ロシア語一日一善

ロシア語一日一善(303)

Умные люди учатся для того, чтобы знать; ничтожные - для того, чтобы их знали.

Восточная мудрость

全体の文はセミコロンによって、まず二つに分けられる。Умные люди учатся для того, чтобы знать 「賢い人々は知るために学ぶ」ничтожные (люди учатся) - для того, чтобы их знали 「取るに足らない人々は、それらを知るために学ぶ」ここでの их は何を指すのか。この文で出てくる複数形は、Умные люди と ничтожные だけで、後者の場合はこの文の主語であるから、もしそうであれば、себя が用いられるはず。したがって、Умные люди ではないかと読んで解釈すると、「取るに足らない人々は賢い人々を知るために学ぶ」となる。セミコロンは、より大きな区切りとして用いるので、ここではコンマの用法と同じだが、同種成分である単文を繋いでいると解釈して良さそうだろうか。もしくは а 等の接続詞を補って考えるべき?

有名人の伝記とかを読んで、その人物を知るために学ぶということなのか?例えば、哲学史を学ぶことと哲学そのものを学ぶことは全く異なる。過去の偉大な哲学者がどう考えたのかを知ることは平凡な人がやることで、物事の問いの立て方や考え方といった哲学の仕方を学ぶことが賢い人々のやることなのかもしれない。

試訳

賢い人々は知るために学ぶが、凡庸な人々は賢い人々を知るために学ぶ。

東洋の知恵

八島雅彦の訳注を参考にすると、

賢明な人びとは知るために学び、つまらない人びとは人に知られるために学ぶ

東洋の知恵


となっており、их の解釈を間違えたことが分かった。их は умные люди ではなく、ничтожные (люди) を指しているようだ。себя が用いられるのではないか、という疑問は、знали の主語を無意識に ничтожные と想定していたところからくる勘違いだった。考えてみれば、主文の主語と чтобы の節の主語が一致するならば、過去形にする必要がないわけで、чтобы 節に過去形が用いられているということは、主文とは違う主語であるという読みを働かせる必要があった。主語が表れていない場合は、不定人称文を疑わなければならない。ここでの趣旨は、凡人はただ己の虚栄心のために学ぶのだという意味でとらなければならなかった。

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