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「チェシャねこ同盟」4

 ある日、トマスは51%ガールに思い切ってこう言ってみた。
 「知ってる?君、アリスって呼ばれているよ」
 と。
 アリスの誘惑症候群に関して、51%ガールはにやにや笑いを抑えられないようだった。
 「もちろん知っていますとも」
 にやっ。
 「おもしろいわね、あなたたちって、やっぱり」
 にやにやっ、というような具合だ。
 「それで、君はアリスなの?」
 というトマスの真剣な問いかけにも、にやにや笑いながら、
 「わたしはどう呼ばれても返事するわ」
 と答え、ぷっと吹き出す始末。
 「そんな適当な…」
 トマスは呆れていいのか、怒っていいのか分からず、こう畳みかけた。
 「それで、君が甘ったるいユートピア論を話しては患者を洗脳しようとする、なんて言い方で病気の解説をしている医者もいるけど、それもどうでもいいわけ?」
 「ああ!だって、それは間違いなく妬いているのよ。そんな言い方する人たちってきっと、わたしが目の前に現れないから悔しいんだわ!」
 にやっ。
 しかし、それから彼女は少し居住まいを正し、こう続けた。
 「でも、わたしって存在は、みんながビビるような大きなプロジェクトじゃないってことは知っていて欲しいわね」
 「そもそも君がプロジェクトだったっていうのが、初耳ですね」
 「だって、存在するものはすべてアイディアの具現化でしょ?だから、生きていることはプロジェクトの真っ最中ってことじゃない」
 きょとんとした顔で、彼女はトマスを見る。
 「え、僕もじゃあ、プロジェクトを遂行しているの?」
 まるでトマスがジョークでも言ったように、51%ガールは笑いだす。
 「そうじゃないものがあるの?」
 無邪気そのものの顔で笑いながら、彼女は言う。
 「そうなんだ」
 「妙にわたしに怯える人もいるのよ。ガキがきれいごと言っているだけなのにね。ふしぎだわ」
 「まあ、別に弁護するわけじゃないけど、今の人類ってちょうど子供でもないし大人でもない、みたいな雰囲気あるだろう?もう子供には戻れないんだけど、大人にはもう一歩足りない、的なさ」
 「ふむ」
 51%ガールは腕を組んで神妙な顔で頷いたあと、大あくびをした。
 「ウソだろ!?君、人類に興味ナシじゃないか!」
 「ジョークよ」
 目をシバシバ瞬きながら彼女は笑う。トマスはしかめっ面になった。
 「いや、今のはガチだった。ガチあくびだったよ」
 「まさかまさか。そんなこと無いって」
 「どうだか!」
 トマスは胡散臭そうに51%ガールを見た。
 「君って気まぐれだしなあ。もしかして、人類に飽きたんじゃないの?さっさと絶滅しちゃえとか思っていないよね?」
 「くだらないこと言わないの」
 少女は顔を何度もぶんぶん横に振った。どうにも目を合わせようとしないので、トマスは当たらずしも遠からずではないかという嫌な予感がした。
 「ともかく!
 わたしはビックプロジェクトじゃないし、特別な存在でもないってことは、分かっていて欲しいわ。
 わたしがふつうと違って見えるとすれば、ただ単に自分の才能を引っ張りだして開かせるトリガーを知っているだけなのよ」
 「え、なんなの?君にとっての才能の引金って」
 「美しさと、ユーモアと、ユニークさ。こういうものがなければ、わたしにはこんな魔法みたいなことできっこないの。いつもどれほど感謝しているか。わたしのこのエキセントリックでファンタスティックな才能を表にぐいんと引っ張り出してくれる波長がこの世界にあふれていることに。
 だからわたしは、お礼に誰かの才能を引き出す引金であれたら嬉しいって思って、あなたたちが言うところのアリスの誘惑プロジェクトをやっているわけなのよ。
 もし、わたしといるとき、その人の身体が開いて、ハートから芽が伸びて天とつながって、
 『あらあらなんだかのびのびした心地。不思議ね、りんりんと勇気にあふれて、なんだか世界にわくわくしてきたわ』
 みたいになってくれたりしたら、
 『あ~、試しに生まれてきてみて本当に良かったわ』
 ってわたしはしみじみ思うでしょうね」
 トマスは夢から覚めたようにぴくっと一度瞬きした。
 「なんだか今の話、ちょっと感動的じゃなかった?」
 「そう言う割に訝しげな顔じゃない」
 「うーん?恐らくはまだ不審が拭い切れていないんだろう」
 「あらそう。まあ、いいわ。信じようが信じまいが、あなたの勝手ですものね。
 いずれにせよ、わたしがどんなにものすごおおおおおおく変わっていたとしても、人類を脅かすような存在ではないってことはお伝えいたしましたからね。
