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小便公方 銘酒を生む

酒造地”灘”と規制緩和

 9代将軍徳川家重は、脳性麻痺による言語不明瞭や排尿障害のため、大奥にこもりがちで、酒色にふけったとされています。一方、政治は幕閣に任せ、父吉宗の享保改革の余禄で16年の将軍位を無事に全うした。要するに、”無能無気力の名君”として描かれることが多いです。”小便公方”はそんな彼につけられた口がさないあだ名です。
 その真相は後に論ずるとして、在位中に出された「宝暦の勝手造り令」は、日本各地、特に灘で酒造業が発展する契機になりました。酒造に関する一大規制緩和となった「宝暦の勝手造り令」に至る経緯を追ってみます。

1 典型的規制産業としての酒造業
(1) 武家政権による酒造統制
 酒造には米が使われます。それゆえ、飢饉時を中心に、しばしば、酒造統制令や禁酒例が出されました。武家政権による最古のものがは建長3年(1251)、鎌倉幕府が発布した「沽酒禁制令」だと言われています。
 室町時代においても、酒造制限こそ出されなかったものの、やはり飢饉時に禁酒令が出されました。又、酒屋に課された税金である”酒屋役”は室町幕府の重要財源であり、織豊政権にも引き継がれました。
(2) 江戸幕府の酒造統制
 江戸幕府による具体的な酒造統制の始まりは、寛永11年(1634)の酒造制限令です。これは京都、奈良、大阪等の主要醸造地に醸造量を1/2にするよう命じたものです。続いて寛永20年(1643)には、商業用の醸造を都市部に限定して、農民の酒造りを禁止した”在方酒造禁令”が発布されました。最終的に、明暦3年(1657)に酒造株の制度をつくります。株を持たない者の酒造は禁止され、株券を持つ者も記載された石数(株高)以上の酒造を禁止されました。又、しばしば、株高の〇割までに酒造を制限する禁令が出されました。
 以降、寛永11年から幕末までの234年間に実に67回の統制令が出され、そのほとんどが制限令でした、
(3) 伊丹における酒造の繁栄
 こうした厳しい統制の下で発展したのが、伊丹の酒造でした。伊丹は池田や鴻池といった近隣の酒造地より沿岸部に位置し、輸送コストで有利だったのに加えて、領主の近衛家による保護(禁令緩和)、丹醸と呼ばれる独特の醸造法、専用舟を使用した効率的な輸送法で江戸への出荷で優位に立ち、一大酒造地としての地位を確立しました。

2 米将軍の遺産
 ”米将軍”は父吉宗の異称です。幕府財政を立て直そうとした吉宗は、無益な新田開発のあげくの苛斂誅求(筆者の悪意剝き出しです)で年貢徴集量を増やしました。一方、吉宗は市場価格という概念は理解していました。そこで彼が利用しようとしたのが米相場です。増徴した米を相場操縦で高く維持した市場で売り抜け増収を図るというのが吉宗の意図でした。
 もちろん、そんなことがうまくいくはずがありません。いつの時代でも相場操縦は長期的には市場からしっぺ返しを受けます。吉宗もその例に違いませんでした。
 堂島米市場の用語で越年米というのがあります。米蔵に送り込まれたにも関わらず、年内に売買が成立しなかった米を指します。
 吉宗の年貢増徴政策により、この時期、大量の米が大阪に送り込まれます。その結果、越年米の量は宝暦2年(1752)には189万俵、翌3年には249万俵に達します。その結果、幕府の買い支えにも関わらず米価は10年前の2/3までに暴落します。相場操縦のための費用も加わって、幕府財政は窮地に陥りました。

 家重は享保改革の余禄どころか負の遺産の清算を迫られていたのです。

3 ”勝手造り令”へ
 幕府は実需に支えられた米相場の上昇が必要だと判断します。そこで出されたのが米の消費拡大策としての「宝暦の勝手造り令」です。主食である米を無駄遣いする悪者として酒造を制限してきたそれまでの政策から180度の転換です。
 その内容は次の通りです。
① 酒造株の保有者は株高まで酒造してよい。
② 株を持たない者も奉行所へ届け出れば、酒造してもよい。
 実は、この前から米余りを認識した幕府は株を持たない者の酒造を黙認していました。「勝手造り令」はそれを公式に認めたに過ぎませんが、酒造地に与えた影響は大きなものがありました。

4 在方酒造地”灘”の勃興
 規制の中の小さな競争で優位に立っていた伊丹の酒造とは対照的に、灘は寛政以降、公式には酒造を禁じられてきた地域でした。しかし、この地域は江戸初期から菜種や綿作を中心とする商業的農業が展開されていた先進地域でした。又、「質地取扱の覚」、「身代限り法」によって、資金と土地の両面で上層農民への集積が進んでいました。
 伊丹に比して更に輸送に有利な海岸沿いの立地、上層農民の豊富な資金力、土地を失った無高農民の労働力と条件が揃っていたところに「勝手造り令」が出されたのです。
 この後、天明の飢饉まで約30年にわたる規制緩和の時代が続いたこともあって、灘の酒造は発展していきます。一方、伊丹は相対的にその地位を落としていきました。

5 灘の酒造その後
 松平定信の寛政の改革は酒造業についても統制を強化していきました。灘も規制の網に取り込まれた上に、灘を狙い撃ちにした課税も行われるなどして、その成長も頭打ちになります。しかし、この間、新興醸造地の灘では水車精米の導入、寒仕込みへの一本化といった技術革新が進んでいました。
 そして、米価の低落傾向が表れた文化3年(1806)、再び、勝手作り令が出されます。この文化・文政期に灘の酒造は飛躍的な発展を遂げます。その後も”宮水”の発見が加わり、現代に至る地位を確固たるものにしました。

6 家重は無能無気力の名君だったのか
 歴史学会の主流は家重を冒頭に書いたようにとらえています。異論を唱えているのは、wikiベースだと、某逆説歴史作家と憲法学の先生で、歴史学会とは距離がある方々です。しかし、個人的にはお二方に組したいと思います。
 家重の事績で特徴的なのが勘定吟味役(今の会計検査院に相当)の実質的な設立です。それまでの吟味役は独任で、検査の手足になっていたのは勘定方の吏僚でした。つまり、自分のした仕事を自分で検査していたわけです。
 その結果がどうなるかは、各地の事務事業評価シートで読者の皆さんもご承知の通りです。家重は吟味役に部下をつけ、組織体にしました。”実質的な設立”と表現したのはこういう意味です。
 会計検査院というのは事務執行における御庭番ですから、官吏にとって、うっとおしいことこの上ない存在です。従って、その設立は有能な専制君主と切っても切れない関係にあります。

 勘定吟味役を設置した綱吉も愚かな犬公方から有能で専制的な将軍へと、その評価は変わっています。家重が例外扱いされるのは、どうしても納得がいかないのです。

※ 次作は、後北条氏の減税政策を取り上げる予定です。