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わたしはレイシストなのかもしれない

このニュースを見たとき、「ああ、だからおじさんだけの会議は何も決まらないのか」と思ってしまった。そして、それは、『差別』だと思った。

この話題、たくさんの人の怒りを買うのは当然だ。「女性=〇〇」は、ポジティブであれネガティブであれ、この世で暮らす全ての人々に対して失礼だと思う。ひとつのカテゴリーだけを取り上げて、そこに括られる人を勝手なイメージで、一人ひとりの存在を無視して、バックグラウンドだけでその人を決めつける。それはとても無礼なことだ。

でも、わたしも同じ思考回路を辿っていた。

以前、勤めていた職場の管理職は、ほとんどが30〜40代の男性だった。人数も多かったので、システムにエラーが生じるのはしょっちゅうで、管理職に意見を求める度に「管理者会議で決めるから」というような返答だった。そうして、会議が開かれるのを心待ちにし、業務終了後にその場へ向かう上司を祈る気持ちで見送った。でも、会議が終わって帰ってくる上司の返答の大体は「もう少し様子を見ることになった」だった。

わたしの中にある、しょうもない『おじさん』への差別は数え切れない。

・おじさんは主語がでかい
・おじさんは女性差別やハラスメントをしないように気をつけてるだけで、心の中ではあって然りと思っている
・おじさんは「高級なお店より安い居酒屋のほうが落ち着く」と言えばかっこいいと勘違いしている
・おじさんは「闘う」とか「守る」とか言いたがる
・おじさんは学歴や年収を聞きたがる、そうして自分より上か下か気にする
・おじさんはSNSと絵文字の使い方が不自然で気持ち悪い…etc

もちろん、非該当の『おじさん』もいる。というか、気づいたらわたしは、話をするときに相手が自分の嫌いなタイプの『おじさん』かそうでないか気にするようになってしまった。相手が女性ならそれはあまりしない。如何せん理解しがたい思想をお持ちの女性も中には大勢いるが、まあ体調もあるしね、と大らかな気持ちで接することができる。でもそれが『おじさん』だと、めっちゃイライラする。ああ、もう立派なレイシストだ。どうしようもない。

ひとつ、弁明させていただけるなら、こうなるまでにはそれなりの経緯がある。勝手に信用していた人のコンプライアンスがとんでもなく女性軽視だったり、そもそも女性軽視だったり、相談してたのに自分の持論を展開して反論したら勝手に機嫌を悪くしたり、自分より下の立場の人には強気なのに面識が薄かったりすると途端に丁寧に対応してすきあらばマウントを取ったり。

相手が中年以降の男性だと途端にわたしは身構える。「こいつ、大丈夫かな?」と出会って4秒で即、『おじさん』を心の中で“こいつ”呼ばわりする。


だから、この件に関してわたしは発言する勇気がない。全てを許し許容することが多様性だとは思わないけど、ひとつひとつ批判して回る気力はない。だからすぐに距離をとる。そして結局、見ないふりをしてしまう。

随分と良い世の中になったもので、「女なんだから…」とか「女のくせに…」とか、直接言われることがほとんど無くなった。そんなことを言うのは、もはやしょうもない『おじさん』くらいなのだ。だから、そういう思想と直面した瞬間に、わたしという人間は「こいつはしょうもない『おじさん』だからしょうがないな、無視しよ」と思ってしまうのだ。

以前、(たぶん)まあまあの先輩である男性の理学療法士の方が「飲み会で女性にセクハラを拒否する権利を与えなきゃいけない」みたいなことを仰ったので、咄嗟に「今のは女性に対して失礼です」とはっきり言い放った。すると彼は手のひらを返したように平謝りし、それでも何かしら議論を展開したけど、内容はよく覚えていない。たぶん、わたしは知らないうちに自分の見える世界を整理しているのだと思う。わたしみたいなことを言う奴、しかも女には、そういうしょうもない『おじさん』は近づかないようになっていくのだ。

そうして、しょうもない『おじさん』たちは、そういう口うるさい女(でも最近は男女問わずに、“口うるさい”人がいるから暮らしやすいよね)がいないところで「女のくせに…」を展開する。そういうときに、「NO」を突きつけられる人が居なくなってくると、森喜朗氏の件の発言みたいな事態になるのだと思う。裸の王様とは、まさにコレである。

では、わたしはどうだろうか?
先述したしょうもない『おじさん』について、実は公の場では絶対に口にしないよう、心がけている。でも、ふとした気の緩みで口走ってしまうこともあるし、基本的に思ったことが口に出るタイプなので、気づかないうちに『おじさん』批判をしているのかもしれない(最近はやりのclass roomなんてもっとも危険なコンテンツだ)。実は、そういう恐怖とも闘っている。

でも、やはり「NO」は言うべきなのだと思う。現に森氏のような裸の王様が誕生してしまったのだ。誰かが言わねばならないことは、僭越ながらわたしが言ってせんじよう。そんな風に思うのである。

とは言え、わたしの中に潜むレイシズムは、わたしの心の柔らかい場所を今でもまだ締め付けている。きっとこうやって、見張られながら生きていくのだと思う。でも、それはすごく生きづらいのかもしれないけど、健全ではあるのかもしれない。知らないうちに誰かを傷つけないために、自分自身を律するのは、悪いことではないように思う。




読んでいただきありがとうございます。まだまだ修行中ですが、感想など教えていただけると嬉しいです。