 そもそも物質的にはちょっぴり魔法じみているけれど、それ以外はほとんど人間と同じシステムでできているんだから。わたしってお腹も減るし、泣いたり笑ったり怒ったりするでしょ?」
 「好きに消えたり現れたりできる以外は人間と同じ?」
 「そう。天使と違って精神構造もあなたたち人間と同じなのよ。とってもへたれだし、やたら傷つくし、すぐに逃げるし…」
 「ちょっと待ってよ。君が?」
 「だから、そうだったら!」
 「そんな風にはまるで思えないな。中身も十分浮世離れしていて超越的なように僕には感じられるよ」
 51%ガールはしばし思案した後、口を開いた。
 「そうね。違いが無いわけじゃないわ。確かにわたしは、ほとんどの人類がまだ持ち合わせていない強みを手に入れているかもしれない」
 「強み…」
 トマスは眉を上げて目を見開く。
 「何なの、それは?」
 「他者の中に憎しみや残酷さを見たとき、これはわたしの中にもあるものだと認めることができること」
 「冗談?」
 トマスは不穏な表情で眉をひそめた。
 「マジ」
 彼女は、静かにトマスの瞳を見つめる。
 「マドレーヌの薄紙くらい弱さをめくっただけで、他者に対してどんな残虐なことでもできるわたしがいるわ。
 ぱくっとかじってごらんなさい、シュークリームみたいに卑怯者や偽善者の部分があふれ出してくる。
 スプンでくるんと一混ぜする程度かき回されたくらいで、ポップコーンマシーンがポップコーンをぽんぽこ放り出すみたいに猥雑なアイディアが浮かぶんだから」
 トマスは口をぽかんと開けた。
 「ひどい顔」
 ぼそっと51%ガールは呟く。
 「まあ、ドン引きしていただいて結構。事実は事実よ。
 でもね、わたしがそんなドン引きな面を持ちあわせていたって、ワクワクすることを考えちゃいけないってことはないじゃないって、思うのよ。
 弱さや残酷さを持ち合わせていようと、くだらないことや面白いことをしたっていいでしょう?美しい世界を、創造したいと願ってもいいじゃないの。
 誰しもその内側に色とりどりの側面を持っている。わたしも…」
 51%ガールは、自分の胸を人差し指でつっつく。
 「あなたも」
 トマスの胸を人差し指でぐいっと押す。
 「つまり、色とりどりの可能性を秘めているってことよ。わたしはそんな色とりどりの選択肢の中の、最も神々しくて、最も初々しくて、最もバカバカしい道をおすすめしたいわけなの」
 「君って本当に一筋縄じゃいかないな。深遠さとおちゃらけが渾然一体となって得も言われぬ迫真さを醸し出している」
 彼女は亜麻色の髪をかきあげながら無邪気な笑い声を上げた。
 「その言い方、ヘンなの!」
 「君がヘンだから仕方ないさ」
 「笑ったらお腹減っちゃった」
 「ああ!そろそろだと思った」
 運がいいことにその時トマスは、彼が世界一だと思っているベーカリーのクッキーを五袋(四個入り)も買ってきたところだった。
 「ねえ、こういうのはご所望じゃないかな?」
 彼は白の紙袋に白のリボンが結ばれたココナッツクッキーの美しい袋を見せた。途端、51%ガールの目が輝く。
 「やるう!」 
 彼女は彼の腕にからみついて歓声を上げたのだった。
 トマスが件のアリスの誘惑症候群について知ったのは親戚の一人がその病気にかかったせいだ。クリスマスにアンソニー大叔父さんの家に遊びに行ったときに、彼はその話を聞いたのだ。いとこのキャザリンが友達を連れてくると聞き、トマスは張り切ってクリスマスの二日前に屋敷を訪れていた。ところが、列車が雪で往生してキャザリンたちはその日の内に来られなくなった。
 暖炉の前でウトウトしているトマスを見つけたアンソニー大叔父の妻ミネルヴァ夫人は、さも楽しいことに誘い込むようにウキウキしてトマスを台所に放り込んだ。こうしてトマスは、ミネルヴァ夫人と母親と一緒に、クリスマス用の揚げ菓子だの、プディングだのを作るのを手伝わされることになった。
 「ハンスのことお聞きになって?」
 ミネルヴァ夫人は手元ではしっかりとトマスに生地の成形を指導しながら、顔はトマスの母親の方を向けてそう切り出した。
 「ええ。驚きました」
 「わたしも。初めて聞いたわ、アリスの誘惑症候群なんて。トニーが調べて教えてくれましたけど、ここ数年で患者数が急増しているのですってね」
 トマスの怪訝な顔を見て母親が、
 「ドロテア叔母さんのご主人の話よ」
 と、声を潜めて教えてくれた。
 「ああ!」
 トマスは丸顔のドロテア叔母さんのことを思い出して笑顔になった。ドロテア叔母さんはアマチュアの魔女研究家なのだ。そのくせ身体はふっくらと丸く、レースのついた鮮やかな黄色のワンピースがお気に入りだった。幼い頃、ドロテア叔母さんの家に遊びに行くと、芝居っけたっぷりに魔女が出てくる即興の物語を話して聞かせてくれた。その上、彼女の家ではお菓子を食べたいだけ食べさせてくれるのだ。 
