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裏作への課税は道理に反する-文永の田麦課税禁止令-

 鎌倉幕府は正統性(legitimacy)に欠けた分、正当性(rightness)を意識して真面目に政治を行ったことで知られます。また、その判断はその後に続く武家政権において先例とされました。今回は、そんな鎌倉幕府らしい判断のお話です。

 文永元年(1264)、備前・備後(今の岡山県東部と広島県東部)に鎌倉幕府から命令が発せられました。

「諸百奴田稲ヲ刈取ルノ後麦フ其地二蒔キ田麦卜号ス,領主時其所当フ徴取ス,租税法量然ル可ンヤ, 宜ク備前備後両国ノ家人等二令シテ自今以後之フ徴取ス可ラス」

(意味)百姓が稲を刈り取った後に作る田麦に課税することを禁止する。この旨を備前備後の御家人等に命じよ。

 この頃から西日本で普及してきた水田の裏作(二毛作)として植えられた麦=田麦に対して課税することを禁じたものです(一般の麦作には課税されました)。以後、この課税禁止措置は秀吉の一時期を除いて江戸時代末まで引き継がれます。

 この命令が出された背景について調べると、「従来、稲を刈り取った後の水田は誰にでも放牧等が許されていた開放地であった」というような説明がなされるのですが、個人的には「なんで、そんな難しい話を持ち出すのかなー?」と思っています。というわけで、4は個人の説となります。

1 当時の田畑はどのような仕組で耕作されていたか
 班田収授法が崩壊した後、耕地は「負名体制」と呼ばれる方式で耕作されるようになります。政府は班田(公領)を”名田”と呼ばれる単位に再編成します。その耕作を”田堵”と呼ばれた一種の農業法人に請け負わせます。そして、名田の耕作を請け負った田堵そのものを”負名”と呼ぶようになりました。私領(荘園)でも、田堵に請け負わせることが一般化していきます。

2 負名体制下での課税
 名田の耕作を請け負った田堵は、租や公出挙に由来する”官物”と調・庸・雑徭に由来する”臨時増役”を国衙(税務署)に納めます。荘園であれば、荘園領主に納めます。官物は後に本年貢へ、臨時増役は公事方へと変質していきます。
 負名体制下では、課税と言う権力的な関係に、請負という契約要素が加わったことになります。

3 負名から名主へ
 最初、田堵は1年契約で耕作を請け負っていました。しかし、安定した耕作には水路整備などの設備投資が必要です。請け負わせる側としても、成績優秀な田堵なら継続的に耕作させた方が確実に税金を徴収できます。両者の利害が一致した結果、1年契約だったものが複数年化し、それが固定化していきます。
 こうして、単なる請負人であった田堵はその名田に対する実質的な権利を強めていきます。その結果、名の主という意味で”名主”と呼ばれるようになりました。

4 ”道理”に従って判断した鎌倉幕府(個人の説です)
 以上、平安中期から鎌倉期までの土地の耕作と課税の変遷を概説してきました。請負契約という要素があることを考えれば、当時の課税権はその土地で収穫された農作物に対して無制限に行使される性格のものではないことになります。定められた税金(米作に対するもの)を納めた時点で、請負契約としての納税は完了したことになるわけです。
 そこに更なる税金を課すのは、”道理に反する”と幕府は判断したのだと思います。
 私がそう思う根拠として、裏作の権利を巡っての訴訟が行われています。先ほど、田堵を一種の農業法人と表現しましたが、田堵は自らの家族(親族)従業者や譜代民(下男・下女)だけで耕作をしていたわけではありません。他の独立農民や田堵へ下請け(小作)に出してもいました。そして、裏作の権利は田堵に属するのか、下請農民に属するのかを巡っての裁判が行われました。判決は田堵に属するでした。その土地に対する納税義務を負う元請者に裏作を行う権利もある、これも道理に沿った判断だと思います。

 自らの支持基盤の利益を損なっても、道理に基づいた政治を行った鎌倉幕府のお話でした。
 そして、道理よりも支持基盤の権益を優先する政治に転換した霜月騒動以降、鎌倉幕府は滅亡への道をたどり始めます。