれば、強健な男でも折ることができない、のと同じことである。
 我が大日本帝国は天壌無窮の皇統を伝えてきたが、今や外国人が国内に跳梁跋扈している。中には、虎視眈々と我が国の隙を窺う者もいるだろう。その企みを防ぐには、全国民が団結し、国防のための力となることが大事である。そうすれば、我が国の安全は富士山のように盤石となり、皇統も無窮となる。全国民をして国防の力とする方策は、国会を開き、国民を国事に関わらせることのみである。
 維新以降、国民の中には政府に対して猜疑の念を持ち、叛旗を翻す者もいた。そうした者は、皆、政府の意図を知ることができない者であった。それを考えれば、国会を開いて上下の隔たりを無くし、官と民の意思を通じて、国民を国事に参与させることが必要である。そうすれば、我が国の地位は向上し、富国強兵も実現し、さらには、我が国が外国を凌駕するに至るであろう。
 今日、各地方の民衆は続々と団結して国会開設の請願をしている。権理を回復したいと願う国民は多い。そうした者の中には、世事に慣れていない年少の者もいるが、国会開設を熱望する心に老若は関係ない。どのような議論をしているかが肝要である。国会開設の議論をしている者の中に軽挙妄動をする者がいることをもって、請願者がすべてそのような輩だと断じる言説があるが、まったく、とんでもないことである。
 時節到来の今日、民心の向かうところに従って、政府は速やかに国民の代表を招集して、国是を議論させ、国家の大本を立てるべきである。そうすれば、万世無窮の帝業はさらに強固になるだろう。
 元老院議長閣下におかれては、時機を見て天皇陛下に奏上されんことを願う。