 「無いならともかく、あるものを我慢するなんて馬鹿らしいじゃないの」
 というのが彼女の流儀だった。
 「元気かなあ、ドロテア叔母さん」
 「あの子はもちろん元気ですとも。何があったってしょげるものですか」
 ミネルヴァ夫人の口角が少し上がる。
 「ハンスがあんな風なのに、すっかり楽しんじゃって」
 呆れた表情を浮かべながらも、その口調には愛情が込められていた。
 「え!もしかして、ドロテア叔母さんはこちらに来られないんですか?」
 「今年はスイスですよ。ハンスを気分転換させようとヘンリーが計画を立てたみたい」
 「あら、環境を変えると改善するのですか?」
 小麦粉がついた手を奇妙な形に反らして手首のあたりでボウルの位置をずらしながら、トマスの母が尋ねる。
 「どうでしょうね。治療法はまだ見つかっていないという話だったけど。それくらいしか試すことが無い、ということじゃないかしら。でも、何が功をそうするか分かりませんよ」
 「うまく行くと良いのに。でも、女の子の幻覚が見える以外は、日常生活に支障はないんでしたよね」
 「そのようね。ちょっと浮かれた性格にはなるようだけど。かわいそうにハンスは幻覚が見えだしたとき、最初にヘンリーに相談したんですよ。そうしたら、あの子ったら父親をロリコン呼ばわりして」
 ミネルヴァ夫人とトマスの母は顔を見合わせてクスクスと笑った。
 「お気の毒に」
 「本当ですよ。ヘンリーは少し早合点するようなところがあったかしら、子供の頃からね」
 「それじゃあハンスは、アリスの誘惑症候群と分かってむしろほっとされたでしょうね」
 「それですよ。病名の無かった十年前に発症していたら、それこそ誤解されて大変なことになっていたかもしれませんよ。それは不幸中の幸いといえるでしょうね。おっと!!!ごめんなさい!!!」
 火にかけていた鍋をずらした時、金属同士の擦れるとんでもない音(キーーーーーーーッ!)が鳴った。それは鳴り響いた瞬間、黙々と肉料理やソースを作っていた料理人たちも含め調理場にいるすべての人間がビクッ!!!と停止するくらい衝撃的な音だった。
 トマスは料理人たちがはっと我に返り作業に戻る様子を眺めながら、ドロテア叔母さんの夫の容貌を思い出そうと記憶を探った。何度も会っているはずだが、どうにも思い出せない。跳ね上げたような滑稽な髭が付いていた気がするが、それ以外はぼやけている。トマスの興味は、手早くソースをかき混ぜたり、香草を刻んだりしている料理人たちへと徐々に移行していった。熟練した料理人の動きは魔法のようで美しい。
 ミネルヴァ夫人は普段は一人しか家に料理人を置いていない。自分が料理好きでもあるし、なにより料理人が一人以上集まると、食材の選び方、下準備の仕方、食材の切り方、料理の手順に味の付け方、盛りつけに至るまで、それぞれが自分のやり方以外を許さないため必ずいらぬ争いが起きるというのがミネルヴァ夫人の意見だった。
 「歴史を振り返りますと、正義のためだとか、民族としての誇りだとか、信じる神の名の下になんて様々な大義名分が叫ばれては多大なる血が流れておりますけれど、結局の所、調理場で料理人たちの間で起こっている口論と同じ現象が勃発しているってことなのだと思いますわ。殿方はそりゃあ、納得しないでしょうけれどね」
 というのが、ミネルヴァ夫人の政治不和に関する見解でもある。
 名を呼ばれて母親から一睨みされ、トマスの手はバターを練る任務を思い出し、思考の方はドロテア叔母さんの夫に戻った。とはいえ、どう記憶を巡らしてみても、トマスにはポテトパイを取り合う仲、という印象しか残っていないのだった。ドロテア叔母さんの家にはトマスが天才ジョナサンくんと呼ぶ若いコックがおり、彼の作るパイはどれも絶品である。
 トマスは食べ物のことばかり考えていたせいでお腹が減り始め、クリスマスのご馳走作りに集中することにした。彼が揚げ菓子を美しく飾り付け、巧みなアイシング使いで見事なサンタやトナカイのクッキーを生み出したのでミネルヴァ夫人は大層ご機嫌だった。
 その後もハンス叔父さんとは何度か会ったが、アリスの誘惑症候群については話を聞くことはなかった。母親からキツくそのことに関する質問を禁じられていたからだ。ハンス叔父さんがアリスの誘惑症候群を発症した翌年、ギリシャであったいとこのオードリーの結婚式の時には、ドロテア叔母さん自らアリスに関するジョークを何回か言ったが、あまりウケなかったのでやがてそれも無くなった。それ以来なぜかまるで禁句のようになってしまっている。

               ~*~

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