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路上パフォーマーとお金

遊びに行った帰り、駅前で大道芸を披露している人がいた。なんとなく時間があり楽しいことをしたりなかった私たちは足を止めて少し離れたところから見てみることにする。大道芸人は20歳そこらに見え「若いのにすごいな」と尊敬の念を持ちつつ見守っていた。

幼い頃、私の家には大道芸の道具がいくつかあった。観光地に行った際に大道芸人さんが集まってショーや道具の販売をしているところに出会したのだ。その時が私が大道芸に触れた初めての機会である。当時小学校に入ったかどうかくらいの幼い私は引かれた線の前に体育座りをしながらドキドキして楽しそうに芸を披露するおじさんを見上げていた。
子供ながらに興奮して観ていた記憶がある。

その後大人になり大きな駅に出る機会が増えると大道芸に限らず路上でパフォーマンスをする人はよく見るようになった。興味があれば足を止め、楽しい時間を過ごさせていただいた分、気持ちをお渡ししていたし、お渡しできる状況でなければ足は止めないようにしていた。

今回出会った大道芸人の話に戻ろう。私たちが観始めたのは芸が始まった直後だった様で、みるみるうちに彼の言葉に魅せられ人が集まってきた。最後には50人ほど集まっただろうか。駅の利用者のことを考え前に集まるように声をかけられた私たちは観始めるのが早かった分、最前列に並ぶことになった。彼のショーは20分ほどで3つの芸を披露していた、1つ目2つ目が終わり本格的に人が集まって来たところで最後の演目前に彼は自分の生活の話を始めた、『大道芸だけで食べていっていること』『コロナ禍でかなり苦しい生活を強いられたこと』『仕送りやバイトはせずに人前に出てショーをすることでしか収入を得ていないこと』、、そしてその後「今回観てくれている人はどうかお札を最後にお渡しください」と話していた。そして演目の準備に移り手を動かしながら自分の芸の危険性について話を始め準備が終わると同時にその話を終えると「先ほど言ったお札という言葉で千円札、五千円札、一万円札と3種類を思い浮かべたと思います。どうか千円札ではなく五千円札、一万円札…もし千円札でも3枚、4枚下さると、、」と流暢に話し始めた。日本はパフォーマーに対するお金が小さいことや他の大道芸人も困っていると訴えかけていた。
私は元より足を止めてパフォーマンスを楽しませてもらった時には五百円玉か千円札を渡していた。軽い気持ちで足を止めいつの間にか最前に立っているのにすごく居心地が悪かった。私はお金に余裕があるわけではなく、観ていた友人もある程度お金には困っている。いくら懇願されてもない袖は振れない。それにタダ観するつもりではなかったものの、正直に言ってしまえばたまたまいたから足を止めただけで3枚も4枚も渡せるほど価値を見出したからではない。初めて観た大道芸と立っている場所は同じでも全く違う気持ちで観ていた。居心地の悪さに気を取られているうちに演目は終わり箱を持ってキョロキョロしながら「ありがとうございます」と早口で繰り返す彼に結果私たちはそれぞれ千円ずつ渡し去った。

彼はもちろん目先のお金の話だけをしているのではないだろう。自分と同じ様に生きる人がもっと増えて、もっと楽に生きられる様にと願っているのだと思う。では本人の目指す大道芸のあるべき姿とはなんなのだろうか。
私は子供の頃に見た生き生きとした大道芸人さんに会いたくて足を止めた、私の記憶に残る彼らは表情豊かで明るかった。ワクワクして観て、母にもらったお気持ちをドキドキしながら近づいて渡した。だが今回は生活の辛さを説明する悲痛な表情や芸の危険さを示す不安な表情ばかり印象に残っている。そして私も気まずい思いでお金を渡し、目も合わぬまま離れ帰路へ着いた。路上で他の人がいくら渡しているのか気にしたのなんて初めてだ。

対価を設定しない路上パフォーマンスには定額チケットが必要な公演の様に価値に対する責任は付かない。価値を決めるのは私たちだという前提があるからだ。にも関わらず集まったところで声を大にして金額を指定するのは強制ではないにせよ協調性や羞恥心、常識を人質にとっていると言っても過言ではないのではなかろうか。
楽しい思いをさせていただいたり空いた時間を過ごさせていたた分私たちがお金を払うのは当然だとは思う。だがそれはあくまで[気持ち]であり自分の財布と相手への気持ちと相談して決めるもので相手から金額を指定するものではないと私は思う。

あまり長々と書くのも嫌なので今回は皆まで語るつもりはないが、私は今後しばらく暇つぶしに路上でショーを観ることは無いだろう。わざわざ暇な時間に複雑な気持ちになるリスクを取るのは馬鹿らしいからだ。

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