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昭和10年代の台湾-台湾に生きる沖縄奴隷

自分は宜蘭に親しき知合いもなく只の過客に過ぎぬのであるが、この日の宿は自分以外の客が居なかったことから、宿に居る沖縄出身の雇人が話しかけてきた。身上話を聞いていると男は元々糸満の奴隷(糸満売り)で年季が開けて台湾に出てみたものの、蘇澳で足疾となり帰る処もないものだから此処に住み込みで働いているのだと云う。まだ若く、相当に悲惨な人生を送ってきた筈であるが、全く屈託のない男であった。

(『昭和庚寅(1940)台湾後山之旅』より)

酒の肴に芸妓を呼ぶと、やって来たのは沖縄出身の愛嬌ある女であった。宜蘭界隈に沖縄出身は多いのかと訊くと、数はわからないが相当に多いと云う。自分は本島出身で、良人と羅東に出稼ぎに来たが、二年前に事故で亡くしてから、今は一人で礁渓にいる、子も居ないものだから、月に一度宜蘭へ買い物に行くのがただ一つの楽しみなどと云っていた。

(『昭和庚寅(1940)台湾後山之旅』より)
(宜蘭県の地図 台湾・労働部のウェブサイトより引用)

日本の奴隷制度

日本では現在でも「年季奉公」という名目の奴隷制度が(医療従事者を中心に)残っています。
この記録にはふたりの沖縄人が出てきます。いずれも奴隷制度の犠牲者といってまちがいのない、相当に悲惨な境遇なのですが、ふたりから陰気さは感じられません。これは筆者のものする文章によるところも大きいのでしょうが、当時は公的扶助がきわめて貧弱で、泣いていても誰も助けてくれない時代であったことも大きいのだと思います。

糸満売り

前者の男は糸満の奴隷、つまり糸満売りだったそうですが、糸満売りとは年季奉公という名目で少年を漁業労働に従事させるという奴隷制度で、沖縄では1955年まで認められていました。
戦前の沖縄というと一般に「悲惨な沖縄戦」をイメージしますが、悲惨なのは戦争だけではなく、平時においても生きていくためには相当苦しい思いをしていたわけです。つまり、貧困の恐怖にほかならない。
男は、年季が明けてから台湾の蘇澳に出てきたと書かれています。蘇澳近海は台湾随一の漁場として知られていることから、男はおそらく漁業に従事していたと思われます。しかしここで足疾(病気なのか怪我なのかはわかりません)になり働けなくなったため、流れついてこの旅館で下働きしているとのことのようです。


温泉芸者

後者の女は礁渓温泉の芸者さんです。羅東という聞きなれない地名が出てきましたが、こちらは宜蘭と蘇澳の中間に位置する林業で発展した町で、筆者はこの町を訪ねていませんが、宜蘭よりも活気があったといわれています。
配偶者は事故で亡くしてしまったとありますので、今でいう労働災害でしょうが、まともな補償などない時代です。ただ、まだ若く、歌の心得があったことから、温泉芸者として働いているということでしょうか。
一般に沖縄や澎湖島といった離島には芸能に長けた人が多いといわれます。安室奈美恵は沖縄で寿司、若くして亡くなった張雨生も澎湖島出身です(このセレクトは年齢がばれてしまいますね)。陳舜臣のエッセイで、台風シーズンが多く外に出られないことから芸能がさかんになったという話を読んだことがありますので、このときにノドを鍛えたということでしょうか。

手に職をつける

戦後の筆者は和歌山市に住んでいましたが、田辺の文里(もり)港にリバティ船(台湾からの引き揚げ船)が来ると、もしかすると台湾にいたときの知り合いが乗っているかもしれないと思い、和歌山駅(現在の紀和駅)まで見に行ったことがあるそうです。結局すべて空振りだったようですが、筆者の「我的台湾経験」はあれこれと思うところがあったようです。以下、参考までに。

姉は中学を卒業して就職しようとしていたとき、おじ(※筆者のこと)に「和歌山で就職したいから世話して欲しい」とねだったのですが、おじは「まずは勉強して手に職をつけなさい」と高校進学を勧めました。当時は高校受験に英語が入るとか入らないとかでもめていた時代でした。(私の)父なんかは「早く嫁に行けばいいんだ」などと言っていましたが、おじの日記を読んでいると、「女の人生」がいかに弱いものであるかをいやというほど理解していたから、姉に進学を勧めたのかもしれないと思いました。

(聞き取り記録『遺忘時代』より)

なお、筆者は1955年まで生き、この年の正月に癌で亡くなりました。
また、おじ(筆者)の記憶を語ってくれた方も2020年に逝去しました。謹んで冥福をお祈り申し上げます。

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