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小さなバー

何という事のない町のとあるビルの地下でさん
ざん色々なことがあった末に小さなバーを営んで
いる 最後の客がしばらく前に帰って 店じまい
をした後に カウンターで一人書き物を始めた
といったシチュエーション そのような本を読み
始めた そういえば以前店舗運営をしていた
時期があったのを思い出した 一度だけ計画停電
にそのエリアがかかったことがある ほぼ駅前
と言ってもいい新しい雑居ビルの七階に店舗は
あった 嵌めころしのまどから駅前通りや向か
かいのビルの午後のバレエ教室が見えた 白
や黒のレオタードで行き来する幼児のいる階
の 外階段の踊り場で染めた髪の落ちかかった
女たちが向かい合って煙草を吸っているところ
を見た ひとときそのビルの一階から地階へと
いたる階段のショーケースに真っ黒なストラト
キャスターが飾られていたことがあった その
店は電器屋だった そこから十五分ほど歩いた
ところで生まれ育って 今も住んでいる

こつこつとドアを叩くものがある こんな夜中に
もう閉めたバーの扉 書きさしている手を停めて
身構える そういえば閉店した後の七階の鉄
扉を一度激しく叩かれたことがあった その階
にはいつも遅くまで灯の消えない不動産会社
と予備校が入っていて フロアに一人で残る
という事は一度もなかった 相手の見えるモニタ
ーなどはまだ取り付けられていなかった アイボリ
ーの鉄扉がかんかん叩かれる響きを聞きながら
身を固くして息をひそめた 同じ職場の別の部門
で夜中に職場に侵入する癖のある男が防犯
カメラに記録されて諭旨解雇されるという事が
あった 何か職場への不利益になる仕組みを
仕掛けようとしたのか それとも昼間の誰かの
ぬくもりの残滓を嗅ぎ取りに来たのか とにかく
何度も夜中に誰もいない職場に来ては一時間
ほど暗い中にいた

昼に何度も訪れた大きな公園の近くにある整備
工場の前の通りを夜中に通ることがあり その
とき真夜中にもかかわらず受付のカウンター
でうなだれている人の頭が見えた 私の取引
相手かどうか頭頂部だけで見分けがつくことは
なかったが恐らくその人であろうことは想像で
できた 以前は専門商社に勤務していて 中東
赴任の公募に面白そうだったからと言って挙手
をして 灼熱の砂の国にしばらく暮らしていた
人だった 見上げるような刑務所に似た高い
塀の 見張り塔に機関銃を構えた兵士が見張る
建物の中に商談に入っていく まばらに植えら
られた街路樹の大きな枝の上に男たちが半裸
に生っている 暑すぎて昼間には仕事にならない
らしいが かと言って夜に働いているという事でも
ないらしい 時折煙草は吸うけれど 戒律によ
って酒は飲まない その頃の方が今よりも何
百倍も楽だった と酒の席で打ち明けられた

そのような話を色々な人から聞いて それだけ
に飽き足らずに本を読み漁ったりする つまり
人の話が聞きたい 人の事を知りたいのだろう
かと自問してみる そうかもしれないし違うの
かもしれない そして読み書きした後に何らかの
書き物をしたくなったりすることは吐きだしてい
るのかもしれないし別の何かを隠しているのかも
しれない もしかしたら 夜中にドアを静かに
叩き続けているのかもしれない とはいえもう
栄養士の話を聞くのはうんざりだ 若い栄養士
から聞く何もかも もう何一つ得るところなどな
い どのように生きてきたのかそんな手合いに
何一つわかられたくもない 茶碗一杯の白米の
量などコップ一杯の水と同じだ

カウンターの上で氷を一つ入れた水が汗をか
いて水溜まりになっている どのような種類で
あれ 酒をのむのは遠い昔にやめていた 地下
のバーでそれほど親しくない人と酩酊した後
階段で地上に出て それから快速と各駅の
平行するホームに別れた 向こうのホームに
ゆるゆると歩いて行くその人の足取りが見えて
その向こうに繁華街のとりどりの明かりが点滅
しているのを知覚していた もう用もないという
風にこちらを振り向くこともなく店じまいをしてい
るバーの扉に鍵がかかった

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