怒りの話

最近の私は怒ることがほとんどないです。

母のお腹にいるときに「怒りの感情」を全部置いてきたんじゃないかな??と思うくらい、今の私は持ち合わせているはずの怒りが抜け落ちている感じがしますが、もちろん全然そんなことはなく、子供の頃から一貫して私は、完全なる怒りの塊でした。

いつから今の状態になったのかはよくわからないのですが、『不登校の話』で振り返った時期のどこかで、怒りの感情をぽろっと落っことしたタイミングがあったように思います。

ただ、どこかのタイミングで丸ごと全部落としたのではなく、いつの間にか破けた砂袋の中身が歩いているうちに少しずつこぼれていった感じで、段々と怒りが薄れ、失われた感覚があります。


私は今年でTwitter歴10年になるのですが、この10年間を漠然と眺めてきて思うのは、昔よりも今のほうが目に見える「怒り」の流量がはるかに多いです。

流れてくる怒りの中には、そりゃ確かに怒りを抱いて当然だと納得できるものもありますが、割合で見れば「あなたは何でそこに怒りを抱いているんですか…?」と感じるもののほうが多い。

それが良いとか悪いとかではなく、なんかみんなよくわからないものに対して自由に怒っているなぁと思っています。

私としては、怒るのは疲れることだし、怒りのリソースを割くのはよほど大切な・大事な事柄の・ごく限られた機会に留めるのが気楽でいいと思っていますが、安売りできる怒りがあるなんて、みなさん大したパワーだと思います。

そして、その安売り状態には私にも身に覚えがあります。


怒っている人を見るたびに、私にも怒りがあったことを思い返しています。

怒りがあった頃の私は、いつも何に怒っていたのかといえば、その内実は「完全に自分に対して怒って」いました。

どうしようもなく、爆発的に自分への怒りが充満していました。ただそれを直接自分にぶつけることはできないため、周囲に撒き散らす形で怒り狂っていた印象です。

怒っていた頃の私は、さっきの「砂袋」を大事に大事に、空気に触れさせないように守っていた気がします。砂袋を傷つけないようにした結果、それが外だけに刃を向けることになっていましたし、その生き方しか知らない時期が確実にありました。

私の砂袋の中身は、「期待」とか「焦り」とか「普通でありたい」「なぜ普通になれないんだ」「こんなはずじゃない」「もっとこうあるべきだ」「誰か助けて欲しい」などなど、全体的に自分の中に正解がない問題や感情が主だった気がします。自分の核にある混沌をまだまだ捕捉できていなかった。

自分の外側に必死に何かを求めて、内側にあまり目を向けないでいる間は、ブチ切れていることが多かった。内側に目を向けないでいるために、積極的に外側に対してブチ切れていた。それで何かをかろうじて保っていた。まあそんな感じでしょう。


暴れているうちに砂袋に穴が空いて、ほとんど全部こぼれて今に至っています。

今となっては当時の怒りを思い出せないレベルで「あれは何だったんだろう」と思っていますが、あれこそが輝かしい若さそのものにも見えます。

その意味では、純真な怒りに対する憧れが今となっては若干あります。きっと当時は、今では失われた独特の光が私の目にも宿っていたことでしょう。

あれからもうそんなにピュアじゃなくなってしまい、私は私を許せていて、納得できています。怒るのをやめたら本当に毎日が楽しいです。


自分の中に正解がない問題について、心を砕いたり怒ったりするのはエネルギーの無駄です。そうした行動を取ってしまいがちな時は、自分の中にそびえているもっと大きな問題によってそのエネルギーが生まれてしまっているように感じます。

その無限に生じる「激怒エネルギー」こそが様々な原動力にもなっていたりするんですけどね。それで私は小説を書いたり絵を描いたりしていました。私がバンドだったらファーストアルバムの帯に「初期衝動」とか書かれていそうな時期のことです。

でも私はもう、穏やかに燃費を良くして生きたい。

そう思ってから、ようやく人生がスタートできた気がしています。大袈裟な言い方をすれば、怒りの奴隷をやめられてからが人間は本番なんじゃないかなと私は考えています。

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zenpoly

何かしら書いています。
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